ルーベンス・バリチェロ  ブラジル

driver portrait
F1キャリア / 戦績
Year Car Race Start Won Pod Class Best Pole Front Best Lap Hat Pts Pos
1993 Jordan 16 16 0 0 8 5 0 0 8 0 0 2 18
1994 Jordan 16 15 0 1 8 3 1 1 1 0 0 19 6
1995 Jordan 17 17 0 1 8 2 0 0 5 0 0 11 11
1996 Jordan 16 16 0 0 9 4 0 1 2 0 0 14 8
1997 Stewart 17 17 0 1 3 2 0 0 3 0 0 6 14
1998 Stewart 16 15 0 0 6 5 0 0 5 0 0 4 12
1999 Stewart 16 16 0 3 11 3 1 1 1 0 0 21 7
2000 Ferrari 17 17 1 9 13 1 1 2 1 3 0 62 4
2001 Ferrari 17 17 0 10 14 2 0 3 2 0 0 56 3
2002 Ferrari 17 15 4 10 12 1 3 8 1 5 0 77 2
2003 Ferrari 16 16 2 8 11 1 3 6 1 3 1 65 4
2004 Ferrari 18 18 2 14 17 1 4 8 1 4 1 114 2
2005 Ferrari 19 19 0 4 17 2 0 0 5 0 0 38 8
2006 Honda 18 18 0 0 15 4 0 0 3 0 0 30 7
2007 Honda 17 17 0 0 15 9 0 0 9 0 0 0 -
2008 Honda 18 18 0 1 13 3 0 0 9 0 0 11 14
2009 Brawn 17 17 2 6 16 1 1 4 1 2 0 77 3
2010 Williams 19 19 0 0 17 4 0 0 6 0 0 47 10
2011 Williams 19 19 0 0 16 9 0 0 11 0 0 4 17
Total 326 322 11 68 229 1 14 34 1 17 2 658
グランプリ サーキット 開催日
デビュー戦 南アフリカGP キャラミ 1993年3月14日 レース結果
ラストレース ブラジルGP インテルラゴス 2011年11月27日 レース結果
プロフィール
© Sutton Images

F1における総獲得ポイントランキングで4位につけるルーベンス・バリチェロは2011年、名門ウィリアムズで19年目のシーズンを過ごす。ウィリアムズは2010年に堅実なシーズンを過ごしたバリチェロと契約を延長、F1史上最多出走記録の更新が続くことになった。

インテルラゴス・サーキットのすぐそばで生まれたバリチェロはモータースポーツ一家に育ち、カートを初めて与えられたのは6歳の時。1986年にはカートの南アメリカチャンピオンに輝き、1年後にはすでにF1トップドライバーだったアイルトン・セナのスポンサードを受け、カート世界選手権で総合9位に食い込んだ。

16歳になったバリチェロは1989年、カートからフォーミュラ・フォードへステップアップ。その後、F1ドライバーになる夢を追いかけて、ブラジルからイギリスへと移り住む。当時の年齢ではイギリスで乗用車を運転できなかったため、バリチェロは父親の免許証を使ってこっそり運転していたらしい。

1991年にはイギリスF3選手権のタイトルを獲得して当時の史上最年少記録を樹立。この記録は2004年にネルソン・ピケJr.に破られるまで保持されていた。

1993年に待望のF1デビューを果たしたバリチェロは、その13か月後に日本のTIサーキット英田(現在の岡山国際サーキット)で行われたパシフィックGPにて、F1初表彰台に上る。その1994年シーズンは総合6位となったが、偉大なる先輩であるセナが亡くなったサン-マリノGPでは、バリチェロ自身も予選で激しいクラッシュに見舞われていた。

F1デビューを果たしたジョーダンで3年を過ごした後、1997年にはスチュワート・フォードに移籍する。そこでは3位表彰台を3回記録し、1999年末にフェラーリと契約。F1史上最も成功したシューマッハのチームメイトとなったのだ。そして2000年のドイツGPで、バリチェロはF1初勝利をマーク。表彰台では涙を流して喜びを表していた。

そして2006年、バリチェロはフェラーリを離れてHonda Racing F1に加入する。しかし2007年は最悪のシーズンとなり、初めてノーポイントで1年を終えることとなった。2008年トルコGPでは、それまでリカルド・パトレーゼが持っていた256戦のF1最多出走記録を更新している。

2009年はHonda撤退を受けてロス・ブラウンがオーナー兼代表に就任したブラウンGPのレースドライバーを務める。6度の表彰台と2勝をマークしてチームのコンストラクターズ選手権制覇に貢献、自身もランキング3位につけ、速いマシンを与えられたときは競争力を発揮できることを再び示した。

2010年シーズンはウィリアムズに移籍、チームメイトとなったルーキーのニコ・ヒュルケンベルグに道を示すかのようにベテランらしいパフォーマンスで多くの入賞を記録している。新シーズンに先立ち、ウィリアムズはバリチェロのパートナーにパストール・マルドナドを指名。再びルーキーをチームメイトに迎えたバリチェロはいまだかなえられていない母国ブラジルGP優勝の夢を含め、2011年も最も経験豊富なドライバーとしてF1グリッドに君臨する。

【長所と短所】

最も安定感あるドライバーと言われるバリチェロは60回を超える表彰台、600ポイント以上の得点を記録している。シューマッハがいたフェラーリやジェンソン・バトンとタッグを組んだブラウンGPではセカンドドライバーという位置づけだったものの、ウィリアムズではナンバー1ドライバーとして力を発揮するチャンスを得ている。

【キャリア最高の瞬間】

F1で123戦目を迎えた2000年ドイツGP、ホッケンハイムリンクを18番グリッドからスタートしたバリチェロが初めてF1の表彰台で頂点に立った。ブラジル国歌が流れ、ブラジル国旗が表彰台の真ん中に掲揚されたのは、1993年オーストラリアGPでセナが勝利して以来のことだった。バリチェロが感極まっていたことは間違いない。

【キャリア最低の瞬間】

1994年サン-マリノGPで経験した大クラッシュはバリチェロの生命にかかわるアクシデントだった。予選中に時速140kmで縁石に乗り上げたマシンは上空に飛び、バリアに突っ込んでバリチェロは意識を失った。体のあちこちを負傷し、意識を取り戻したのは病院のベッドの上。その傍らには様子を見守るセナの姿があった。しかし、2日後に行われた決勝レースでそのセナが帰らぬ人となる。バリチェロはこのとき、モータースポーツからの引退を考えた。

【注目のコメント】

ルーベンス・バリチェロ

◆ かつてのチームメイト、シューマッハについて

「マイケル(ミハエル・シューマッハの愛称)の方が、僕よりも技術があるかもしれない。だけど、もし僕ら2人が虎のいる檻に投げ込まれたとしたら、僕は生きて帰ってくるだろう。彼はどうか、よく分からない」

◆ 2001年に生まれた長男エドゥアルド君について

「レースを終えて家に帰った時は彼の考えたことについておしゃべりするんだ。僕がタフなレースを終えたとき、表彰台で怒りを表していた理由について問われたよ。表彰台に上るのは最高のことなのにどうしてってね。それを聞いてからは、今後は表彰台で怒ったりしないって彼と約束したんだ」

【トリビア】

バリチェロのニックネームは"小さなルーベンス"という意味のルビーニョだ。これは、彼の父と祖父もルーベンスという名前を持っていたことに由来している。さらにバリチェロと父親の誕生日はいずれも5月23日だ。

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