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  • 多重衝突アクシデント

トップ10:1周目のクラッシュ

Martin Williamson / Me 2011年7月7日

レースのスタートというのは一流のドライバーにとっても危険な瞬間であり、多数のマシンがコーナーに押し寄せてしてしばしば大混乱が起きる。こうした1周目での多重衝突を取り上げてみよう。

モンツァの多重事故後、コース上に散乱するマシン ©
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【1978年イタリアGP】

巻き込まれたマシンの台数が最も多いクラッシュは11台が絡んだモンツァの事故だ。そしてそれはロニー・ピーターソンの悲劇的な死につながる。多くの非難が向けられたのはスターターで、グリッドに全員が並び終わらないうちにライトを点灯させてしまったため、中団にいた数台が前のマシンより先にスタートしてしまった。その結果、狭いシケインに何台ものマシンが殺到することになり、リカルド・パトレーゼを避けようとしたジェームス・ハントがピーターソンに接触、ピーターソンはバリアに衝突した。ほかに8台が混乱に巻き込まれている。医療スタッフはしばらくの間、外れたホイールで頭部を打ち意識を失っていたヴィットリオ・ブランビラの治療に手を尽くしていた。ピーターソンは他のドライバーたちによってロータスのマシンから引き出され、コース上に寝かされていた。ケガの状態は深刻ではあったが、命に別状はないものと思われていたのだ。しかし、彼が治療を受けるまでには長い時間を要する。やがて両ドライバーは病院に運ばれ、ブランビラはすぐに退院。しかし手術を受けたピーターソンは合併症を起こし、翌日塞栓症のためにこの世を去った。

【1998年ベルギーGP】

雨のスパ。1周目のクラッシュは1度だけでなく、2度起こった。1回目はデビッド・クルサードがコントロールを失い、マクラーレンマシンを90度スピンさせて多数のライバルを巻き込んだ末にレースがストップされた。再スタート時は4人のドライバーが欠けていた――うち3人はマシンが足りなかったことが理由で、1人はけがを負ったルーベンス・バリチェロだった。2度目のスタートではさらに波乱が起きる。チャンピオンシップリーダーのミカ・ハッキネンが第1コーナーでスピンアウトし、ジョニー・ハーバートを押し出す。さらにクルサードがアレキサンダー・ブルツと絡み、セーフティカーが出動。クルサードの忘れたい1日はこれだけでは終わらなかった。トップを独走していたミハエル・シューマッハが彼を周回遅れにしようとするも、クルサードがラインをしくじり、シューマッハが追突。怒り心頭でマクラーレンのガレージに乗り込んだシューマッハは「この**野郎、オレを殺す気か!」とクルサードに食って掛かる。2人はメカニックにより引き離された。

【1950年モナコGP】

1周目のクラッシュが決して新しい現象ではないことの証明に、史上2回目のF1選手権レースでもそれは起きている。大歓声を浴びてスタートし、2番手にいたニーノ(ジュゼッペ)・ファリーナが海水で濡れたタバココーナーでスリップ。その結果起きた混乱で8台のマシンがリタイアに追い込まれ、2周目終了時点ではスタートした19台のうち残っていたのはわずか9台だ。さらに路面はこぼれた燃料で水浸しの状態。先にいて逃げ切ったのはファン・マヌエル・ファンジオとルイジ・ヴィロレージだけだった。だが1周して戻ってきたファンジオはイエローフラッグが振られていることに気付く。「観客たちは全員・・・レースをリードしている私ではなく、違う方角を見ていた」と彼は言う。そしてファンジオは後続のドライバーに危険を知らせるため、本能的に腕を上げた。現場に到達してみると路面がふさがれ、マーシャルは必死で周辺をクリアにしようとしていたが、一面に燃料が漏れ出ていた。ゆっくり前進したファンジオは、自分のクルマでクラッシュしたマシンを押しのけて走行を続けた。ヴィロレージとアルベルト・アスカリがこれに続いたが、1周のリードを守り続けたファンジオには誰もかなわなかった。

ジョディ・シェクターが1周目に起こしたクラッシュ後のシルバーストーンの惨状 © Sutton Images
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【1973年イギリスGP】

この日起きた多重衝突事故は、ジャッキー・スチュワートの機転がなければはるかに深刻な事態になっていただろう。レーススタート直後にジャッキー・オリバーがニキ・ラウダのマシンに追突し、まず2台が姿を消す。その先で多重衝突が発生し、赤旗が出された。原因はルーキーのジョディ・シェクターがラインを外し、芝に乗ってスピン、コースを横切りピットウオールに激突したことだったとされる。集団は行き場をなくし、多くのマシンが混乱に巻き込まれた。先頭集団はイエローフラッグが出たことにしか気付いておらず、1周して戻ってくるまで状況を把握していなかった。1周後、彼らはデブリの壁に直面する。俊敏な反応を見せたスチュワートは急ブレーキングして片方の腕を高く上げ、後続に危険を知らせつつ同様に行動するよう指示した。「彼の瞬時の状況判断が、間違いなく命を救った」と『Guardian(ガーディアン)』のエリック・ディモックは書き記している。ほとんどのドライバーは無傷だったが、ブラバムのマシンからアンドレア・デ・アダミッチを救出するのに40分ほどかかり、彼は2度とレースに復帰することはなかった。最も影響を受けたのはサーティース・チームだ。すでに苦しいシーズンを送っていた彼らは3台のマシンすべてを失ってしまった。100分後にレースが再開された時には、最初のスタート時にいたメンバーのうち9人が欠けていた。

