1975年からF1に参戦し続けるウィリアムズは最も長くグリッドにいるチームのひとつである。これまでに数多くのエンジンパートナーと手を組み、数々の印象的な結果を残してきたウィリアムズはコンストラクターズ選手権を9回、ドライバーズ選手権を7回制し、通算113勝を挙げている。

デビュー戦は1975年ではあるが、正式にウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングとなったのは自らのマシンを製造し始めた3年後のこと。ウィリアムズ代表はパトリック・ヘッドを味方につけ、以来、F1で最長かつ最強のパートナーシップを築き続けている。ヘッドの初作品FW06はアラン・ジョーンズの手によって1978年にサーキットに登場。複雑なシーズンではあったものの、16ポイントを獲得している。翌年はFW07を駆るクレイ・レガッツォーニがシルバーストーンで優勝を果たし、ウィリアムズ念願の初勝利が訪れた。続いてジョーンズも勝利を挙げ、ウィリアムズの快進撃が始まる。

1980年、ジョーンズのチームメイトとして迎えられたのはアルゼンチンの英雄カルロス・ロイテマン。この年はジョーンズが安定した走りを繰り返し、ドライバーズおよびコンストラクターズのダブルタイトルを獲得した。次の年もチームは世界王者の称号を手にしている。 それから数年の時を経た1986年3月、ウィリアムズ代表がポールリカール・サーキットから帰宅する運転途中で交通事故に遭遇。下半身不随となって車椅子での生活を余儀なくされ、ほぼ1年間、サーキットに戻ることができなかった。チーム代表不在にもかかわらず、ウィリアムズは9勝を挙げて3度目のコンストラクターズタイトルを手中に収める。しかし、最終戦オーストラリアGPでナイジェル・マンセルが18周目にタイヤバーストによりリタイア、このレースで優勝したアラン・プロストにドライバーズタイトルを奪われてしまった。ウィリアムズ代表が現場復帰を果たした1987年はネルソン・ピケと共にコンストラクターズとドライバーズの両選手権を制している。

ホンダエンジンを失った1988年、ウィリアムズは主要なエンジンメーカーを確保できず、ライバルたちがターボエンジンを搭載する中、戦闘能力に欠けるジャッドエンジンを載せて戦いに挑んだ。前年にタイトルを獲得したピケもチームを去ってロータスに加入、後任にリカルド・パトレーゼが起用されている。その後、1989年にルノーとの長期契約にこぎつけたウィリアムズはルノーがF1を撤退する1997年までその関係を楽しんだ。

フェラーリで2シーズンを過ごしたマンセルがチームに復帰してから1年後、マンセルはワールドチャンピオンに輝き、チームの5度目のコンストラクターズタイトル獲得に貢献、そのキャリアで最も成功裏に満ちたシーズンを送る。"無冠の帝王"と呼ばれ続けたレッド5、ナイジェル・マンセルに初の栄冠がもたらされた。しかしながら、猛烈なウィリアムズのシート争奪戦の末、マンセルはインディ選手権に移籍。したがって、マンセルがカーナンバー1をつけて走ることは一度も実現していない。替わってシートに収まったのはアラン・プロスト。プロストの計算高い走りで、この年もチームはずば抜けた強さを見せて2年連続のダブルタイトルを獲得するも、プロストもまたシーズン末に引退を表明する。

ウィリアムズ代表はセナに初めてF1マシンをドライブする機会を与えた人物だ。ウィリアムズ代表は、かねてからセナのチーム加入を切望し、ついに1994 年シーズンにセナとの契約が成立。しかし、悲劇が起こった。第3戦サン-マリノGPでセナがレース中の事故でこの世を去ったのだ。突然訪れた悲しみが、 ウィリアムズ代表に、そしてチーム全体に大きな影を落とした。だが、F1は悲しみを受け止めなければならない。セナ亡き後はデイモン・ヒルがチームのエースとなった。失望を乗り越え、セナと同じマシンでミハエル・シューマッハに挑んでいくヒルの勇敢な走りは悲しくもファンに感動を与えるものだった。結局、最終戦でシューマッハと接触、両者リタイアしたことによりヒルのドライバーズタイトル獲得はかなわなかったが、チームにはコンストラクターズタイトルがもたらされている。セナの死後、ウィリアムズはセナへの敬意を表してすべてのマシンに"S"の文字を刻んでいる。

