ジェンソン・バトン イギリス
- 氏名 ジェンソン・アレクサンダー・ライオンズ・バトン
- 生年月日 1980年1月19日
- 出身地 イギリス サマセット州フロム
- 年齢 39歳326日
- 身長 1.82 m
- 体重 72 kg
- 関係 夫 -
- チーム マクラーレン, BAR, Benetton, Honda, ウィリアムズ, ブラウンGP, ルノー

Year | Car | Race | Start | Won | Pod | Class | Best | Pole | Front | Best | Lap | Hat | Pts | Pos | ||||
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2000 | Williams | 17 | 17 | 0 | 0 | 11 | 4 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 12 | 8 | ||||
2001 | Benetton | 17 | 17 | 0 | 0 | 12 | 5 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 2 | 17 | ||||
2002 | Renault | 17 | 17 | 0 | 0 | 12 | 4 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 14 | 7 | ||||
2003 | BAR | 16 | 15 | 0 | 0 | 10 | 4 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 17 | 9 | ||||
2004 | BAR | 18 | 18 | 0 | 10 | 15 | 2 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 85 | 3 | ||||
2005 | BAR | 17 | 16 | 0 | 2 | 12 | 3 | 1 | 4 | 1 | 0 | 0 | 37 | 9 | ||||
2006 | Honda | 18 | 18 | 1 | 3 | 14 | 1 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 56 | 6 | ||||
2007 | Honda | 17 | 17 | 0 | 0 | 11 | 5 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 6 | 15 | ||||
2008 | Honda | 18 | 18 | 0 | 0 | 14 | 6 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 3 | 18 | ||||
2009 | Brawn | 17 | 17 | 6 | 9 | 16 | 1 | 4 | 5 | 1 | 2 | 1 | 95 | 1 | ||||
2010 | McLaren | 19 | 19 | 2 | 7 | 17 | 1 | 0 | 1 | 2 | 1 | 0 | 214 | 5 | ||||
2011 | McLaren | 19 | 19 | 3 | 12 | 17 | 1 | 0 | 3 | 2 | 3 | 0 | 270 | 2 | ||||
2012 | McLaren | 20 | 20 | 3 | 6 | 18 | 1 | 1 | 5 | 1 | 2 | 0 | 188 | 5 | ||||
2013 | McLaren | 19 | 19 | 0 | 0 | 18 | 4 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 73 | 9 | ||||
2014 | McLaren | 19 | 19 | 0 | 1 | 18 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 126 | 8 | ||||
2015 | McLaren | 19 | 18 | 0 | 0 | 13 | 6 | 0 | 0 | 10 | 0 | 0 | 16 | 16 | ||||
2016 | McLaren | 21 | 21 | 0 | 0 | 15 | 6 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 21 | 15 | ||||
2017 | McLaren | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 20 | 0 | 0 | 0 | - | ||||
