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  • チームに選ばれし者

トップ10:チームオーダー

Laurence Edmondson / Jim 2012年3月12日

2011年イギリスGPでレッドブルがマーク・ウェバーに対し、セバスチャン・ベッテルとの"ポジションを維持せよ"という指示が出されたが、ウェバーはこれを無視して攻め続けた。これまでF1史に記録されたチームオーダーの例を見てみよう――指示に従う者、従わない者、さまざまだ。

従われた例

フェラーリのチームオーダーによってファンジオは1956年に4度目のタイトルを獲得した © Getty Images
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【1956年イタリアGP】

チームメイトを勝たせるためにレースでポジションを譲るのもかなり困難なことだろうが、自らのマシンを相手に渡してタイトル獲得に貢献するというのはまた別の話だ。F1の歴史とチームオーダーが切っても切れない関係であることを証明する必要があるとすれば、1956年シーズン最終戦でのピーター・コリンズの行動が最適だ。イタリア到着時点でタイトルを狙える立場にいたドライバーは3人、フェラーリのファン-マヌエル・ファンジオとそのチームメイト、ピーター・コリンズ、そしてマセラティのジャン・ベーラだった。ファンジオがタイトルを手にするためには5位でフィニッシュするだけで良かった。しかし、彼のマシンはレース15周目にステアリングアームが折れてしまい、リタイアに追い込まれた。マシンを譲れとのチームの命令をチームメイトのルイジ・ムッソは無視。すると、タイトル獲得を目前にしたコリンズがピットに入ってきた。「彼は僕が動けなくなったのを見ていた」とファンジオは振り返る。「そして命じられてもいないのにクルマを降りて、僕にフィニッシュするよう勧めたんだ。そのしぐさには本当に感動したよ。僕の不安と惨めさは喜びに変わり、あまりのうれしさに彼に腕を回してキスしてしまったほどさ。それから、(スターリング)モスに続いて2位でフィニッシュし、念願を達成した」

続いてコリンズがこう付け加えた。「僕が考えていたのは、もしここでレースに勝ってタイトルを取ったら、その途端に有名人になってしまうということ。人々の期待に応えなければならない立場になり、あれこれ要求されるようになるだろう。それではドライビングの楽しみがなくなってしまう。だからファンジオにマシンを譲ったんだ。僕はまだ25歳だし、まだこれからタイトルを取る時間はたっぷりあるよ」

しかしその2年後、コリンズはニュルブルクリンクでマシンの制御を失い、バンクを飛び越えて命を落とした――生涯タイトルを獲得することなく。

【2002年オーストリアGP】

2台のフェラーリのエンジン音を上回る観客のブーイングがサーキットに響いた。A1リンクの最終ラップでスロットルを緩めたルーベンス・バリチェロが、チームメイトのミハエル・シューマッハを前に出した瞬間だ。チャンピオンシップで有利なチームメイトをナンバー2ドライバーが先に行かせるという基本概念は理にかなうものだったが、この時のシューマッハは序盤5戦で4勝し、タイトル争いで十分なリードを築いていた。2008年にバリチェロは、この時指示に従ったのは職を失う恐れを感じたからだったと打ち明けている。「周を重ねるごとに表現が強いものになっていった。そして、自分の契約のことを考えるように言われたんだ。僕にはその意味がはっきり分かったよ。アクセルから足を離すか、首になるかという質問だった」

