Features

  • 物議を醸したドライバーのコメント

トップ10:問題発言

Laurence Edmondson and Chris Medland / Me
2012年2月6日

2011年モナコGP後にルイス・ハミルトンが口にした"人種差別"発言は記憶に新しいが、これまでF1で飛び出した問題発言を振り返ってみよう。

2010年のシルバーストーンでウェバーとベッテルの関係は限界点に達していた © Getty Images
拡大

【マーク・ウェバー 2010年】

タイトル争いが激しさを増す中、レッドブルのセバスチャン・ベッテルとマーク・ウェバーはそれぞれランキング3位と4位の立場でルイス・ハミルトンとジェンソン・バトンを追っていた。マクラーレンのペアはレッドブルの取りこぼしをうまくすくい取ってポイントを稼ぎ、トルコで先頭を走っていたベッテルとウェバーが同士打ちしてしまったレースなどがその好例だ。シルバーストーンではレッドブルの2人にさらなる摩擦が生じた。フリー走行でベッテルが2つしかない新ウイングの片方を壊してしまい、チームはウェバーのマシンに取り付けられていたものを取り外してベッテルに使わせることにした。ベッテルの方がランキングで上位だからというのがその理由だった。ウェバーは明らかに不満そうだったが、レースでは見事優勝。チームからの祝福の声に無線でこう切り返した。「ナンバー2ドライバーにしては悪くないだろう?」

【ルーベンス・バリチェロ 2009年】

フェラーリで長年ミハエル・シューマッハのナンバー2として仕えたルーベンス・バリチェロ。2009年、ようやく彼にブラウンGPでタイトルを狙えるチャンスがめぐってきた。チームメイトはジェンソン・バトン。しかし、バリチェロはシーズン前半でバトンに23ポイント差をつけられてしまい、望みをつなぐためには起爆剤が必要だった。ドイツGPはその格好の機会になると思われた。1コーナーでバリチェロがリードを奪い、2番手を走っていたウェバーはドライブスルーペナルティで後退。しかし、3ストップ作戦のバリチェロはトラフィックにつかまってしまい、チェッカーを受けてみればバトンの後ろ、6位に転落していた。彼はチームの責任だと声を荒らげた。「今日はチームに、こうすればレースに負けるっていう素晴らしい見本を見せてもらったよ。僕は自分のすべてを出し尽くした。1コーナーで前に出たのに、彼らのせいでレースに負けたんだ。こんなことを続けていたら両方のタイトルを失うことになる。正直な気持ちを言わせてもらうと、今すぐ飛行機に飛び乗って家に帰りたい。チームのところへ戻ればくだらない言い訳をべらべらまくし立てられるだけ。でも今はそんなの聞きたくない」

【フェルナンド・アロンソ 2006年】

フェラーリのミハエル・シューマッハを相手にし烈なタイトル争いを繰り広げていたフェルナンド・アロンソ。彼の所属するルノーチームは、シーズン途中で革新的なマスダンパーの使用をFIAに禁止されてしまい、大きな打撃を受けていた。そして、イタリアGPでとうとうアロンソの堪忍袋の緒が切れる。決定打となったのは予選でアロンソがシューマッハのチームメイト、フェリペ・マッサをブロックしたとしてペナルティを科されたことだった。レースデーにルノーの記者会見が開かれ、アロンソは怒りをぶちまけた。「これが故意に誰かをブロックしていることになるんだったら、今後の予選は問題だらけになるだろうね」と彼は発言。「この距離でブロックだっていうんなら、どうやって今日のレースを戦えばいいのかも分からないよ。僕はスポーツマンだし、このスポーツを愛している・・・ここにいるファンのこともね。彼らの多くはスペインから来てくれているんだ。それなのに、僕はもうF1がスポーツだなんて思えないよ」

レース後、ルノーのチーム代表フラビオ・ブリアトーレも口を開き、当時騒がれていたイタリア・サッカー界の八百長問題を引き合いに出した。「この世界選手権は結果が決められた出来レースだ」とブリアトーレ。「どういうことか合点がいったよ――すべては最初から決まっているんだ。彼らはシューマッハをチャンピオンにするつもりだ。そしておそらくそうなるだろう。F1で起きていることに比べれば、カルチョーポリ(サッカーの不正スキャンダルを意味する)などかわいいものだよ」

