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  • 危険なコースにドライバーたちが抗議

特集:1975年スペインGP

Laurence Edmondson / Me 2011年12月18日
美しいモンジュイック・パークだが、4度目となる1975年のレースが最後となった © Sutton Images
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バルセロナの町を見下ろすモンジュイック・パークのツイスティな丘陵沿いの道に、かつてグランプリが開催されたことを思わせる面影はほとんど残されていない。昔スタート・フィニッシュストレートがあった場所に建てられた記念碑にサーキットの輪郭が刻まれているが、ここにF1の歴史があることなど一切気付くことなく公園内を歩くことができる。

広大なランオフエリアとテックプロ・バリアに囲まれた現代サーキットを考えると、これほど狭くうねりのある並木道でグランプリを開催しようなどと考えたこと自体が驚きだ。だが事実、1969年から1975年の間に4回、モンジュイックでスペインGPが開催された。当時はマドリード郊外のハラマ・サーキットとの交互開催だった。

どちらの会場がより尊ばれ、どちらがドライバーに恐れられていたかは明らかだ。1970年の段階で、すでにFIAはモンジュイックのレイアウトには改修が必要だと警告しており、スピードを落とすシケインの必要性を訴えていた――特に懸念されたのは"スタジアム・ジャンプ"の部分。だがバルセロナが改修に抵抗し続けたため、FIAはレースをカレンダーに残したければ1977年までに実行するよう最後通告を突きつけた。

プレッシャーを絶やさぬようにしようとするFIAは、1975年のレースまでに新しいガードレールと柵を設置するよう指示し、オーガナイザーたちはわずか1週間程度でそれをやり遂げなければならなかった。改修の必要性は明らかだったものの、準備期間があまりにも短く、金曜プラクティス開始の段階でサーキットの状態は万全にはほど遠かった。

チーム自らサーキットの修理に動いた。写真はチーム代表のケン・ティレル © Sutton Images
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安全基準が満たされていないという最初の兆候は、当時の現役ワールドチャンピオン、エマーソン・フィッティパルディが写真撮影のためにサーキットのバリアにもたれかかった時点で露呈する――彼が体重をかけただけでバリアはあっけなく倒れてしまったのだ。さらなる点検の結果、サーキット中のバリアが同様の状態だと判明。

2年前にレースを引退し、『Daily Express(デイリー・エクスプレス)』のリポーターを務めていたジャッキー・スチュワートはこの話題を取り上げている。「私がバルセロナに到着した時、コースはオーガナイザーの承認を受け、プラクティスと予選が行われようとしていた。だが私1人でもバリアを動かすことができる状態で、素手でボルトを取り外すことが可能だった。中には緩んでいたため自然に抜け落ちてしまったものや、ナットの付いていないものまであった」

グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション(GPDA)はすぐに行動を起こし、バリアが基準を満たさなければストライキを起こすと運営に詰め寄った。GPDAの会長だったデニス・ハルムが交渉役となり、ニキ・ラウダ、カルロス・ロイテマン、ジョディ・シェクター、フィッティパルディといったビッグネームも支持を表明。金曜午前のプラクティスは中止され、午後になってもコースインしたのはGPDAに加入していなかったジャッキー・イクスとヴィットリオ・ブランビラの2台のみだった。

しかしドライバーたちの監視線は厳しく、徹底されたもので、オーガナイザーは夜を徹してバリアの修復作業に取り組んだ。土曜日の午前中、チームは自らのメカニックたちを送り出してすべてのボルトがきちんと締められていることを確認し、仕上げを急がせた。正午になるとGPDAがサーキットを点検し、レースを実施すべきか否かの投票を行った――サーキットが安全だと感じたメンバーは6人しかいなかった。

窮地に追い込まれたオーガナイザーはオリンピックスタジアムを封鎖してマシンを閉じこめるとまで言い出した © Sutton Images
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それでも、この頃までにはオーガナイザーも後には引けなくなっており、レースに出なければ契約違反になるとチームらに通告。『Guardian(ガーディアン)』のレポートによると、バルセロナ側は週末の間一時的なパドックとして使われていたオリンピックスタジアムを封鎖してマシンを押収するとまで脅迫した。こうしてサーキット当局にプレッシャーをかけられたFIAとチーム、ドライバーたちは渋々了承し、予選が始まるととりあえずピットを出て行った。スチュワート卿は一部ドライバーに対してレースに出るよう"不公平な圧力"があるのを感じたといい、GPDAは次のような公式声明を発表。「ドライバーは本日午後に行われた2回目のプラクティスに参加する以外の選択肢を与えられなかった」

抗議を続けたのはフィッティパルディただ1人で、マクラーレンの契約義務を果たすために必要な3周をこなしたのみで、それも予選ラップとは思えないほど遅いタイムだった。セッション後、彼は「僕はレースをしたくない。グランプリまでに安全性が確保されるとは思えないからだ」とコメント。