これがきっかけで大論争が巻き起こり、FIAは2002年から2010年までチームオーダーを禁止することになる。

【1978年オランダGP】

1978年シーズンを通してチームオーダーを言い渡されたロニー・ピーターソンは、ロータスでマリオ・アンドレッティのナンバー2として従順に従った。1970年代中頃というのはロータスにとって不毛な時代だった。だがグラウンドエフェクトを発展させたロータス78と79によって状況は一変する。そのコンセプト開発に必要不可欠だったのはアンドレッティで、パドック内ではピーターソンの方が速いとの見方が大勢だったが、チームボスのコーリン・チャップマンはアンドレッティに信頼を置いていた。そのため、アンドレッティは草分け的存在となるロータス79を1戦早く与えられ、うわさによるとピーターソンはチームメイトより目立たないように燃料を重くされたうえ、予選で1ラップ用の速いタイヤを与えられていなかったという。タイトルを狙える才能があったにもかかわらず、ピーターソンは決して文句を言わず、一度もアンドレッティを抜こうとしなかった。この年、彼がアンドレッティに次ぐ2位でフィニッシュしたレースは4戦。最後の完走となったオランダGPもやはり2位だった。だが彼は次戦のモンツァで非業の死を遂げた。

終わりよければすべてよし。スパで1-2勝利を喜ぶエディ・ジョーダン © Getty Images
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【1998年ベルギーGP】

利害が絡めば絡むほど、チームオーダーの必然性も理解できるというもの。エディ・ジョーダンにとってこの時ほど利害関係が高まったことはなかった。雨に濡れたスパ・フランコルシャンで、ナンバーワンドライバーのデイモン・ヒルがナンバー2のラルフ・シューマッハに1周3秒のペースで追い上げられている。コンディションは最悪で、序盤にレースをリードしたミハエル・シューマッハは25周目にデビッド・クルサードに追突し、姿を消した。そこでジョーダンにとって初優勝(それも1-2)のチャンスが転がり込んだ。だがラルフがヒルとの差を詰めるにつれてマシンは不安定になり、ダブルリタイアの恐れも出てきた。ラルフは当時のレースエンジニア、サム・マイケルにけしかけられ、すぐにヒルの後ろまで追い付いた。するとヒルは冷静な声でチームにこう通告した。「みんなに言っておくことがある。よく聞いてほしい」とヒルは無線で呼び掛けた。「ここで僕らが、僕ら2人がレースをすれば、手元に何も残らないかもしれない。すべてはエディ(ジョーダン/チーム代表)次第だ。互いに競い合わなければ、1位と2位を手に入れることができる。君のチョイスだよ」

ジョーダンは一言も漏らさずピットウオールでこれを聞いていた。そしてすぐにマイケルを通じてラルフにこう指示する。「デイモンをオーバーテイクしてはならない。これはチームオーダーだ」

ラルフが指示を受け入れるまで、メッセージは複数回繰り返された。そしてジョーダンの2台はそのままチェッカーフラッグを受けたのだった。

【1957年イギリスGP】

2人のドライバーがチームオーダーによって恩恵を受けることはごくまれだ。だが1957年のエイントリーで、スターリング・モスとトニー・ブルックスはそろって満面の笑みを浮かべて表彰台に上がった。ヴァンウォールでポールポジションを獲得したモスはスタートで一度はジャン・ベーラに抜かれたが、最初の1時間ほどトップを守り続けた。しかし、パワーを失いピットイン。「燃料噴射パイプが壊れていた」と彼は昨年『ESPNF1』のインタビューに答えている。同じマシンに乗っていたチームメイトのブルックスは苦しい戦いを強いられており、チームは彼を呼び入れてモスと交代させることにした。「かわいそうに、トニーはまだル・マンのクラッシュの後遺症に苦しんでいて、まったく本調子ではなかった」とモスは当時を振り返る。「彼はコースに出ていたが、私がリタイアしたのを見て、マシンを譲ることになった時には心底ほっとした様子だった。当時は最低でも3時間のレースだからね」

マセラティのベーラがマイク・ホーソーンを率いてトップを快走する中、モスは9番手でコースに復帰。しかしすぐに次々と前のマシンを料理していった。

「だいぶ後方での復帰となったが、私にとっては良かった。つまり、リードしている時にマシンが壊れると、壊し屋というレッテルを貼られてしまうものだけれど、後ろから追い上げている時なら壊しても何も言われない。だから少なくとも攻める価値はあった」

