- サーキットタイプ Road
- コース全長 5.148kms
- コーナー数 16
- 周回方向 時計回り
- 観客収容人数 290,000
- 設立年 1927 (rebuilt 1984)
- サーキットデザイナー Gustav Eichler
| レース | 開催日 | 優勝 | ||
|---|---|---|---|---|
| 初開催 | ドイツGP | 1951年7月29日 | Alberto Ascari (ITA) | レース結果 |
| ラストレース | ドイツGP | 2011年7月24日 | ルイス・ハミルトン (GBR) | レース結果 |
| グランプリ開催数 | 40 | |||
| 次回開催 | ドイツGP | 2013年7月7日 | ||
トラックは1927年7月18日にオープンされ、1925年に始められた建設は3000人を要した。創設当時、ニュルブルクリンクサーキットのコース全長は28.29kmもあり、それはまるで、松の木の間をうねる様にアップダウンしながら抜けていく、果てしなく続く長い鎖のようであった。ニュルブルクリンクは、この年、モーターバイクGPとドイツカーレースクランプリを開催。新しいトラックはすぐドイツカーレースコースに認定され、1938年には、世界の他のどこにも例のない200,000人を超える観客を収容できるようになった。しかし、第二次世界大戦で全てのモータースポーツの活動はストップしてしまう。1950年、F1GPが、ここで初めて行われ、再び国際的なリンクとして甦った。そして1954年の8月、ニュルブルクリンクは400,000人以上の観客をヨーロッパGPに収容した。
60年代は多くのワールドチャンピオンがここで勝利を挙げた。スターリング・モスも引退の年(1961年)に勝利を飾った。1968年には、ジャッキー・スチュワートが最悪のコンディションの中を制して勝利。その直後、スチュワートがニュルブルクリンクサーキットの安全性に関して意見を呈し、1970年にタイヤバリアの設置となった。さらにサーキットの道幅が広げられた。1971年になるとトラックも再構成され、安全性が増してよりスピードを競い合うサーキットとなった。
1976年にニキ・ラウダがレース中に大火傷を負ったのをきっかけに、暫定的にニュルブルクサーキットはF1カレンダーから姿を消すが、1984年には変革されて生まれ変わり、再びF1の舞台に帰ってきた。コース全長は4.54kmと大幅に削られ、いくつかのエキサイティングなコーナーを残すのみとなった。そのコースも1986年に再び改修され、さらに2001年の改修を経て現在のコース全長5.144kmとなっている。
1995年のレースは、3位からスタートしたベネトンのミハエル・シューマッハが、残りわずか3周で前を走るフェラーリのジャン・アレジを見事に抜き去り、スタンドを沸かせた。1996年には、ジャック・ビルヌーブはこの地でF1での初勝利を獲得した。1997年の最終戦ヨーロッパGPはシューマッハ兄弟にとって決して忘れられない苦いGPとなった。ラルフが1周目でリタイア。ミハエルも結局リタイアに終わり、マクラーレンの2台(ハッキネン、クルサード)も途中でエンジントラブルを起こし、勝利はビルヌーブのものとなった。
1998年のGPではフェラーリのマシンにフロントローを取られたものの、マクラーレンのミカ・ハッキネンが勝利した。1999年には悪天候のためリタイヤが続出し、上位が次々と入れ換わる乱戦となった。その中でスチュワートのジョニー・ハーバートが素晴らしい走りを見せ勝利を飾った。2位にプロストのトゥルーリがつけ、3位にはスチュワートのチームメイトであるバリチェロといったフレッシュな顔ぶれが表彰台に並んだ。ハーバートはチームに創設以来の初勝利をもたらしたが、残念ながらその後、ハーバートが引退する(2000年)までの間にチームに再び勝利がもたらされることなかった。
2000年にはシューマッハが勝利し、その後にマクラーレンのミカ・ハッキネンとデビット・クルサードが入った。そしてシューマッハは翌2001年のGPでも勝利し、ウィリアムズのファン・パブロ・モントーヤがそれに続いた。
