ミハエル・シューマッハ  ドイツ

driver portrait
F1キャリア / 戦績
Year Car Race Start Won Pod Class Best Pole Front Best Lap Hat Pts Pos
1991 Jordan, Benetton 6 6 0 0 3 5 0 0 5 0 0 4 14
1992 Benetton 16 16 1 8 12 1 0 1 2 2 0 53 3
1993 Benetton 16 16 1 9 9 1 0 1 2 5 0 52 4
1994 Benetton 14 14 8 10 10 1 6 12 1 8 4 92 1
1995 Benetton 17 17 9 11 13 1 4 10 1 8 1 102 1
1996 Ferrari 16 15 3 8 10 1 4 5 1 2 0 59 3
1997 Ferrari 17 17 5 8 13 1 3 7 1 3 1 78 2
1998 Ferrari 16 16 6 11 13 1 3 6 1 6 0 86 2
1999 Ferrari 10 9 2 6 8 1 3 5 1 5 0 44 5
2000 Ferrari 17 17 9 12 13 1 9 12 1 2 0 108 1
2001 Ferrari 17 17 9 14 15 1 11 13 1 3 2 123 1
2002 Ferrari 17 17 11 17 17 1 7 13 1 7 4 144 1
2003 Ferrari 16 16 6 8 15 1 5 6 1 5 3 93 1
2004 Ferrari 18 18 13 15 17 1 8 12 1 10 5 148 1
2005 Ferrari 19 19 1 5 13 1 1 3 1 3 0 62 3
2006 Ferrari 18 18 7 12 16 1 4 9 1 7 2 121 2
2010 Mercedes 19 19 0 0 17 4 0 0 5 0 0 72 9
2011 Mercedes 19 19 0 0 14 4 0 0 5 0 0 76 8
2012 Mercedes 20 20 0 1 13 3 0 1 2 1 0 49 13
Total 308 306 91 155 241 1 68 116 1 77 22 1566
グランプリ サーキット 開催日
デビュー戦 ベルギーGP スパ 1991年8月25日 レース結果
ラストレース ブラジルGP インテルラゴス 2012年11月25日 レース結果
プロフィール
© Sutton Images

2006年に最初の引退生活に突入するまで、その成功に対する貪欲なまでの情熱はミハエル・シューマッハを7度の世界チャンピオンに輝かせた。当時も今もF1史上最も成功を収めたドライバーとして知られるシューマッハだが、彼自身はそれに満足することなく2010年に再びヘルメットをかぶる決意を下す。

2009年シーズン半ばに、負傷したフェリペ・マッサの代わりにシューマッハが復帰するとフェラーリが発表したときには世界中が驚いた。"キングの復活"に、熱烈なレースファンもそうではない人たちも大いに関心を寄せたが、その後10日間にわたってさまざまな推測やメディカル・チェックが実施された後、復帰は白紙に戻される。理由は同年初旬に行った2輪テスト中の落下による頸部損傷だった。

F1におけるシューマッハの驚異的な成功については議論の余地がないわけではない。卓越したスキルによって、シューマッハは世界的な有名人にも大資産家にもなったが、それと同時に数々の判断ミスがあったことも十分裏付けられている。

250戦のうち、ポールポジションからスタートすること68回、そして、91勝を収めたという成績はモータースポーツ界において他に類をみない。その理由として、シューマッハが細部にまで気を配れるからだという人もいれば、ひたむきに努力する正真正銘の才能があるからだという人もいる。また一方では、彼の素晴らしい実績は、ひとえにマネジメントチームと彼の政治手腕が優れているからで、それによって自分の力を最大限に引き出すことができるからだとの主張もある。しかし、シューマッハがまぎれもないスターになった理由は、実のところ、そういったさまざまな要素の相乗効果だろう。

シューマッハのキャリアは父親であるロルフ・シューマッハが作った手作りのカートから始まった。1981年、12歳のときのこと。そして、2年後にはドイツ・ジュニア・カートチャンピオンに輝く。1988年にシングル・シーターにステップアップするまでに、カートで数々のタイトルを獲得している。

フォーミュラ・ケーニヒに進むと、10戦中9勝を挙げてチャンピオンシップを獲得。フォーミュラ・フォードに昇格後はユーフラ・レーシングを駆って得点を上げたが、タイトルは逃している。

