アイルトン・セナ  ブラジル

driver portrait
F1キャリア / 戦績
Year Car Race Start Won Pod Class Best Pole Front Best Lap Hat Pts Pos
1984 Toleman 15 14 0 3 6 2 0 0 3 1 0 13 9
1985 Team Lotus 16 16 2 6 9 1 7 10 1 3 1 38 4
1986 Team Lotus 16 16 2 8 10 1 8 9 1 0 0 55 4
1987 Team Lotus 16 16 2 8 12 1 1 4 1 3 0 57 3
1988 McLaren 16 16 8 11 14 1 13 15 1 3 2 94 1
1989 McLaren 16 16 6 7 9 1 13 16 1 3 2 60 2
1990 McLaren 16 16 6 11 12 1 10 11 1 2 2 78 1
1991 McLaren 16 16 7 12 15 1 8 11 1 2 0 96 1
1992 McLaren 16 16 3 7 9 1 1 5 1 1 0 50 4
1993 McLaren 16 16 5 7 12 1 1 3 1 1 0 73 2
1994 Williams 3 3 0 0 0 - 3 3 1 0 0 0 -
Total 162 161 41 80 108 1 65 87 1 19 7 614
グランプリ サーキット 開催日
デビュー戦 ブラジルGP ジャカレパグア 1984年3月25日 レース結果
ラストレース サン-マリノGP イモラ 1994年5月1日 レース結果
プロフィール

F1に輝く最も偉大なドライバーは誰かという議論において、この3度のタイトルと41勝、65ポールポジションを挙げたドライバーの名前に反論するのは難しい。アイルトン・セナは一人の人間としては意見が分かれるかもしれないが、ドライバーとしての評価は揺るぎないものだ。

機知に富んだセナは4歳のときに小さなゴーカートに取りつかれ、13歳にして初めてのレースに勝利した。17歳で南米カート選手権のチャンピオンとなり、世界カート選手権で戦った後にイギリスのシングルシーターの世界に戦いの舞台を移した。3度目のレースで勝利したセナはフォーミュラ・フォード選手権で優勝したものの、両親の要請によりブラジルへ戻る。しかしながら、家族の問題よりもレースへの情熱が勝り、再びイギリスへ。成功を続けたセナは1983年にイギリスF3選手権のタイトルを取ってウィリアムズ、マクラーレン、ブラバム、そして比較的新しいチームだったトールマンでのテスト機会を得た。

1984年、セナはトールマンからF1参戦を果たし、コンディションがきわめて悪化したためにレース距離の75%に達する前に終了となったモナコGPで2位に入る。驚異的な才能にハイライトがあたるにはそれで十分であり、同シーズンのモナコ以降で果たした3回のフィニッシュの内、2回を表彰台で飾った。トールマンは自らの野心にはそぐわないと考えたセナは契約を買い取って翌シーズンにロータスへ移籍。初勝利をつかむまでに長くはかからず、第2戦ポルトガルGPでポールポジションを獲得すると、またもやひどいコンディションの中で優れた走りを見せ、1分以上の差をつけて勝利を決めている。シーズン後半にはウエットになったベルギーGPでの優勝を含む5回連続表彰台を達成してランキング4位に。一方で彼をグリッド最速の男として知らしめたのは7ポールポジションの記録だった。

それから2シーズンを通してさらに4勝を挙げるも、1987年末にはランキング3位とタイトルへの挑戦は振るわなかった。このためにセナはマクラーレンへ移籍し、そこで大きな成功を収めることとなる。同チームでのデビュー戦ではポールポジションを獲得するも、ギアボックストラブルによってフォーメーションラップ後にスペアカーに変更。グリッド後方から一時は2番手まで追い上げたが、レースが半ばまできたところでスペアカーへの変更に対して失格処分が下された。すぐにその遅れを取り戻したセナは残る15レースで8勝を挙げ、7勝だったチームメイトのアラン・プロストを抑えてこの年の王者に輝いている。