この発言について、のちにブリアトーレはジョークだったと語り、文脈を無視して解釈されたと弁明した。

2003年フランスGP以降はお互い目を合わせることもなくなってしまったモントーヤとヘッド © Sutton Images
拡大

【ファン-パブロ・モントーヤ 2003年】

F1時代、物事をはっきり口にすることで知られたファン-パブロ・モントーヤ。しかし2003年フランスGPでは少々言葉が過ぎたようで、雇用主ウィリアムズの不興を買った。レースはチームメイトのラルフ・シューマッハがリードしていたが、最後のピットストップ後、クリーンなエアで走行できればモントーヤにも優勝のチャンスがあった。計画通りにピットインしたモントーヤだったが、すぐさまラルフが反応し、チームメイトのもくろみを阻止すべく最後のピットストップを要請。ウィリアムズがラルフを優先したと思い、頭に血が上ったモントーヤはチームラジオで次々とののしりの言葉をまくし立てた。テクニカルディレクターのパトリック・ヘッドは自分のドライバーから侮辱されたことに不快感をあらわにし、レース後は閉じられたドアの向こうで激しい言い争いが続いた。容赦ない言葉が交わされたのは明らかであり、その1週間後、モントーヤはウィリアムズとの契約がまだ18カ月残っているにもかかわらず、2005年のマクラーレン移籍を決めてしまった。しばらく経って、ヘッドは当時の状況を次のように語った。「ファン(モントーヤ)は短気な性格で、時々衝動的な判断をして衝動的な結論に達してしまう。一度彼が(チームを去ると)決めた以上、どうしようもなかった。フランスで彼はすっかりへそを曲げてしまい、われわれとしてもチームが無能と非難されることは受け入れられなかった。黙って見過ごすわけにはいかないと感じたんだ」

【ミハエル・シューマッハ 1998年】

スパ・フランコルシャンのウエットレースが劇的展開を迎えたのは24周目、ミハエル・シューマッハがデビッド・クルサードに追い付き、周回遅れにしようとした時だった。シューマッハがタイトル争いをしていたライバルはクルサードのチームメイト、ミカ・ハッキネンで、ハッキネンはすでにリタイア。フェラーリのジャン・トッド監督は自らマクラーレン陣営に赴き、シューマッハをスムーズに前に出すよう念を押していた。クルサードはポジションを譲ろうと速度を緩めたが、なぜかレーシングラインにとどまり、激しい水しぶきで視界を妨げられたシューマッハはマクラーレンの後部に激突。2人ともピットに戻ったが、シューマッハはマシンを飛び降りると――多くのテレビカメラを引き連れ――鬼のような形相でマクラーレンのガレージに押しかけ、クルーに制止されながらクルサードに怒鳴った。"おまえ、オレを殺すつもりか!?"

【アイルトン・セナ 1993年】

鈴鹿でレースをリードしていたセナが周回遅れのルーキー、エディ・アーバインとデイモン・ヒルに追い付いた。ヒルのチームメイト、アラン・プロストは追い上げながら2番手を走行中。アーバインの前に出たセナは、乾き始めた路面でスリックタイヤを履いたウィリアムズのヒルを抜きあぐねる。そこへアーバインがリーダーのセナを抜き返し、ヒルをパスしようと試みた。何度か前に出ることには成功したが、ポジションを維持することはできず、ラインを外して再びセナに先行を許した。セナはレースに勝ったものの、終了後アーバインを見つけ出し、いきなりこう言い放った。「一体どういうつもりだ?」

アーバインはレースをしていたと答えたが、セナはほおを紅潮させ、「おまえのはレースじゃない! ひどいドライビングしやがって、おまえはレーシングドライバーなんかじゃない、クソッタレだ!」と怒声をあげた。ジョーダンのモーターホームで繰り広げられた口論は、最後にセナがアーバインにパンチをお見舞いして去っていったという。

セナはバレストルへの抗議の気持ちでプロストに突っ込んだことを認めた © Getty Images
拡大

【アイルトン・セナ 1991年】

1989年、アイルトン・セナとアラン・プロストはワールドタイトルを争ったが、2人は鈴鹿でクラッシュ。セナは最終シケインでランオフエリアを通ってコース復帰し、優勝したものの失格処分を言い渡された。その結果プロストがチャンピオンに決定。セナはFIAのジャン-マリー・バレストル会長が選手権を操作したと憤慨し、その思いをずっと引きずっていた。翌年の日本GP、セナが獲得したポールポジションの位置をレーシングライン側に変更することがいったんは認められたが、バレストルがこれを拒否。セナは1991年にその時の思いを語っている。「自分に言い聞かせたよ。"僕は自分の仕事をクリーンにやろうとしているのに、愚かな連中によって邪魔されている。いいさ、明日プロストがスタートで前に出たら1コーナーで思い知らせてやる。彼はターンインしない方がいいだろう、決して曲がれはしないから"とね。そしてその通りになったんだ」

