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今日は何の日:5月30日

インディアナポリス500初代ウイナーのレイ・ハルーン © Unknown
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5月30日は伝統的にインディアナポリス500の開催日である。初開催は1911年、その後1950年から1960年まではF1世界選手権の一部として行われていた。有名なマイルレースには取り上げるべき数々のハイライトがあるが、ここでは初戦とF1のチャンピオンシップとして開催されていた時代の最終戦、さらにいくつかのレースについて触れる。

【1911年】

平日の火曜日にインディアナポリス500が初めて開催され、多くのエントリーと大衆を惹きつけた。46台のマシンがエントリーしたうち、1周の時速が75マイルを超えた40台が予選を突破。当時はメカニックが同乗することが常識とされていたが、バックミラーに頼ることでメカニックを伴わずに戦うという歴史を生んだレイ・ハルーンが初代ウイナーに輝いた。2位に入ったラルフ・マルフォードがハルーンの走行が1周少ないと主張し、騒動に発展。主張は退けられたものの、議論は長年言われ続けた。前年に引退していたハルーンはこのレースのためだけに復帰し、1万ドルの賞金を手にレース活動から身を引いた。また、レースではアーサー・グライナーがウオールにヒット、メカニックのサム・ディクソンが死亡している。

【1939年】

フロイド・ロバーツがインディ500初の死亡者となった。ディフェンディングチャンピオンとして臨んだロバーツは他のインシデントの結果としてさらに衝突、クラッシュを喫した。このレース後に引退する意向を示していたと報じられたが、コースを離れたロバーツのマシンは木に激突。頭部の負傷が激しく死に至った。

【1953年】

モーターレーシングでは多くの死亡事故が起きてきたが、インディ500の終盤に熱中症で倒れ、レース"後"に死亡したカール・スカーボローのケースは珍しい。

【1955年】

1952年のレースで残り8周まで先頭を走るもメカニカルトラブルが発生したビル・ブコビッチは1953年と1954年のレースで連勝した。1955年はコースの4分の1以上に相当する17秒のリードを築いてトップを快走したが、2回の衝突により宙を舞い、セーフティウオールを飛び越えて何度も回転。その後、炎に包まれる。インディ500で死亡したのはブコビッチが2人目、FIA世界選手権イベントとして開催された中では初めてだった。

【1958年】

インディ500のオープニングラップで15台が玉突き事故を起こし、空中を50フィート飛ばされたパット・オコナーが着地とともに火災が発生、命を落とした。ただし、首の骨が折れていたことから炎に包まれる前に即死していたことが判明している。この事故を受けてインディアナポリスでの安全性に関するルールが変更された。これより3年前に自らのマシンを止めてブコビッチを救出しようとしたエド・エリシアンが事故の原因となり、他のドライバーから敬遠されてしまうことに。翌年のレースで発生したクラッシュの火災によりエリシアンもこの世を去っている。

【1960年】

ヨーロッパのドライバーがアメリカを訪問すること、またその逆のパターンも狙ってインディ500ができたばかりのF1チャンピオンシップに組み込まれた。しかし、最後にF1を含めてイベントに参加したオール・アメリカンのエントリーが示すように、これは完全なる失敗に終わったと言えよう。モナコGPの翌日に組まれていたことが計画の愚かさを露呈している。序盤はジム・ラスマンがリードするも、折り返し地点を過ぎたところからはラスマンとロジャー・ワードによるバトルが展開され、最終的にはタイヤ管理の点で優れていたラスマンが優勝。インディ500史上、最もラップリーダーに変動があったレースだった。

【1964年】

インディ500に8度出場し、一度は2位に入ったこともあるエディ・ザックスが2周目に7台がからむクラッシュで事故死。同じアクシデントでルーキーのデーブ・マクドナルドも命を落とした。ザックスは防炎スーツを着用していたため火災からは逃れたものの、事故のケガによって死に至った。一方のマクドナルドはそれほど運にも恵まれず、燃え盛る燃料を吸い込んでしまい2時間後に死亡。事故によってレースが中断したのはこの時が初めてで、ガソリンからエタノールへの変更へとつながった。

【1965年】

当時36歳だったグラハム・ヒルがモナコGPで通算5勝のうち3回目の優勝を成し遂げるも、終始、ディフェンディングチャンピオンのジョン・サーティースに追いかけまわされる展開となった。サーティースは最終的に残りわずかなところで燃料を使い果たしてしまった。また、同レースではポール・ホーキンスがマシンごと海にダイブした史上2人目、かつ最後のドライバーとして見出しを飾っている。79周を走り終えたホーキンスはプライベーターのロータスでシケインを通過。そこでコントロールを失い、わら俵を突き抜けて海に落ちてしまった。幸い、自力でマシンから脱出でき、泳いで帰還している。

【1976年】

モナコGPでフェラーリのニキ・ラウダが7台のフォード・コスワースエンジン搭載車を従えて優勝した。その7台のうち、6輪車を有するティレルが表彰台に上っている。前半戦の6レースでこれが4勝目、他の2戦でも2位に入ったラウダがドライバーズ選手権トップに躍り出た。スタート直後の第1コーナーでのクラッシュを避けるため、オフィシャルがイエローフラッグを振ったところ、カルロス・ロイテマンとアラン・ジョーンズがマーシャルの目の前で接触、リタイアを喫した。この時点で合計51ポイントを手にするラウダの直近のライバルは15点を獲得していたクレイ・レガツォーニ。『Times(タイムズ)』紙は「バトルはもはや終わった」と伝えたが、現実はそう簡単にいかなかった。

【1999年】

スペインGPでミカ・ハッキネンが前年に続いて優勝し、2度目のタイトル獲得に向けてライバルのミハエル・シューマッハに対するリードを広げた。ハッキネンは次の2000年もスペインGPを制して3連勝している。この年、ハッキネンに続いて2位でチェッカーを受けたのは同じマクラーレンを駆るデビッド・クルサード。ピットストップの際にピットクルーを轢いてしまうハプニングがあった。一方、ジャック・ビルヌーブにとっては最悪の1日で、オープニングラップでフェラーリ勢にオーバーテイクされた上、クルーが外れかけたウイングの交換に手間取ってしまう。加えて、作業を終えてピットを離れようとした際にはギアが故障してストールした。

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