これがF1史上最も偉大なライバル関係の始まりだった。続くシーズンで2人は再度タイトル争いを演じ、今度は鈴鹿のシケインでセナに接触したプロストがセナからタイトルを奪う。プロストはフェラーリへ移籍し、セナはFIA会長のジャン-マリー・バレストルと言葉の戦争へ。一年後の鈴鹿でこの争いは頂点に達し、ポールポジションを獲得したセナがコースのクリーンな側への変更を希望したものの、バレストルが阻止。リベンジなのかバレストルへの意思表示か、2番手スタートのプロストが好ダッシュを決めると予想される中、セナはターン1でプロストに接触し、2度目のタイトルを手にしている。

1991年はそれほど議論を呼ぶものとはならなかった。マンセルと時速320kmで数センチの距離を走るという接戦の後、シルバーストーンではレースに優勝したマンセルのマシンに同乗してパルクフェルメへと帰還。鈴鹿で3度目のタイトルを手中にしたが、翌1992年には扱いが難しく信頼性に欠けるマシンで苦戦する。マクラーレンの進展具合に落胆したセナはチームに献身できないままにシーズンを終えた。ウィリアムズ移籍を熱望したセナだが、プロストの存在がそれを阻む。プロストはセナをチームメイトに迎え入れないという条項を契約に含んでいたのだ。プロストを腰抜けと呼んだセナはマクラーレンと1戦ごとの契約を結んで続くシーズンに参戦。力強い幕開けでチャンピオンシップをリードしたものの中盤に失速してタイトル争いから脱落し、プロストが王座をさらっていった。終盤に2勝したセナはこの年の2位だった。

プロストの契約に含まれていた条項が失効して、セナは1994年にウィリアムズへ。一方のプロストは引退の道を選んだ。セナが手にした新しいマシンにはスピードがあったもののドライブが難しく、開幕から2戦でポールポジションを得るもフィニッシュすることはできなかった。この間、ベネトンのミハエル・シューマッハが最大限のポイントをもぎとっている。第3戦サン-マリノGPが行われたイモラでは、序盤のセーフティカーピリオドでシューマッハをリードしていた。リスタートと同時に激しくプッシュしたセナは2周後のタンブレロで右に逸れ、コンクリートウオールに衝突。世界中のファンが停止したマシンを見守る中、セナはわずかに身を動かす。最速のドライバーは自らのベストを尽くして天に召された。

【長所と短所】

きわだったスピードで65回のポールポジションを達成。また、モナコGPでは5回優勝した。ウエットで強さを発揮し、これまでF1史上に現れた完ぺきなドライバーの一人に数えられる。速さを追い求める欲求はときに行き過ぎるときがあり、モナコでポールポジションを決めた際に自分が恐ろしいと語ったことも。激戦と危険の境界線を超えてしまうことがあった。

【キャリア最高の瞬間】

マクラーレン移籍の初年度だった1988年の世界選手権において、同じマシンで戦ったプロストを打ち破ったこと。

【キャリア最低の瞬間】

1989年日本GPでプロストに接触された後、シケインカットで失格になったこと。これでタイトルはプロストの手に渡った。

【注目のコメント】

「僕は自分の限界、体や精神の限界についてどんどん学んでいる。それが僕の生き方だ」

1990年日本GPでクラッシュした後、プロストが語る。 「彼がしたことにはうんざり。彼は価値のない人間だ」

【トリビア】

1993年日本GPでリードしている際、セナはエディ・アーバインを周回遅れにしたものの、その後デイモン・ヒルと苦闘を繰り広げていたアーバインはセナを抜いて同一周回に戻った。結局は優勝したものの、セナはレース後にアーバインの元へ。2人は口論になり、セナがアーバインに殴りかかるという一場面が見られた。

このページのトップへ上へ

最新ニュース

このページのトップへ上へ

最新画像

2014年3月20日

セナの誕生日を記念するグーグル・ドゥードゥル

2012年1月12日

セナのロータス99T

2012年1月12日

セナのマクラーレンMP4/8

     

関連画像リスト

このページのトップへ上へ