【1976年イギリスGP】

3年後、またしてもイギリスGPで大混乱が起き、危うく暴動に発展するところだった。この年、多数の観客がジェームス・ハントを見ようとブランズハッチに詰めかける。だがハントはクレイ・レガツォーニとニキ・ラウダのフェラーリ同士が引き起こした第1コーナーのクラッシュに巻き込まれ、レースを終えたかに思われたものの、半ダースものマシンの残骸が片付けられる間、チームはマシンがドライブ不能になったドライバーのためにスペアカーの準備を進めた。ところがここでスチュワードから伝令が届き、1周目を完走していないドライバーは代替マシンを使うことはできないと通告される。ハントを含む数名のドライバーが出走できなくなった。これを聞いた群衆が激怒したため、スチュワードは引き下がり、ハントは再スタートを切って優勝した。とはいえ、喜びは長く続かない。フェラーリが不服を訴え、2カ月以上経ってからハントの優勝は取り消され、勝者はラウダに書き換えられている。

【2001年ドイツGP】

偉大なドライバーにも失敗はあるという一例。ワールドチャンピオンのミハエル・シューマッハはホッケンハイムのスタートでギアがうまく入らず、のろのろと発進したフェラーリを避けきれなかったルチアーノ・ブルティが背後から激突。「ブルティが乗ったプロストは回転しながら空中に舞い上がり、ベルノルディとヨス・フェルスタッペンのアロウズの間に逆さまになって落ちた。衝撃のあまりシューマッハのフェラーリは200mほど惰性で走り続け、ブルティのマシンはホイールを失い、全方向にデブリを飛び散らせた」と『Daily Mirror(デイリー・ミラー)』は描写している。再スタートが命じられたが、シューマッハに運は巡ってこなかった。乗り替えたフェラーリのスペアカーもトラブルで止まってしまい、彼はコース脇の木陰から残りのレースを見守ることに。だが地元の観衆はもう1人のシューマッハに声援を送り続けた。弟のラルフがここでキャリア通算6勝のうちの1勝を飾っている。

事故後コースから排除されるジャック・ラフィットのリジェ。この事故でラフィットはキャリアを終えた © Sutton Images
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【1986年イギリスGP】

道をふさぐような多重クラッシュではなかったが、ダメージを負ったマシンがコース上に散らばった。第1コーナー手前でメカニカルトラブルを起こしたティエリー・ブーツェンのアロウズがコースを外れ、バリアに当たってはね返されてきたため、後続の多くがデブリを避け切れず。この日グランプリ最多出走記録に並んだとして祝福を受けたジャック・ラフィットは、両脚を骨折して病院に運び込まれた。彼はこのケガでキャリアを終えることになる。それに比べて幸運だったのはナイジェル・マンセルだ。スタートして間もなくドライブシャフトのトラブルに見舞われ、レースは終わったと無線でピットに伝えたばかりだった。再スタートでスペアカーに乗り込んだマンセルは1位でチェッカーを受けた。さらにこのレースを印象づけたのは、大急ぎでマシンを用意するあまりにウィリアムズのピットクルーがドリンクボトルを乗せ忘れたことだった。

【1980年カナダGP】

狭いイル・ノートルダム・サーキットのフロントローから第2コーナーに飛び込んだアラン・ジョーンズとネルソン・ピケの2人は互いに決して引こうとはしなかった。両者はホイールを接触させ、ピケはウオールに激突。「これが後続車のスライド、追突の連鎖反応を生んだ」と『Times(タイムズ)』は記している。当時ピケのマネジャーを務めていたバーニー・エクレストンは「ジョーンズがネルソンに幅寄せし、彼をウオールに追い込んだんだ」と嘆いている。6人のドライバーがスペアカーに飛び乗ったものの、その他はチームのシニアドライバーにマシンを譲らなければいけなかった。再スタートではジョーンズがピケの前に出るも、すぐにピケが抜き返しリードを奪う。勝利は確実と思われたのだが、ピケのエンジンがブロー。最初にフィニッシュラインを越えたのはディディエ・ピローニだった。しかし彼はジャンプスタートにより60秒の加算ペナルティを受け、ジョーンズが勝者となった。彼は同時にワールドタイトルも手中に収めている。

【1979年アルゼンチンGP】

ドライバーたちが1周目にS字に差しかかった時だった。ジョン・ワトソンとジョディ・シェクターがホイールを接触させ、8台を巻き込むアクシデントに。幸いなことに負傷者はおらず、カオスで始まった1日の最後にはちょっとした茶番劇が待っていた。この日のチェッカー役だったファン・マヌエル・ファンジオが周回遅れで走行していた5位のロータス、マリオ・アンドレッティをウイナーと間違えて1周早くチェッカーを振ってしまったのだ。本来のリーダーであり、レースウイナーはジャック・ラフィットだった。

【1989年フランスGP】

ポール・リカールでの比較的派手なクラッシュの1つだ。ティエリー・ブーツェンのウィリアムズと絡んだマウリシオ・グージェルミンのマーチが浮き上がり、ナイジェル・マンセルのフェラーリ後部に着地。再びスペアカーの出番となるが、マンセルは首と頭にケガをしていたにもかかわらず、チームメイトのゲルハルト・ベルガー用にセットアップされていたマシンに乗り込んでピットレーンからスタートし、2位でフィニッシュした。

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Martin Williamson is managing editor of digital media ESPN EMEA

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Martin Williamson is managing editor of digital media ESPN EMEA Martin Williamson, who grew up in the era of James Hunt, Niki Lauda and sideburns, became managing editor of ESPN EMEA Digital Group in 2007 after spells with Sky Sports, Sportal and Cricinfo