キミ・ライコネン  フィンランド

  • 氏名 キミ-マティアス・ライコネン
  • ニックネーム アイスマン
  • 生年月日 1979年10月17日
  • 出身地 フィンランド・エスポー
  • 年齢 34歳183日
  • 身長 1.75 m
  • 体重 62 kg
  • 現所属チーム フェラーリ
  • 過去の在籍チーム ザウバー, マクラーレン, ロータス
driver portrait
2014年の世界選手権
# Grand Prix Circuit Date Car Pos Pts Qual FL
1 オーストラリア アルバート・パーク 3月16日 フェラーリ (T) 7 6 11
2 マレーシア セパン 3月30日 フェラーリ (T) 12 6
3 バーレーン サヒール 4月6日 フェラーリ (T) 10 1 5
F1キャリア / 戦績
Year Car Race Start Won Pod Class Best Pole Front Best Lap Hat Pts Pos
2001 Sauber 17 16 0 0 10 4 0 0 7 0 0 9 10
2002 McLaren 17 17 0 4 7 2 0 1 2 1 0 24 6
2003 McLaren 16 16 1 10 13 1 2 4 1 3 0 91 2
2004 McLaren 18 18 1 4 10 1 1 2 1 2 0 45 7
2005 McLaren 19 18 7 12 16 1 5 8 1 10 0 112 2
2006 McLaren 18 18 0 6 12 2 3 5 1 3 0 65 5
2007 Ferrari 17 17 6 12 15 1 3 5 1 6 1 110 1
2008 Ferrari 18 18 2 9 16 1 2 6 1 10 1 75 3
2009 Ferrari 17 17 1 5 15 1 0 1 2 0 0 48 6
2012 Lotus 20 20 1 7 20 1 0 0 3 2 0 207 3
2013 Lotus 17 17 1 8 15 1 0 1 2 2 0 183 5
2014 Ferrari 3 3 0 0 3 7 0 0 5 0 0 7 12*
Total 197 195 20 77 152 1 16 33 1 39 2 976
グランプリ サーキット 開催日
デビュー戦 オーストラリアGP アルバート・パーク 2001年3月4日 レース結果
ラストレース バーレーンGP サヒール 2014年4月6日 レース結果
プロフィール
© Sutton Images

キミ・ライコネンは10歳の頃から地元フィンランドに限らず、さまざまなカートレースに参加して経験を積んでいった。

カートを卒業し、本格的にレース活動を始めたのは1999年から。その年、フォーミュラ・ルノーで、ヘイウッド・レーシングから4レースの参戦を果たし、デビュー戦でいきなり3 位を獲得している。惜しくも、その後3戦はテクニカルトラブルが発生し、リタイアに終わった。この年はまた、フォーミュラ・フォード・ユーロ・カップにも参戦して総合5位を獲得。そしてマノー・モータースポーツからフォーミュラ・ルノー・ウィンター・シリーズにも参戦、4戦4勝という輝かしい成績でチャンピオンを決めた。

2000年には、同じマノー・チームからブリティッシュ・ルノー選手権に参戦。ここでは10戦中7勝を挙げ、いとも簡単にタイトルを獲得してしまったのだ。しかも、すべてのレースで表彰台に上り、さらに7回のポールポジションと、6回のファステストラップを記録している。この年はヨーロッパ・フォーミュラ・ルノー選手権にも参戦し、3戦2勝、ポールポジション2回、ファステストラップ2回を達成。ここまでのレース出走回数は23回、ライコネンは何と、そのうちの半分以上、13レースで優勝を飾っているのだ。そんな中、F1ザウバー・チームのボス、ペーター・ザウバーはいち早くこの若者に興味を示した。

そして、ザウバーからライコネンの2001年のF1参戦が発表される。しかし、F3やF3000を飛び越えて、F1にステップアップすることは前代未聞。 FIA(国際自動車連盟)はライコネンのF1ドライバーとしての技量を計るため、テストの機会を設けることでスーパーライセンスの発行を検討したのだ。その結果、ライコネンの確実なパフォーマンスから、スーパーライセンスは特別に暫定扱いとして発行された。2000年9月、ヘレス・サーキットでテスト走行が実施され、初めてF1マシンのステアリングを握ったライコネン。3カ月後にはバルセロナ・サーキットでもマシンをドライブしている。