Total | 309 | 306 | 15 | 50 | 243 | 1 | 8 | 24 | 1 | 8 | 1 | 1235 |
グランプリ | サーキット | 開催日 | ||
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デビュー戦 | オーストラリアGP | アルバート・パーク | 2000年3月12日 | レース結果 |
ラストレース | モナコGP | モナコ | 2017年5月28日 | レース結果 |

ジェンソン・バトンが幼い頃からの夢をついにかなえたのは2009年、モータースポーツ最高峰の舞台で戦い始めて10年目のF1タイトル獲得だった。そのF1キャリアではバトンの才能や情熱が疑問視されることもあったが、究極の賛美を浴びて、今ではパドック内で最もホットなドライバーの1人として扱われるようになった。
そんなバトンがF1に昇格を果たしたのはカートを卒業してわずか2年後のこと。当初から明らかだったバトンの才能はカート時代からの仲間であるアンソニー・デビッドソンやハミルトンからあがめられるほどだった。カートからフォーミュラ・フォードへとステップアップしたバトンはデビューイヤーにイギリス選手権を圧勝。翌年にはF3に昇格し、そこでも人々に感銘を与えるドライビングを披露している。
プロストF1でのテスト走行がバトンの名をパドック中に広めることになる。数々のテストドライバー契約のオファーがもたらされるも、フランク・ウィリアムズ代表が2000年に先だってセカンドドライバーにバトンを起用、世界中の度肝を抜いた。
堅実なルーキーイヤーを過ごしたものの、ウィリアムズが2001年にはそのシートをファン-パブロ・モントーヤに与えたことから、バトンはベネトンへと移籍する。新天地では競争力のないマシンを初体験。経験豊富なチームメイトのジャンカルロ・フィジケラの影に隠れてしまった。
ベネトンは2002年にルノーに買収され、翌2003年にはチームを率いるフラビオ・ブリアトーレがお気に入りのフェルナンド・アロンソを起用し、バトンはシートを明け渡すことに。しかしながら、B・A・Rの代表だったデビッド・リチャーズはバトンのポテンシャルを買っており、ジャック・ビルヌーブのチームメイトとしてバトンを迎え入れる。時に苦悩をももたらしたこの移籍だが、最終的には長く続く実り多き時代の始まりとなった。
バトンが初めて表彰台に上ったのは2004年。初のポールポジションを獲得して挑んだレースで2位フィニッシュを果たした。同年のチャンピオンシップは当時、圧倒的な強さを見せていたフェラーリ勢のミハエル・シューマッハとルーベンス・バリチェロに次ぐランキング3位で終えている。それでも、114戦目を迎えてまだ未勝利だったバトンの能力を疑う者も存在した。ようやく運が向き始めたのは2006年ハンガリーGP。予期せぬ雨が狭いハンガロリンクのコースにスペースを与え、オーバーテイクを可能にした。この幸運を生かしたバトンは14番手スタートながらも、次々にマシンをかわしてトップチェッカー。表彰台の頂点に立った。
ついに手にした初勝利にもかかわらず、悪夢はまだ終わらない。2007年と2008年のシーズンにコンペティティブとは程遠いマシンを造り出したHonda Racing F1が2008年末にF1から撤退してしまう。2009年のレースシートを失ったバトンがこの2年間で稼ぎ出したポイントはわずか9点だった。
2009年、バトンは新たにブラウンGPへと生まれ変わったチームでキャリアをつないだ。マシンは序盤戦から目を見張る速さを発揮し、開幕から7戦中6戦で優勝をつかんだバトンはライバルたちに差をつける。その後は表彰台の頂点に上ることこそなかったものの、スタートダッシュで築いたリードを保ったバトンはついに念願のワールドチャンピオンに輝いた。
翌年はカーナンバー1を手土産にマクラーレンに移籍。ルイス・ハミルトンを僚友に戦い、ランキング5位で移籍後初のシーズンを終えた。2011年は持ち味だったスムースな走りにアグレッシブさが加わって圧倒的なパフォーマンスで新王者となったセバスチャン・ベッテルに次ぐランキング2位に入る活躍を見せ、シーズン全体の成績でルイス・ハミルトンを負かした初めてのチームメイトとなっている。
2012年は開幕戦オーストラリアGPでの印象的な勝利と共にスタートしたものの、シーズン中盤にかけてマクラーレンは失速し、バトンはセットアップの問題に手を焼く。タイトルの望みは徐々にフェードアウトしたが、最終戦ブラジルGPでの優勝は2013年にチームを率いて戦いに臨む自信を与えたことだろう。ハミルトンを傍らにしたバトンの記録は印象的で、2人が組んだ3シーズンの総得点はハミルトンの657に対してバトンが672を記録している。
しかし、マクラーレンにとってひたすら忍耐の年となった2013年には表彰台に上ることができず。その理由の一つはこれまでパートナーだったハミルトンと違い、新たにチームメイトとなったセルジオ・ペレスがバトンを激しくプッシュしなかったことにあるとされる。
