ケケ・ロズベルグ  フィンランド

driver portrait
F1キャリア / 戦績
Year Car Race Start Won Pod Class Best Pole Front Best Lap Hat Pts Pos
1978 Theodore, Wolf, ATS 14 9 0 0 3 10 0 0 15 0 0 0 -
1979 Wolf 8 7 0 0 1 9 0 0 8 0 0 0 -
1980 Fittipaldi 14 11 0 1 7 3 0 0 6 0 0 6 10
1981 Fittipaldi 14 9 0 0 3 9 0 0 8 0 0 0 -
1982 Williams 15 15 1 6 11 1 1 1 1 0 0 44 1
1983 Williams 15 15 1 2 11 1 1 1 1 0 0 27 5
1984 Williams 16 16 1 2 6 1 0 1 2 0 0 20.5 8
1985 Williams 16 16 2 5 9 1 2 6 1 3 0 40 3
1986 McLaren 16 16 0 1 8 2 1 1 1 0 0 22 6
Total 128 114 5 17 59 1 5 10 1 3 0 159.5
グランプリ サーキット 開催日
デビュー戦 南アフリカGP キャラミ 1978年3月4日 レース結果
ラストレース オーストラリアGP アデレード 1986年10月26日 レース結果
プロフィール

F1を目指してケケ・ロズベルグ以上に懸命に取り組んだドライバーは少ない。そして、この"フライングフィン"ほど与えられた機会を最大限に生かすことができたドライバーはさらに少ないはずだ。1973年にヨーロッパカート選手権のチャンピオンに輝いたケケはフォーミュラ・ヴィーに進む。しかし、1978年シーズンにさらなる高みの舞台に挑戦するには賞金を稼ぐ必要があった。そのため、ケケはフォーミュラ2、北米を舞台とするフォーミュラ・アトランティック、そしてフォーミュラ・パシフィックの各シリーズに参戦し、一つのシーズン中に36週間で5大陸を渡り歩き41レースを戦っている。

1978年にセオドールでF1デビューを果たしたケケはシルバーストーンで実施された非選手権レースのインターナショナル・トロフィーで見事な勝利を飾った。このときケケはF1参戦を果たしてからわずか2戦目。ウエットコンディションで多くのライバルたちが消えていく中での快挙だった。以降のシーズンはセオドールからATSを経てウルフに移籍、再びセオドールへと戻るなど競争力に欠けるチームで過ごしたケケ。フィッティパルディから参戦した1980年はアルゼンチンGPで3位に入ったとは言え、予選落ちが多く成長はあまり見られなかった。

1981年にはフィッティパルディの資金が尽きるも、幸運の女神はケケを見放さない。1980年のチャンピオンであるアラン・ジョーンズが引退したため、ウィリアムズのシートに空きができたのだ。ポールリカールで実施されたテストで印象的な走りを見せたケケはついに自身の能力を示すにふさわしい競争力を持ったマシンを手に入れる。ウィリアムズでの初年度である1982年には1勝しかできなかったものの、上位フィニッシュを重ねた結果、11人のウイナーが誕生した混戦の同シーズンを制するに十分なポイントを記録した。

1983年はターボエンジン勢に押されてタイトル争いに食い込めず、翌1984年も安定しないシーズンに。しかし、1985年にはトレードマークである比類なきスピードを発揮し、シルバーストーンにて平均時速259kmというスーパーラップを決めてポールポジションを獲得した。この平均時速の記録は2002年イタリアGPでファン-パブロ・モントーヤ(当時ウィリアムズ)が予選トップタイムをマークするまで破られなかった。ケケはこの年に2勝したものの、シーズン序盤から中盤に多発したリタイアの影響でランキング3位に終わっている。

1986年、ケケはウィリアムズを後にし、ニキ・ラウダならびにアラン・プロストと共に2年連続でドライバーズチャンピオンシップを制していたマクラーレンへと移籍する。しかし、チームメイトのプロストに抑えられた上、ポールリカールのテストで友人のエリオ・デ・アンジェリスを失ったことに打ちひしがれ、ケケはこのシーズン末にF1を引退した。とは言えその後もF1パドック周辺にとどまり、フィンランド出身のJ.J.レートやミカ・ハッキネンのマネジメントを担当。さらには息子ニコのキャリアも見守っており、ロズベルグの名はこのスポーツに存在し続けている。

【長所と短所】

仕事熱心で激しく情熱を注いできたケケには速さが期待されており、実際、好タイムを刻んだシルバーストーンで証明されたように速かった。チャンスの到来を逃さなかったケケだが、そのドライビングスタイルは彼自身を次第に疲弊させ、キャリアの最後にはより戦略的な走りをするプロストに敗れている。

【キャリア最高の瞬間】

1982年、ライバルの多くがターボエンジンを使用していたにもかかわらず自然吸気エンジンで戦い抜き、ラスベガスの5位でタイトルをつかみとったこと。

【キャリア最低の瞬間】

1981年に無得点で終わったこと。当時の所属チームだったフィッティパルディにF1撤退の危機が迫り、ケケ自身のキャリアも伸るか反るかの瀬戸際にあった。

【注目のコメント】

「うぬぼれたろくでなしだってことは自分で分かっている」

「僕は多分、自分のキャリアの中で一番速かった。誰かが自分を倒せるなど認めず、ターボ勢と張り合って大きなリスクを冒す覚悟があった」(1983年)

【トリビア】

たった1勝でワールドチャンピオンに輝いたことがあるのはケケの他に、1958年のマイク・ホーソーンのみ。

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