インディからやって来たジャック・ビルヌーブと、デイモン・ヒルの2人で臨んだ1996年は16戦中12勝を記録。ヒルは念願のドライバーズチャンピオンを獲得し、ビルヌーブも2位で続いた。ウィリアムズは8度目のコンストラクターズチャンピオンの栄冠を手に入れている。 ヒルはシーズンが終わると同時にチームを離れ、1997年はビルヌーブのパートナーとしてハインツ-ハラルド・フレンツェンが加わった。フェラーリのミハエル・シューマッハが最後までタイトルの座を脅かしたものの、ウィリアムズは2年連続のダブルタイトルを獲得。チームのタイトル獲得回数はこれで9回となった。

何度か勝利を重ねたものの、1990年代後半からウィリアムズのパフォーマンスは下降の一途をたどる。復調を遂げた2003年は4勝を記録して王者フェラーリに迫り、コンストラクターズチャンピオンの座をかけた戦いは最終戦日本GPまでもつれたが、結果は2位だった。

2005年シーズン途中、ウィリアムズのエンジンサプライヤーを務めていたBMWがザウバーを買収、ウィリアムズを離れて自チームを結成することを表明する。そのため、ウィリアムズは2006年に向けてコスワースとエンジン供給契約を締結。開幕当初こそ、ニコ・ロズベルグがF1デビューレースとなった初戦バーレーンGPで2 ポイントを獲得し、ファステストラップを記録するなど輝かしいスタートを切るも、ウィリアムズ・コスワースは無数の信頼性問題に苦しみ、悲惨なシーズンを過ごしている。

ダブルディフューザー問題がぼっ発した2009年、当初からその技術を導入していた3チームの一角を担ったウィリアムズだが、唯一その利点を生かしきれなかったチームでもある。また、ロズベルグの活躍の一方で中嶋一貴が苦戦を強いられる。最終的にチームのポイントはすべてロズベルグが稼ぎ出し、ウィリアムズはランキング7位でシーズンを終えた。

翌シーズンはドライバーを総入れ替えし、ベテランのルーベンス・バリチェロにテストドライバーから登用したニコ・ヒュルケンベルグを組み合わせる。バリチェロが次年度もウィリアムズドライバーとして戦歴を伸ばしていったのとは対照的に、ヒュルケンベルグは第18戦ブラジルGPでポールポジションを獲得して周囲を驚かせたにもかかわらずこのシーズン限りでシートを失った。

バリチェロの新たな相棒になったのは『PDVSA』の資金力をバックに持つパストール・マルドナド。だが、マルドナドの加入初年度はチーム史上最も厳しい1年となり、第6戦モナコGP開始時までノーポイントという苦境に陥る。この年ウィリアムズが集めた得点はわずか5ポイントにとどまり、テクニカルディレクターのサム・マイケルが責任をとってチームを離脱した。

心機一転を図りルノーエンジンに切り替えて迎えた2012年はマルドナドが第5戦スペインGPでチームに8年ぶりの優勝をもたらす。たびたびインシデントの原因となるなど振るわぬレースもあったものの、マルドナドはシーズン末までに45ポイントを得点した。バリチェロの後継者としてウィリアムズを駆ったブルーノ・セナの31得点と合わせ、チームは76ポイントでランキング8位につけている。

2013年にはウィリアムズ代表の娘クレアが副チーム代表に就任。また、マルドナドの僚友としてリザーブドライバーだったバルテリ・ボッタスがレースドライバーに昇格する。前年のような活躍が期待されたのとは裏腹にチームの成績は低迷し、2011年と同じく5ポイントで選手権9位という結果に終わった。

2014年はメルセデスエンジンにスイッチし、フェラーリから迎え入れたフェリペ・マッサとボッタスのコンビで巻き返しを図る。