残り21周でベーラのクラッチとフライホイールが破損し、レースは再びモスの手に戻る。マセラティのパーツがコース上に飛び散っており、その直後、2番手のホーソーンがデブリを踏んでタイヤをパンクさせた。再びトップを取り戻したモスはそのまま優勝。「トニーは本当に素晴らしい男で、2人のイギリス人がイギリスチームで、イギリスGPでそれを成し遂げたというのは本当に最高だったよ」

ホッケンハイムの表彰台に上がったマッサとアロンソ © Sutton Images
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【2010年ドイツGP】

オーストリアでのチームオーダー騒動から8年、チームオーダーの取り締まりがF1で不可能だということを再びフェラーリが世間に知らしめた。この時のフェラーリはチャンピオンシップ争いを軌道に戻すために、どうしても勝利を必要としていた。ドライバーズランキングで上位にいたのはフェルナンド・アロンソで、フェリペ・マッサとの差は31ポイント。チームがどちらのドライバーをサポートするかは明白だった。ところがスタートでアロンソとセバスチャン・ベッテルを抜き、1コーナーにトップで入ったのはマッサ。フェラーリとしては面倒な状況に追い込まれる。ペースはアロンソの方が明らかに速かったが、マッサをパスすることができず、何よりも背後にベッテルが迫ってきていた。ここでマッサのレースエンジニア、ロブ・スメドリーがチームオーダーの禁止という幻想を打ち砕く決定的な5単語を発する。"Fernando is faster than you.(フェルナンドは君より速い)"

メッセージの意味はマッサにとって――そしてテレビの前で見ていた視聴者にとっても、一点の曇りもないほどクリアだった。そしてフェラーリの2台は残り17周で順位を入れ替える。アロンソが1位となり、スメドリーはマッサにこう言葉をかけた。「よくやった、その調子で頑張れ。すまない」

レース後メディアはフェラーリのドライバーたちを追い回し、スチュワードはチームに10万ドルの罰金を科したが、結果は覆らなかった。これまでの例を見ればお分かりのように、指示自体は至ってありきたりのものだ。だが2002年のオーストリアの一件を受けてルールが改正されていたため、大騒ぎとなった。結局、FIAは唯一賢明といえる判断を下す。初めから機能するはずもない無意味なチームオーダー禁止令を永遠に撤廃したのだった。

【2008年シンガポールGP】

このリストで最も極端な例であり、クラッシュゲートとして知られるこの一件はチームオーダーの領域を越えたばかりでなく、スポーツの倫理そのものを揺るがした。すべてはフェルナンド・アロンソが予選を15番手で終え、ルノーの最高司令部が夜通しレース戦略を考えている時に始まった。レースデーの未明、彼らはアロンソが早いピットストップを終えたタイミングでアクシデントが起きれば、出遅れた分を取り戻し、アロンソがレースをリードできると結論づけた。これを受けてルノーのナンバー2ドライバー、ネルソン・ピケJr.はレース13周目にターン17のバリアに飛び込み、計画を実行に移した。そのもくろみは実にうまくいった。アロンソは優勝し、ルノーはフランスの本社を満足させる結果を手に入れた。ピケJr.のミスはルーキーにありがちなものとして片付けられた。しかし、翌年チームを解雇された彼はすべてを暴露。FIAはルノーに共同謀議の疑いがあるとして直ちに告訴した。容疑は事実と判定され、チームのマネジングディレクター、フラビオ・ブリアトーレとエグゼクティブエンジニアリングディレクターのパット・シモンズ両名にスポーツからの追放処分が言い渡された。

