Hondaが即時F1撤退を発表した2008年12月、ブラックリーを拠点とするチームの将来は暗礁に乗り上げた。本田技研工業が1ポンドでの売却を決断したことから、多数の買い手候補が浮上するなど、その冬を通してさまざまなうわさがささやかれた。

新年を迎え、新たなシーズンが目前に迫った2009年3月6日、Honda Racing F1でチーム代表を務めていたロス・ブラウンがチームを買収したことを発表する。"Brawn Grand Prix(ブラウン・グランプリ)"と改名したチームは2009年シーズンのドライバーとしてジェンソン・バトンおよびルーベンス・バリチェロのベテランコンビを起用。エンジンサプライヤーもメルセデスに決定した。

2009年開幕戦オーストラリアGPは3月末の開催だったため、マシンのテストは非常に限られた時間の中で行われている。当然、時間的な問題もあって、多くの人々がブラウンGPの苦戦を予想していた。

しかしながら、ふたを開けてみればメルボルンではバトンがトップチェッカーを受け、バリチェロがきん差の2位でフィニッシュする大活躍。ロス・ブラウンを過小評価すべきではないという事実が証明された。初戦からの10レースで勝利は7勝を数え、コンストラクターズ選手権トップの座を守り続けて後半戦を迎える。

確かに、シーズン終盤に入るとライバルたちの激しい追い上げにあったが、ブラウンGPはシーズンを通して8勝を記録し、2位と3位で表彰台に上った回数はそれぞれ4回と3回、リタイアは2回しかなかった。この素晴らしい結果を手に、史上初の新チームによるチャンピオンシップ制覇という偉業が成し遂げられたのだ。2位のレッドブルには18.5ポイントの差をつけている。また、ドライバーズ選手権も同チームのバトンがタイトルを獲得した。

2009年11月16日、『Daimler AG(ダイムラーAG)』および『Aabar Investments PJSC(アーバル・インベストメンツ)』がチームの株式75.1%を取得、2010年からはメルセデス・グランプリとしてF1に参戦することを発表した。

メルセデスの関与によってチームの歴史は豊かなものになっている。メルセデスは1950年台に伝説的なシルバーアローのマシンをもってF1に新たなレベルのプロフェッショナリズムをもたらした。ファン-マヌエル・ファンジオの手で1954年と1955年のタイトルを獲得したが、1955年のル・マン参戦時に84人の観客が亡くなる大クラッシュを引き起こしたためにメルセデスは競技の世界から身を引く。メルセデスがF1に戻ってきたのは1994年、イルモアが組み立てたエンジンをザウバーに供給する形でのことで、ここからマクラーレンとの成功に満ちた時代へとつながっていく。2010年はメルセデスGPと並んでマクラーレン、フォース・インディアがメルセデスエンジンを使用した。

チーム代表はブラウンGP時代から継続してブラウンが務め、ドライバーにはミハエル・シューマッハとニコ・ロズベルグのドイツ人コンビが起用される。シューマッハは2006年にいったんは引退生活を過ごす決断を下したものの、メルセデスと共に再びモータースポーツ最高峰の世界に戻ってきた。王者シューマッハの復帰には高い期待が寄せられたが、若きチームメイトが大先輩を上回ることが多く、チームをランキング4位に導いた結果も3度表彰台に上ったロズベルグによるところが大きい。

コンビ2年目の2011年にはシューマッハに復調の兆しが見え、2人の差はかなり縮まった。だが、両者とも表彰台に上ることはかなわず、チームのポジションは相変わらず4位のまま。

2012年のメルセデスは予選で強力なパフォーマンスを示す。決勝になればずるずると後退してしまう面があったとはいえ、第3戦中国GPではロズベルグが新生メルセデスの初勝利をポール・トゥ・ウインで飾った。シューマッハも第8戦ヨーロッパGPで復帰後初の表彰台フィニッシュを果たす。しかし、この年をもってシューマッハは再び引退の道を選び、非常勤会長としてチームに加わったニキ・ラウダがシューマッハの後釜としてルイス・ハミルトンをメルセデスへ引き入れた。また、首脳陣にはウィリアムズからクリスチャン・トト・ウォルフも加わっている。

グリッド最強のドライバーラインアップと自負するロズベルグとハミルトンのコンビで挑んだ2013年、メルセデスはレッドブルという圧倒的強者の後方ながら善戦を繰り返す。予選の強さを生かしてロズベルグが2勝、ハミルトンが1勝を挙げてランキング2位につけた。個別の得点数ではハミルトンがロズベルグを上回っている。チームは2014年も変わらぬ布陣でさらなる躍進を目指す。