デビューシーズンとなった2001年は開幕戦でいきなりの入賞を果たすなど、素晴らしいパフォーマンスを発揮。そして、ザウバー・チーム創設以来の好成績となるコンストラクターズランキング4位獲得に大きく貢献した。F1デビューに至るまでの周囲の声は否定的であったものの、力強い走りでライコネンは一気にこれまでの否定的な声を払拭したのだ。そして、2002年のレース活動休止を決めたミカ・ハッキネンの後釜として、わずかデビュー2年目にしてトップチームであるマクラーレンからレギュラードライバーに抜擢された。

マクラーレンに移籍を果たした2002年シーズンも、やはりライコネンは素晴らしいパフォーマンスを披露し続ける。予選では、経験豊富なチームメイトのデビッド・クルサードと、すでに渡り合うだけの速さも見せた。この年のフランスGPで、早くもライコネンに初優勝のチャンスが訪れる。残り数周までレースをリードし、勝利は目前だった。しかし、残念ながら、他のドライバーが撒いたオイルに足下をすくわれ、結局ミハエル・シューマッハに勝利を奪われてしまったのである。

2003年、ついにライコネンのポテンシャルが開花した。マレーシアGPで初勝利を飾り、さらにミハエル・シューマッハとのチャンピオンシップ争いを最終戦まで競ったのだ。

マクラーレン・メルセデスは2004年を新車MP4-19でスタートしたが、マシンの力不足は明らかだった。ライコネンはメカニカルトラブルからリタイアが相次ぎ、モチベーションが下がってしまったのも、うなずけるような状態だった。しかし、シーズン中盤でBスペックが投入されてからは順調にポイントを獲得している。

チームメイトのクルサードはシーズン序盤から信頼性だけは見せていたものの、チームメイト同士で争うまでには至らなかった。2004年、ライコネンはベルギーGPで1勝を挙げたが、ドライバーズランキングは7位にとどまった。

ライコネンとマクラーレンの2005年は"完全復活"の年に位置づけられるだろう。タイトル争いではフェルナンド・アロンソに敗れたものの、マクラーレンのポテンシャルはメルセデスエンジンの信頼性を除けば、素晴らしかった。ライコネンは新チームメイトのファン-パブロ・モントーヤをリードし、コース上では大きなミスを犯すことなく、シーズン通算7勝をマークしている。

マクラーレンの好調が継続され、タイトルに挑戦することができると信じたライコネンは2006年も同チームにとどまった。しかし、ライコネンにとっての 2006年は勝利すら挙げられないという、タフなシーズンになったのだ。ライコネンと同程度のスピードを見せていたファン-パブロ・モントーヤが、シーズン終了を待たずしてチーム離脱したという出来事も起きている。

2007年はライコネンにとって大きな転換の年となった。ミハエル・シューマッハが引退し、そのシートをライコネンが手にしたのだ。シューマッハは誰にも真似できない素晴らしい偉業を達成してきたが、2002年に自らの手で証明したように、ライコネンは挑戦を恐れるドライバーではない。

2007年開幕戦オーストラリアGPを制したライコネンは、フェラーリと共に素晴らしいシーズンスタートを切った。その後、フランス、ドイツ、ベルギー、中国で優勝を飾ったライコネンは、この年の最終戦ブラジルGPに挑む。チャンピオンシップリーダーだったルイス・ハミルトンが5位以内でフィニッシュすれば王者獲得という中、ライコネンのチャンピオンの可能性は限りなく低かった。しかし、ハミルトンがトラブルに見舞われるなどしたこともあり、徐々に風向きはライコネンに向かう。そして、最終的にブラジルGPを制したライコネンが2007年ワールドチャンピオンに輝いたのだ。