新人のケビン・マグヌッセンとコンビを組んだ2014年はバトンにとって悲劇的な幕開けだった。1月に父ジョンが亡くなったのだ。父との思い出を胸に、バトンは新V6ターボエンジン時代に挑む。迎えた初戦はマグヌッセンが2位表彰台に上り、バトンが3位に入ってマクラーレンがダブル表彰台を達成。有望なシーズンスタートを切ったマクラーレンだったが、初戦の勢いはどこへ消えたか、残るレースでは一度も表彰台にたどり着けていない。チームも苦悩する状況の中、バトンのF1での将来に疑問符がついたものの、シーズン後半には何度か力強い走りを披露し、マグヌッセンが調子を落としたのと相まってベテランにもまだ活躍の機会が十分にあることを証明している。
ラインアップ確定に際し、近年の記憶に残る中でも最も長い時間を費やしたマクラーレンは2014年12月になってようやく、バトンが翌年も残留すること、およびマグヌッセンに代わってフェルナンド・アロンソとレースドライバー契約を交わしたことを発表した。
Hondaとの提携で新章を開こうとするマクラーレンでのキャリア継続が決まり、意気揚々と新シーズンに挑んだバトンだが、マクラーレン・ホンダの再出発は茨の道に直面する。相次ぐトラブルに苦しめられたバトンはエンジンパワーの影響が少ないモンテカルロでようやくシーズン初入賞を果たしている。フラストレーションのたまる状況下、チーム側に契約解消のオプションがあるバトンの将来はこの年も不確定な状況が続き、一時はF1引退説までささやかれるも、10月にチーム残留が正式に発表された。2015年に計4回のポイントフィニッシュを遂げたバトンは翌シーズンもアロンソと共にチームの復調を目指す。
ホンダエンジンが確実に進歩を遂げた2016年は前年より入賞のチャンスも増え、ライバルたちのグリッド降格を受けて3番手からスタートした第9戦オーストリアGPではバトンが一時2番手を走り、6位でチェッカーフラッグを受けている。完走したレースのほとんどでスターティンググリッドより順位を上げるベテランらしい走りによってこの年もチームに貢献したバトンだが、第14戦イタリアGPの予選後に2017年はストフェル・バンドールンに後を任せてレギュラードライバーを退くことが発表された。アンバサダー兼リザーブドライバーとしてマクラーレンとかかわり続けるバトンには、チームとの契約上、2018年にレースドライバーとして復帰する可能性も残されていた。しかし、バトン本人は第一線を退くという決断がやや早急だったかもしれないと考えつつもラストレースのつもりで最終戦アブダビGPに臨み、実に305レースを走って15勝、表彰台フィニッシュ50回、ドライバーズ選手権制覇1回の偉大なキャリアにいったんの終止符を打った。
しかしながら、バトンが再びF1マシンに乗る日は意外に早くやってきた。インディ500に参戦するために2017年第6戦モナコGPを欠場するフェルナンド・アロンソに代わり、前年度から大幅に変更されたマクラーレンマシンに乗ることになったのだ。レースではリタイアに終わりながらも「これぞF1」と言えるだけのマシンを満喫したバトンだったが、F1復帰はこの1戦限りだった。8月にSUPER GTの鈴鹿1,000kmに参戦したバトンは2018年に同シリーズへフル参戦することを決意。2018年1月にはTEAM KUNIMITSUのドライバーとして新たな冒険に乗り出すことが正式発表された。
【長所と短所】
バトンがF1で最も技術的に完ぺきなドライバーの1人であることは、数字が物語っている。しかし、タイヤが冷えた状態であったり、オーバーステア気味のクルマに乗ったりするような変わりやすい状況の時には、順応に苦戦することがある。
【キャリア最高の瞬間】
2009年にチャンピオンシップを獲得したこと。加えて、タイトルを取れないのではないかと示唆していた批判者たちを、同年ブラジルGPでのパフォーマンスによってついに黙らせることができたこと。
【キャリア最低の瞬間】
初優勝までに114戦も費やしたこと。
【注目のコメント】
「自分が勝てないのなら誰が勝とうと興味はない。コンペティティブなクルマに乗っていないのなら何の違いもないさ。わざわざバカみたいなことはしたくないし、予選で14番手なんてまっぴら。アンハッピーなだけだよ」
マンセルとピケ、どちらを選ぶと聞かれて。
「マンセルだね。僕は彼が好きだし、素敵なヒゲを蓄えているじゃないか。少なくとも昔は最高のヒゲだったよ」
【トリビア】
バトンはフロントガラスが分かれたフォルクスワーゲンの1956年製キャンプカーを所有している。めずらしい車専用の大きなガレージを所有しているが、コレクションのひとつだったブガッティのヴェヴロンを2009年に90万ポンドで売却している。
ジェンソン・バトンのギャラリー
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