2002年、この年脚光を浴びたのはフェラーリのセカンドドライバー、ルーベンス・バリチェロであった。彼はこのレースでシーズン初、そして彼のレース人生で2度目の勝利を手にし、チームメイトのミハエル・シューマッハが2位につけた。
2003年、ラルフ・シューマッハ(BMWウィリアムズ)が優勝。チームメイトのファン-パブロ・モントーヤも2位に入り、BMWウィリアムズは1-2 フィニッシュを飾った。レースをリードしていたマクラーレン・メルセデスのキミ・ライコネンが26周目にリタイアし、ラルフがトップに立った。そのまま 16.8秒の差をつけトップでゴール。アロンソと激しいバトルをしていたデビッド・クルサードもゴール2周前にスピンによってリタイアし、マクラーレンにとっては二重のショックとなった。3位にはフェラーリのルーベンス・バリチェロが入った。
2004年までの5年間で、ミハエル・シューマッハは4度目の勝利を飾った。バリチェロも2位に入り、またもフェラーリの1-2フィニッシュであった。 B・A・R Hondaの佐藤琢磨が自身初の2番手フロントローをゲット。しかし、レースではエンジントラブルで惜しくもリタイアし、チームメイトのジェンソン・バトンが3位に入った。
2005年はキミ・ライコネンがレースの大部分を支配した。しかし、ジャック・ビルヌーブを周回遅れにする際にブレーキをロックさせ右フロントタイヤにフラットスポットを作ってしまった。この影響でバイブレーションが発生、最終ラップに入った直後に右フロントサスペンションが大破。残り1周でのリタイアは衝撃であり、「レース中のタイヤ交換禁止」というルールの是非が改めて問われることとなった。結果的に勝利はフェルナンド・アロンソが手にし、母国GPで初のポールポジションを手にしたニック・ハイドフェルドが2位表彰台に上がった。
シューマッハが用いた戦略が功を奏し、2006年ヨーロッパGPを制覇。1回目のピットストップでは前にいたアロンソを抜くことはできなかったが、アロンソが最後のピット作業中にペースを上げたシューマッハが、自身のピットストップを終えてアロンソの前に出たのだ。3位にはフェリペ・マッサが入っている。
大混戦のレースとなった2007年、晴天でスタートしたものの、すぐさまウエットタイヤに交換しなければならない天候に。各車がピットに向かう中、ただ1人、走り続けることができたのはスパイカーからスポット参戦し、これがF1デビューレースだったマルクス・ビンケルホック。スタート直前にピットに戻り、ウエットに履き替えていたのだ。ビンケルホックが初めてのグランプリでレースをリードする一方で、第1コーナーではジェンソン・バトン、ルイス・ハミルトン、ビタントニオ・リウッツィ、スコット・スピード、ニコ・ロズベルグ、そしてエイドリアン・スーティルがアクアプレーニングによって相次いでスピンを喫するという大混乱だった。
何とかコースに復帰できたハミルトンだったが、赤旗中断となり周回遅れの状態に。すぐさま路面が乾きレースが再開する。ウエットタイヤを履いたままだったビンケルホックは早々に順位を落とし、その後ハイドロリック系のトラブルに見舞われてリタイアを喫した。一方、レースをリードしていたマッサを終盤にアロンソがアグレッシブにかわしてそのままトップチェッカー。
2007年以降、ドイツでのレースが1戦のみとなったことで、ニュルブルクリンクとホッケンハイムがドイツGPを交替開催している。
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2009年7月9日 ニュルブルクリンク © Sutton Images |
1976年8月1日 炎を上げるニキ・ラウダのマシン © Press Association |
1973年8月5日 プフランツガルテンで宙に浮き上がるジャッキー・スチュワート © Sutton Images |
1964年8月2日 クラッシュしたマシンを囲む観衆 © Sutton Images |
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