1989年はウィリー・ウェバーのWTSレーシング・チームから、ドイツ・F3シリーズに参戦する。元ホテル経営者であるウェバーはシューマッハと10年間のマネジメント契約を結ぶと、自分の事業利益をシューマッハのキャリアに重点的に使い、F1で最も良好なパートナーシップを築き上げていった。シューマッハはF3デビューシーズンを3位でフィニッシュしたが、翌1990年にはシリーズを制覇し、マカオとフィジーでのF3国際レースとともに5つのチャンピオンシップレースで勝利を収めた。

シューマッハは将来有望な選手として評価され、メルセデス・ベンツがハインツ・ハラルド・フレンツェン、カール・ヴェンドリンガーとともにシューマッハをチームのジュニアプログラムに採用、ワールド・スポーツカー・チャンピオンシップに参戦することになった。メキシコシティでのシーズン最終戦に勝利し、シリーズでは5位でフィニッシュ。1991年も同シリーズに参戦し、日本でさらなる勝利をマークしている。しかし、その頃、シューマッハにF1からお呼びがかかる。

ジョーダン・グランプリのレギュラードライバーだったベルトラン・ガショーが逮捕されたため、同チームは1991年ベルギーGPにシューマッハを起用。シューマッハは予選を7番手で通過するも、スタートでクラッチを焼きつかせてしまい、一周目にしてリタイアを喫した。

それでも、シューマッハの活躍がベネトンのボス、フラビオ・ブリアトーレの目にとまり、次のイタリアGPではロベルト・モレノに代わって、3度のワールドチャンピオンであるネルソン・ピケとタッグを組む。

1992年のシューマッハは8回表彰台に上っている。そのうち1度はデビューからちょうど1年後、スパ・フランコルシャン・サーキットでの勝利だった。同シーズンを3位でフィニッシュし、1993年もチームに残留したシューマッハは1勝を挙げてランキング4位に入っている。

1994年はアイルトン・セナが事故死したイモラのレースで勝利を収めたシューマッハにとって、成功と悲しみ、そして物議をかもしたシーズンになった。シューマッハとベネトン・フォードはさまざまな技術上の侵害行為が禁止されたにもかかわらず、デイモン・ヒルを擁する復活したウィリアムズ・ルノーと一騎討ちの状態になり、チャンピオンシップの行方はアデレードでの最後の一瞬まで持ち越された。

そのオーストラリアGPではチャンピオンシップを争うヒルと衝突、ヒルがコースアウトを喫したことで、シューマッハのドライビング規範が物議をかもす。シューマッハが世界チャンピオンの座を獲得した一方で、ヒルは歴史に名を刻むまでその後2年を要している。

ベネトンがエンジンをルノーに替えた1995年、シューマッハは9勝を挙げて2度目のチャンピオンシップ制覇を成し遂げたものの、シーズン終盤にはベネトンを去りフェラーリに移籍する。

フェラーリ移籍後の一年目は華々しいキャリアの中でもとりわけ厳しいシーズンとなった。なぜなら、チーム自体がウィリアムズ勢に劣勢を強いられていたからだ。それでもシューマッハは3勝を手にし、翌1997年にはチャンピオンシップをかけてジャック・ビルヌーブに挑んだ。

タイトル争いは劇的な結末を迎える。ヘレスで開催された最終戦で大接戦を繰り広げたシューマッハとビルヌーブが接触、シューマッハがリタイアを喫した一方で3位に入ったビルヌーブが同年の頂点に立った。この接触において、シューマッハはペナルティを科せられ、チャンピオンシップ2位の資格をはく奪されている。

1998年、シューマッハの次なるライバルはミカ・ハッキネン。しかし、シューマッハは日本で行われたシーズン最終戦でパンクに見舞われ、チャンスを失した。翌シーズンはスタートこそ良くなかったものの、常勝チームに復活を遂げたシューマッハとフェラーリ。しかしながら、イギリスGPでコースアウトしてクラッシュ、足を骨折してしまう。結局、シューマッハはシーズンの大半を棒に振り、フェラーリが1979年のジョディー・シェクター以来願ってやまないチャンピオンシップ獲得の夢を叶えるには次の年まで待たなくてはいけなかった。

そして、ついにシューマッハとフェラーリの黄金時代の幕が開く。5年連続でドライバーズチャンピオンシップを獲得し、5年間を通して48勝を記録したのである。その活躍は2004年のシーズン中盤でチャンピオンシップを決めた後、FIAがポイント採点システムを変更せざるを得なくなったほどだ。