世界王者の称号を手に挑んだ2008年シーズン、ライコネンの活躍が予想されたものの、失望のシーズンとなった。

序盤4戦で2勝を挙げたことはディフェンディングチャンピオンとして素晴らしいスタートだったが、4月のスペインGP優勝が同シーズン最後の勝利なのだ。マニクールでのフランスGPで不運に泣いたほか、モントリオールではシーズン王者に輝いたハミルトンにピットレーン出口で追突されて戦線離脱。

しかしながら、チームメイトのマッサに後れをとり、ポールポジション獲得も2回だけという予選がライコネンにとっては主な問題だった。

ベルギーGPでクラッシュを喫してリタイアしたライコネンは以降、フェラーリのナンバー2の役目を担い、シーズン終盤5戦はマッサのサポートにまわっている。

モチベーション低下がささやかれながらもフェラーリと2010年までの契約を結んでいたライコネンだったが、チームは2009年9月にフェルナンド・アロンソの加入を発表。ライコネンは1年の契約を残してチームを去ることとなり、フェラーリから2,500万ドルの支払いを受けつつラリーの世界で第2のキャリアをスタートさせた。しかしながらラリーへの情熱が結果に結びつくことはなく、NASCAR参戦の後にF1復帰の意志を示した。

ロータス、ウィリアムズと交渉に入ったライコネンは最終的にロータスと合意に至り、同チームを率いて2012年シーズンに挑む。予測はさまざまだったがライコネンはひたすら自身の仕事に集中し、20戦中19戦でポイントを獲得。シーズン中盤にはあと一歩のところで優勝に届かないレースも多かったものの、アブダビGPで4番手スタートからトップでチェッカーを受け、ついに復帰後初優勝を達成した。

ライコネンのレースに対する情熱に投げかけられていた疑問の声は消え去り、F1グリッドでも最も高く評価されるドライバーの一人として迎えた2013年、開幕戦オーストラリアGPで優勝したライコネンは安定した成績を残し、マーク・ウェバーのレッドブル離脱の決断により2014年のセバスチャン・ベッテルのチームメイトとして有力視される。レッドブルへの移籍は実現しなかったものの、2013年9月にはフェルナンド・アロンソのチームメイトとしてフェラーリに戻ることが発表され、F1界を驚かせた。

【長所と短所】

その才能には疑念の余地がない。「自分がやっていることを考えたことなんてない、ただやるだけ」と語るライコネンの、レースへのゆったりとしたアプローチはよく知られている。2001年オーストラリアGPでのデビューを前にしたライコネンはレースの30分前まで寝ていたのだ。遊び人との評判もあるライコネンのサラリーやライフスタイルは、不況にあえぐスポーツの手には負えないかもしれない。

【キャリア最高の瞬間】

フェラーリに移籍した2007年にワールドチャンピオンに輝いたこと。最終戦ブラジルGPに赴いたとき、ライコネンはドライバーズチャンピオンシップで3位だった。しかし、ドラマチックな展開の後、ライコネンはチームメイトで地元出身のフェリペ・マッサを抑えてレースの勝者に。王座争いのライバルだったフェルナンド・アロンソとルイス・ハミルトンが3位と7位にとどまったことから、ライコネンはわずか1ポイント差で自身初のタイトルを手にしている。

【キャリア最低の瞬間】

2008年8月に行われたハンガリーGPで3位に入ったライコネンは、ポイントリーダーであるハミルトンと5ポイント差のランキング2位につけていた。しかし、続くベルギーGPではエンジントラブルにてリタイアを余儀なくされ、その後3レースでもポイント獲得ならず、タイトル防衛のチャンスは潰えた。

【注目のコメント】

キミ・ライコネン

「僕がプライベートで何をやろうが、そのせいで僕が遅くなることはない」

ステファノ・ドメニカリ

「キミは別世界、他の星の住人だ。彼は自分自身を孤立させている。彼がプレッシャーを感じるようなことがあるなら、それは単に彼自身に起因するもの。信じがたいことに、外からくるものが彼に影響を与えることは決してないのだ」

【トリビア】

ライコネンの元妻、ジェニ・ダールマン-ライコネンが4頭の馬を所有し、国際的な大会に出場しているにもかかわらず、ライコネンは馬アレルギーである。

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