【1997年ヨーロッパGP】

レースはミハエル・シューマッハがジャック・ビルヌーブと接触してチャンピオンシップが決まるというドラマにすべての話題が集中し、リザルトを決めたチームオーダーはほとんど注目されなかった。ここではマクラーレン同士でミカ・ハッキネンがデビッド・クルサードより前でフィニッシュすることが決まっていたばかりでなく、ウィリアムズとマクラーレンの間にもチームオーダーが存在し、ハッキネンとクルサードがビルヌーブの前でフィニッシュすることになっていた。残り3周時点でハッキネンはクルサード、ビルヌーブに続いて3番手を走行中だったが、いとも簡単に2人をオーバーテイクし、F1でキャリア初優勝を達成した。レース後、マクラーレンのロン・デニス代表はクルサードが"非常に紳士的だった"とコメント。マクラーレン側とウィリアムズのテクニカルディレクター、パトリック・ヘッドとの間で何か話し合いがあったのかと聞かれると、「われわれはワールドチャンピオンシップの邪魔をしたくなかった」と語った。実は、マクラーレンはビルヌーブのタイトルが確定するまでは先頭争いに参加しないという取り決めがなされており、これに対しウィリアムズは最終ラップで道を譲るという形で報いたのだった。このケースの場合、皆がハッピーになったことは良かったといえるだろう。ビルヌーブはタイトルを手にし、ハッキネンはF1初勝利を、クルサードは・・・いや、ちょっと待った。彼はまったくハッピーではなかったはずだ。

従われなかった例

表彰台でシャンパンを振るピローニを硬い表情で見つめるジル・ビルヌーブ(左端) © Sutton Images
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【1982年サン-マリノGP】

イモラで開催されたサンマリノGPはFOCAチームの多くがブラジルGPでの失格騒動をめぐってボイコットを決め、フェラーリとルノーの一騎打ちになるはずだった。しかし、ルノーの2台はリタイアを喫し、戦いはジル・ビルヌーブとディディエ・ピローニ、フェラーリ同士の勝負に。2人の間でめまぐるしくトップが入れ替わり、観客は退屈しなかった。チーム内では事前に非公式の合意が交わされており、"スロー"のサインが提示された時点で前にいたドライバーが勝つという決まりだった。チームがオーダーを出した時、先頭に立っていたのはビルヌーブで、彼はピローニも同じようにするはずと考え、ペースを緩めた。だがピローニは真剣なバトルを続け、最終コーナーで前に出るとトップでチェッカーを受けた。チームオーダーに気付かなかったと主張したピローニは謝罪しようとしたが、ビルヌーブは断固拒否。「これからは戦争、完全な戦争だ」と彼は宣言、「2位だって悪くはない。でもろくでなしに勝利を盗まれての2位となると、わけが違う」と吐き捨てた。

翌日、エンツォ・フェラーリがピローニを一喝したが、2人の溝は埋まらなかった。チーム側は対立が内部に影響することをひどく恐れていた。その不安は的中し、2週間後、ビルヌーブはベルギーGPプラクティス中の事故で命を落とすことになる。

【1981年ブラジルGP】

チームオーダーといえばチームのチャンピオンシップ勝利に役立つのが普通だが、1981年のウィリアムズはそのためにタイトルを失った。当時ウィリアムズのナンバーワンドライバーとして確固たる地位を築いていたのは1980年にタイトルを獲得したアラン・ジョーンズ。彼のきまじめな態度はチーム首脳陣フランク・ウィリアムズとパトリック・ヘッドの信頼を勝ち取った。そのため、1981年シーズン2戦目のリオデジャネイロで、ジョーンズがチームメイトのカルロス・ロイテマンの後ろ、2番手を走っているとすぐにピットウオールからポジションを入れ替えるよう指示が飛んだ。だがロイテマンはピットボードを無視して優勝。これがその後しばらくチャンピオンシップのリードにつながった。しかし、リオでの彼の行為はチーム内を分裂させ、つまらないいさかいが続いた結果、最終戦でブラバムのネルソン・ピケに1ポイント差で敗れてしまう。これを機に、ウィリアムズはどうしても避けられない状況にならない限り、二度とチームオーダーを出さないことを誓ったという。

Laurence Edmondson is an assistant editor on ESPNF1

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Laurence Edmondson is deputy editor of ESPNF1 Laurence Edmondson grew up on a Sunday afternoon diet of Ayrton Senna and Nigel Mansell and first stepped in the paddock as a Bridgestone competition finalist in 2005. He worked for ITV-F1 after graduating from university and has been ESPNF1's deputy editor since 2010