しかし、そんなシューマッハの栄光にも陰りが差し始める。フェラーリのタイヤサプライヤーであるブリヂストンのタイヤがミシュランのタイヤに比べて競争力に劣ることが判明した2005年の勝利は、ミシュラン勢が安全上の問題からレースに参戦しなかったアメリカGPのみ。2006年にブリヂストンの調子が戻ると、シューマッハは7勝を挙げている。チャンピオンシップ獲得の行方はブラジル戦の最後の最後までもつれ込み、予選でトラブルに見舞われたシューマッハは後方からのスタートを強いられるも、驚異的な追い上げを見せる。しかし、最終的には4位でゴールし、フェルナンド・アロンソに2年連続のチャンピオン獲得を許すことになった。

他の誰も真似できないであろう7度の世界チャンピオンシップ制覇という記録を打ち立て、2006年モンツァにてF1からの引退を発表したシューマッハ。引退後も、シューマッハはさまざまなビジネスを手掛けるかたわら、"アドバイザー"としてフェラーリで活動を続け、2輪に挑戦するなど引退生活を満喫・・・していたはずだった。

2009年ハンガリーGP予選でマッサが大ケガを負い、代役が必要となったフェラーリが助けを求めたのはシューマッハ。残念ながら、負傷していた首の状態がF1での走行に不適切との判断により、跳ね馬での復帰はかなわなかったものの、シューマッハの中でレースに対する情熱は徐々に激しさを増していったようで、シーズンが終わって程なく、メルセデスGPから2010年の現役復帰が発表される。

3年のブランクを経てF1グリッドに返り咲いた7度の世界王者だったが、チームメイトのニコ・ロズベルグを上回ることは少なく、表彰台を争うまでにも至らなかった上、一度も優勝することなくシーズンを終えた。

2011年は新たにピレリがタイヤサプライヤーに就任したこともあり、復帰初年度に抱えた問題を解決できるとの自信とともに開幕を迎えたシューマッハ。しかし、マシンの力不足から僚友ともども表彰台に上ることは叶わなかった。それでもシューマッハの競争力は増しており、カナダGPではウエット時に2番手まで追い上げて表彰台争いにからんだ末、チームにとってのシーズン最高位である4位入賞を果たしている。

3年契約の最終年に手にしたマシンが一番強く、メルセデスは2012年中国GPでフロントローを独占。しかし、勝利をつかんだのはチームメイトのロズベルグで、シューマッハはリタイアに終わった。メカニカルトラブルにしろドライバーのミスにしろ、この年はあまりにもリタイアが多く、モナコGPでのポールポジション(グリッドペナルティによって降格)やバレンシアでの表彰台などのハイライトがあったものの、シューマッハはルイス・ハミルトンが2013年にメルセデス入りするとの発表があった後に2012年末をもって再び引退する意志を明らかにした。

シューマッハがこれまでで最も輝かしい成果を収めたドライバーであることに変わりはない。しかし、復帰後には望んでいたような成功が得られず、シューマッハがF1で過ごした最後の3シーズンのタイトルはすべて同郷のセバスチャン・ベッテルが手にしている。ベッテルはレッドブルと共に、ライバルだったシューマッハがフェラーリで築き上げた黄金時代を凌ぐ新時代を打ち立てようとしている。

【長所と短所】

レーシングドライバーとしてはほぼ完ぺきに近いシューマッハだが、勝利に対する貪欲さゆえにしばしば正道を踏み外すこともある。引退を発表した2006年でさえ、モナコGP予選でポールポジションを獲得したいがあまり、道をふさいでしまい論争を巻き起こしている。引退生活を返上して現役に戻った2010年にも、かつてフェラーリでチームメイトだったルーベンス・バリチェロを時速180マイルの状態でハンガロリンクのピットウオールに追い込み非難を受けた。

【キャリア最高の瞬間】

2004年にほぼ完全制覇の形で7度目のタイトルを獲得したこと。

【キャリア最低の瞬間】

1997年にタイトルを争ったジャック・ビルヌーブに衝突し、FIAからランキング2位の資格をはく奪されたこと。

【注目のコメント】

「F1なしの生活なんて想像すらできない」

F1へのアプローチについて。

「マイ・ウェイ(My Way/フランク・シナトラ)って曲を知っているかい? それが自分の気持ちにピッタリな気がする」

【トリビア】

2008年にサン-マリノのチャンピオンだったSSムラタから開幕戦への参加オファーを受けたものの、UEFAチャンピオンズリーグでサッカーをするチャンスを辞退している。

このページのトップへ上へ

最新ニュース

このページのトップへ上へ

最新画像

2013年12月31日

報道陣に状況を説明するサビーネ・ケーム

2013年12月31日

ジェラード・サイヤン博士とジャン-フランソワ・ペイアン教授

2013年12月31日

シューマッハの容体について会見する医師団

     

関連画像リスト

このページのトップへ上へ