MP4-5を駆り1989年シーズンを制覇したアイルトン・セナ © Sutton Images

もとはブルース・マクラーレン・モーター・レーシングとして知られるマクラーレンは1963年にニュージーランド人F1ドライバーのブルース・マクラーレンによって創設され、3年後の1966年モナコGPでグランプリデビューを果たした。現代のモータースポーツでは当たり前となっているが、カーボンファイバーのモノコックを使用してマシンを製造した初のチームでもある。マクラーレンはF1で最も成功を収めたチームのひとつとして数えられ、通算160勝以上を挙げてコンストラクターズを制すこと8回、ドライバーズ選手権では12回のタイトルを獲得している。

チームの初勝利はブルース自身の手によってもたらされた。1968年にブランズハッチで開催されたノンチャンピオンシップのレースで優勝、ベルギーGPで表彰台の頂点に上った。同シーズン終盤戦のイタリアGPとカナダGPではチームメイトのデニス・ハルムが勝利を挙げ、チームの成功に貢献している。最終的にコンストラクターズ選手権はロータスに次ぐ2位だった。

1970年は最悪のスタートとなる。インディ500に初参戦したものの、プラクティスでクラッシュを喫したハルムが手に大ケガを負う。そして1970年6月2日、イギリスのグッドウッドで CanAmのテストに臨んでいたブルースがクラッシュにより落命。ブルースの死からわずか12日後に行われたCanAm開幕戦ではダン・ガーニーがドライブしたマシンが優勝した。マクラーレンは1972年に同シリーズから撤退したものの、それから2年を経てシリーズ自体が消滅し、通算43勝を記録したマクラーレンが最も成功したコンストラクターとして歴史に刻まれている。

ブルースの死後2年、マクラーレンは南アフリカGPで表彰台の頂点に上る。M19Cを駆ったのはハルムだった。しかし、ドライバーラインアップの豪華さとは裏腹に、勝利数はほとんど伸ばせず。1976年にフェラーリのニキ・ラウダを1ポイント上回ったジェームス・ハントがドライバーズタイトルを獲得するまで、チームからF1王者が誕生することはなかった。

アラン・プロストとラウダ(一時は引退していたが、1982年よりF1に復帰)というスーパーチームと呼ぶにふさわしい布陣を手に入れた1984年、マクラーレンは完ぺきに近いシーズンを過ごす。プロストとラウダの2人はとにかく強く、それぞれ7勝と5勝を挙げている。チャンピオンを獲得したのはラウダだったが、2位プロストとのポイント差はたったの0.5ポイント。F1史上まれに見る接戦 でのタイトル獲得だった。コンストラクターズ選手権はフェラーリに86点の大差をつけてマクラーレンが圧勝している。翌年、プロストの圧倒的な強さによりマクラーレンはダブルタイトルを獲得。続く1986年にもプロストはチャンピオンを獲得したが、ウィリアムズ・ホンダを駆るナイジェル・マンセルとネルソン・ピケのコンビが活躍し、コンストラクターズタイトルの連覇は阻まれた。

今日のマクラーレンとして知られるのは、ロン・デニスが自らのプロジェクト4レーシングを合併させ、チーム代表に就任して以降のチームだ。デニスが手腕を振るうようになってからというもの、マクラーレン支配の時代がスタートする。1988年にはアイルトン・セナが、翌年はチームメイトのプロストが世界王者の称号を手にした。1990年に王者奪還を果たしたセナは翌年もトップに君臨している。コンストラクターズ選手権は1988年から1991年までマクラーレンが4連覇した。

以後、しばらく再び衰退の時期に直面したマクラーレンが次にタイトルを手にしたのは1998年のこと。ついに競争力を取り戻したマクラーレンを駆ったミカ・ハッキネンとデビッド・クルサードは次々と勝利を重ね、序盤の6戦中2人で5勝を挙げるという敵なし状態だった。長い低迷期を耐えたハッキネンとマクラーレンの完全復活となった同年はドライバーズおよびコンストラクターズの両選手権を制覇している。

新世紀に入ると、マクラーレンはライバルたちから激しいプレッシャーを受ける。2005年にはグリッド最強のドライバーラインアップと言われたキミ・ライコネンとファン-パブロ・モントーヤのコンビを起用。チームとして10勝を挙げ、グリッド最速のマシンを有しながらも、信頼性の低さが要因でタイトルを逃している。

王者奪還を目指すマクラーレンは2007年、フェルナンド・アロンソとルーキーのルイス・ハミルトンを擁してシーズンに挑んだ。コース上では新加入のハミルトン、アロンソ共に4勝を挙げるなど、うまくいったシーズンだと言えるが、コース外では長い歴史を誇るチーム史上最も大荒れのシーズンとなった。ハミルトンとアロンソのお家騒動の傍らでは、フェラーリに対する産業スパイ疑惑が浮上。結果はマクラーレンがフェラーリの機密情報を保持していたとの有罪判決が下され、コンストラクターズ選手権除外と、1億ドル(約115億円/当時)という記録的な罰金処分が科されている。

翌年はハミルトンの新チームメイトにヘイキ・コバライネンを起用。ルノーから移籍したコバライネンは後のハンガリーGPで自身初の優勝を経験する。最終戦までもつれたタイトル争いをハミルトンが制し、マクラーレンから1999年以来となるF1世界王者が生まれた。

2009年に入ると、長らくチームを率いてきたデニスが代表の座をマーティン・ウィットマーシュに譲る。開幕当初こそ散々な結果に終わったマクラーレンだが、MP4-24に大幅改良を施してからは徐々に復調を遂げ、ハンガリーGPではハミルトンがシーズン初勝利をマーク。ライバルたちが開発をやめていく中、最後までマシンの改良に励んだマクラーレンはプッシュを続け、シンガポールGPでもハミルトンが優勝を果たした。後半戦ではほかにも3度の表彰台に上ったハミルトンの一方で、コバライネンはレース後にシャンパンを味わうことなくシーズンを終えている。

終盤の巻き返しによって、ライバルであるフェラーリを抜きランキング3位で締めくくったマクラーレンは2010年に向けてハミルトンの相棒として前年度チャンピオンのジェンソン・バトンを起用、オールブリティッシュ体制を形作った。革新的なFダクトでタイトル争いに名乗りを上げたマクラーレンだったが、シーズン後半に失速して選手権ではハミルトン4位、バトン5位、チームとしては2位にとどまっている。

2011年もレッドブルに次ぐ2位という結果は変わらなかったものの、新たにアグレッシブな面が開花したバトンがランキング5位のチームメイトを上回る選手権2位につけた。2012年はそのバトンが開幕から勝利を飾るも、シーズン中盤にかけてレッドブルやフェラーリをはじめとするライバルたちに押されるようになる。加えてそんな状況の中で、少年期からマクラーレンで育ってきたハミルトンのチーム離脱が発表される。ランキングを一つ落として3位としたマクラーレンはハミルトンの後継者としてセルジオ・ペレスを選択した。

しかし、新コンビで挑んだ2013年はマシン開発であえて賭けを選んだことが裏目に出て、チーム史上まれに見る大苦戦を強いられる。このシーズンにマクラーレンドライバーが表彰台に上ることは一度もなく、最終戦ブラジルGPで4位に入ったバトンの結果がベストリザルトだった。ペレスはわずか1年でシートを失い、2014年はマクラーレンの育成ドライバーであるケビン・マグヌッセンがバトンのチームメイトを務める。