予選はフェラーリのクレイ・レガツォーニとラウダがフロントローを独占し、ジェームス・ハント、マリオ・アンドレッティが3番手、4番手に並んだ。まだ多くのドライバーが漠然とした不安を抱えたままだったが、日曜の午後にスタートが切られ、25台のマシンが猛スピードで1コーナーに突進した。

レース開始から1マイルも走らぬうちにクラッシュバリアはその強度を試されることになる。後ろから押されたラウダがスピンを喫し、右コーナーのバリアにノーズから突っ込むと、その過程でチームメイトのレガツォーニが巻き添えに。ラウダのレースはそこで終了したがフェラーリの両ドライバーは無傷で、レガッツォーニは長いピットストップを経てコースに復帰。

ラウダとレガツォーニが1周目でクラッシュ © Sutton Images
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ヘスケスのハントがトップに立ったが、6周目、彼もオイルパッチに乗ってリアを失い、バリアにヒット。レース終了となった。しかし、ここでもバリアは試練に耐え、レースは続行された。アンドレッティがわずかな間トップに立ったが、サスペンショントラブルでリタイア。続いてレースをリードすることになったのはエンバシー・ヒルのロルフ・シュトメレン。カルロス・パーチェとロニー・ピーターソンを先導する予想外の展開に。

しかし、26周目に惨事が起きる。スタート・フィニッシュラインを過ぎたばかりのシュトメレンのリアウイングが"スタジアム・ジャンプ"手前で脱落。突然ダウンフォースを失ったマシンはバリアに激突し、宙を飛んでコースを横切り、反対側のバリアの頂点をかすめた――偶然にもそこは前日にエンバシー・ヒルのメカニックたちがボルトを締め直した場所だった。マシンはセーフティネットを突き破ると、街灯をなぎ倒して逆さまになって観戦エリアに落下。この際に消防士1人と観客4人が死亡している。シュトメレンは奇跡的に両脚の骨折と肋骨のひびだけで済んだ。

事故発生から4周後、10分が経過してようやく知事はレース中止を命令し、現場への救急隊のアクセスを許可。目撃者によると、警察はシュトメレンを救助しようとする人々に警棒を突きつけて制止し、マーシャルたちはマシンに搭載されていた消火器が使えなくなると、閉じこめられたシュトメレンを残してマシンを離れてしまったという。チーム代表のグラハム・ヒルとウィルソン・フィッティパルディはつぶれたマシンの残骸に取り残されたドライバーを救おうとピットから駆けつけた。

観客エリアから運び出されるシュトメレンのマシンの残骸 © Sutton Images
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結果的に問題のバリアはレースを通して必要な役割を果たしたのだが、この2日間の苦々しい議論が人々の脳裏に浮かび、数人のドライバーはすぐにオーガナイザーの責任を追及し始めた。フィッティパルディはスイスの自宅からこう述べた。「何と不名誉なことか。コースの安全性は十分ではなかった。僕は非常に、非常に憤慨している。全員に責任の一端がある――参加したドライバーも、オーガナイザーもだ。だが最も責任が重いのはレースを承認した国際スポーティング委員会だ」

シュトメレンのマシンが自分の上を飛び越えていくのを目撃したパーチェが付け加えた。「スタートが許されるべきレースではなかった。人の命をこのようにもてあそぶことなど許されるべきじゃない」

実際のところはコース上の危険なセクションでウイングが破損してしまったことが原因の悲劇的な事故だった。関係者の誰かに責任を割り当てることはできないし、そうすべきでもない。キャリアを通して多くの悲劇を目にしてきたチームオーナーのヒルは、冷静に状況を分析している。

「もっとひどい結末もあり得た」と彼は言う。「安全バリアは持ちこたえたし、デブリネットはマシンをスローダウンさせ、あれ以上観戦エリアに進入しないよう食い止めた」

「イギリスでチケットを購入すると、モーターレースは危険であるとの注意書きがされており、観戦が自己責任であると明記されている」

レースディスタンスの66%しか完走していなかったため、6人の入賞者にはハーフポイントしか与えられなかった。勝者はマクラーレンのヨッヘン・マス。6位にはレラ・ロンバルディの名前があり、今日までF1で唯一ポイント(0.5ポイントではあるが)を獲得した女性ドライバーとして記録されている。

1977年のスペインGP開催地としてモンジュイック・パークの契約が更新されなかったことに驚きはない。こうして同サーキットの短くもドラマチックなF1の時代は終わりを迎えた。

Laurence Edmondson is an assistant editor on ESPNF1

© ESPN Sports Media Ltd.
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Laurence Edmondson is deputy editor of ESPNF1 Laurence Edmondson grew up on a Sunday afternoon diet of Ayrton Senna and Nigel Mansell and first stepped in the paddock as a Bridgestone competition finalist in 2005. He worked for ITV-F1 after graduating from university and has been ESPNF1's deputy editor since 2010