セナは1コーナーでプロストを押し出し、それと引き換えにタイトルを手に入れた。

【ジル・ビルヌーブ 1982年】

イモラで開催されたサン-マリノGPをFOCAチームがボイコットしたため(その年のブラジルGPの失格処分に対する抗議)、レースはわずか14台でスタート。ルノー対フェラーリの真っ向勝負になるはずだったが、ルノーの2台はリタイア。フェラーリのジル・ビルヌーブとディディエ・ピローニにとっては楽に勝てるレースだった。チームからはイージーに行けとの指示が出ており、後はチェッカーまでマシンを持ち帰るだけでよかった。ビルヌーブはこの指示をポジションキープと受け取り、ピローニが2度にわたり自分を追い抜いたのは観衆へのサービスだと考え、最終ラップでクルージングしていた。一方のピローニは――自由にレースをしていいと受け取っており――ビルヌーブをパスして先にチェッカーを受けてしまった。当然ながらビルヌーブは激高し、「今後は戦争だ、たたきのめしてやる」と叫んだ。「2位は立派な結果さ。だけど、ろくでなしに1位を盗まれての2位となれば話は別だ」さらに、2度とピローニとは口を利かないと宣言。その2週間後、ゾルダーのプラクティスでピローニのタイムを破ろうとコースインしたビルヌーブはクラッシュで帰らぬ人となった。

常に気持ちに正直だったハント © Sutton Images
拡大

【ジェームス・ハント 1977年】

ジェームス・ハントは自分の感情を内にとどめるようなタイプではなく、アクシデントの数周後、コース上でライバルに対して拳を振り上げる姿は毎度おなじみだった。そうした事件の1つが1977年オランダGPで起きた。ザントフォールトの有名なターザン・コーナーで、マリオ・アンドレッティが外から大胆なオーバーテイクを仕掛けた。ハントはロータスに譲ることをよしとせず、2人は出口で接触、しかし被害が大きかったのはハントの方で、リタイアを強いられた。すぐさまパドックに戻ったハントはロータスの代表、コーリン・チャップマンを見つけ出してこう言い放った「あんたのドライバーは他人にぶつけないことを学ぶまで、ワールドチャンピオンになんかなれないぞ」

数周後、アンドレッティのエンジンがブロー。ハントは戻ってきたアンドレッティにも詰め寄り、同様の罵声を浴びせた。のちにアンドレッティはプレスに語った。「ハントによると、グランプリレーシングでは外からパスしてはならないらしい――バカげた話だ! ジェームス・ハントといえばワールドチャンピオンじゃないのかい? 彼の問題は、自分をこの世のキングだと思っていることさ!」

冷静になってから慌ててアンドレッティと仲直りしたハントは、F1ではアウトサイドからパスしないものだという発言でプレスにからかわれた。それに対し、彼はいつもの調子でこう言い返した。「テレビでもライブでもいいが、実際に現場を見た上で、まだ僕に責任があるというのなら、僕が記事の書き方を知らないのと同じくらいモーターレースについて無知な連中なんだろう」

【ヨッヘン・リント 1969年】

最後の暴言は、これまでの例と比べて表面上それほど過激なものには思えないかもしれない。しかし、ウイングの使用に疑問を投げかけたヨッヘン・リントの質問状は1969年当時大問題となった。この年、バルセロナのモンジュイッヒ・サーキットでウイングの破損によるひどいクラッシュを喫していたリントが神経質になっていたのはうなずける。彼はロータス代表のコーリン・チャップマンに個人的な手紙を書いて思いを伝えた。「僕は確信を持ってドライブできるクルマにしか乗らないし、現状はその状態にほど遠いと感じている」と彼は記した。また『Autosport(オートスポーツ)』と『Motoring News(モータリング・ニュース)』にあてた別の公開質問状では、空力の性急な開発はチャップマンの責任だと訴えた。「ウイングは危険な代物だ。第一にドライバーにとって、第二に観客にとってもね」とリント。「昨年、スパで初めてF1でウイングが取り入れられた時は、フェラーリとブラバムが採用したようなフロントとリアの小さなスポイラーに過ぎなかった。これらは高速時以外の影響がごくわずかで、スタビライザーのような役目を果たした。そこまでは良かったし、それ以上のことは誰も考えなかった。ところが1カ月後、フランスGPでロータスが初めて本格的なウイングといえるものを持ち込んだ。空力を使ってできるさまざまな可能性に皆が気付いた。だが、もしもウイングに問題が発生した場合にどうなるかを熟考し、懸念する者は残念ながら現れていない。そして、それがレースに与える影響についても」

リントはチャップマンのマシンの安全性を疑っただけではなく、ロータスを勝利に導くコンセプトに異議を唱えたのだった。チャップマンは大立腹で、しばらくの間2人は面と向かって話すことを拒否。コミュニケーションはリントのマネジャー、バーニー・エクレストンを通してのみ行われたという。

© ESPN Sports Media Ltd.