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  • スピードの女王たち

トップ10:女性グランプリドライバー

Martin Williamson / Me 2011年6月24日

マーティン・ウィリアムソンがグランプリレーシングの世界に飛び込んだ10人の女性ドライバーをご紹介。

愛車マセラティのコックピットでレース前の一服を楽しむマリア・テレーザ・デ・フィリッピス © Press Association
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【マリア・テレーザ・デ・フィリッピス】

彼女がレースを始めたのは22歳、兄弟たちに速く運転することなどできるはずがないとからかわれたのがきっかけだった。わずか6年でマセラティのワークスドライバーとなり、1958年には前年にファン・マヌエル・ファンジオが5度目のワールドタイトルを獲得したマセラティに乗って史上初の女性F1グランプリドライバーとなった。4レースを戦い、1959年にジャン・ベーラのポルシェ・チームから誘いを受けたが、8月にベーラが事故死。フィリッピスも引退した。「あまりに多くの友人を亡くしてしまった」と彼女は言う。「そしてベーラも・・・それが一番の悲劇だったわ。私が参加するはずのレースだったの。それ以来サーキットには行かなかった。次の年、私は結婚して娘が生まれ、家庭生活の方が大事になったのよ」

【エレ・ニース】

モーターレース史の中で最も華やかであり、そして悲劇的な人物だ。ダンサーとしてスタートしたニースは時にヌードモデルも務め、多くの熱烈なファンに支えられて社会の階級を駆け上がっていった。ケガでスキーができなくなるとモーターレースに興じ始め、1929年には女性だけのレースで優勝。その傍ら、女性による自動車の世界最高速を樹立。名声とともにアメリカへ渡り、ダートレースに参戦する。エットーレ・ブガッティからマシンを借りてフランスとイタリアGPに出場すると、観客を大いに喜ばせて巨額のコマーシャル料を手にした。勝利こそなかったものの、彼女は多くの(男性)ライバルより前でフィニッシュしている。1936年のブラジルで大きなクラッシュを経験し、その後のキャリアは失速する。戦後、ゲシュタポの一員だったという――いわれのない――罪を着せられてすべてを失った。数年のうちに彼女はパリで売れないダンサーを支援する慈善団体からわずかな援助を受けて暮らすようになった。偽名を使い、家族にも見捨てられた彼女の存在は完全に忘れ去られた。葬儀の費用も慈善団体がまかない、実の妹から家族の墓に入れることさえ拒否されるという悲しい最期だった。

【レラ・ロンバルディ】

彼女はF1で初めてポイントを獲得した女性として永遠にその名を歴史に刻んだ――ただし1975年スペインGPは早い段階で打ち切られたため、正確にはハーフポイントである。彼女は全17戦に出走しており――これもまた女性最多記録にあたる。レースに興味を持ったきっかけがまた変わっていて、スポーツ中の事故で病院に急行する際、スピードに魅了されたというものだった。やがてレーシングドライバーの雑用係として働き始めるとその関心はさらに高まった。コ・ドライバーに昇格し、さらにパートナーを説得してドライバーの座を交代してもらうと、初レースで優勝してしまった。しばらくツーリングカーで戦った後シングルシーターに転向。1974年ブリティッシュ・フォーミュラ5000に参戦中、古いブラバムでイギリスGP予選に挑んだが、通過はならず。1975年、ヴィットリオ・ザノン伯爵にF1でエントリーするための資金援助を求め、南アフリカで予選通過を果たした。これで自身のスポンサーを獲得し、スペインのハーフポイントでさらに話題を呼んだが、公平を期すために言うとレースは26周で中止されており、彼女はリーダーから2周遅れだった。だが活躍はこの一度きりではなく、同じシーズンのドイツGPで7位に入っている。1976年はわずか1戦でロニー・ピーターソンと交代させられ、しばらくRAMチームで古いブラバムに乗っていたが、やがてF1から姿を消した。しかし彼女はその後もスポーツカーで走り続け、1992年にガンのため死去した。

ヘスケスのマシンに乗るディビナ・ガリカ © Sutton Images
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【ディビナ・ガリカ】

レースを始める前は有名なオリンピックスキーヤーだった。滑降や回転で1964年、1968年、1972年の五輪に出場し、イギリス女性チームのキャプテンを務めた。スキーのワールドカップでも2度の表彰台を獲得し、当時のイギリス滑降最高速記録を持っていた。モータースポーツ進出後も1992年にスキーの代表として復帰し、4度目のオリンピック出場を果たしている。ドライバーとしてのキャリアはセレブレティレースに招待されたのが始まりで、天性の才能で人々を驚かせた。その後カート、F2、F1へと進み、やがてスポーツカーやトラックレースにも出るようになった。1976年、ブリティッシュ・シェルスポーツ・インターナショナル・グループ8にエントリーし、何度か優秀なパフォーマンスを示した。これに目を付けたニック・ホワイティングにより、イギリスGPへの出場が決まる。レースでカーナンバー13が使われたのは13年ぶりのことだったが、結果は予選落ち。1977年はシェルスポーツで競争力も資金力も乏しいサーティースを駆って何度か表彰台に上がった。1978年、彼女はヘスケス・レーシングと契約したが、またもマシンは競争力に欠け、エントリーしたF1レースで一度も予選を通過できなかった。見切りをつけた彼女は、その頃ブリティッシュ・フォーミュラ・ワン・シリーズと名を変えたシェルスポーツに戻っていった。サンダースポーツS2000スポーツカーカテゴリーにも参戦し、何度もトップ10フィニッシュを飾った。その後トラックレースにも挑戦している。ガリカはアメリカでスキップ・バーバー・レーシング・スクールのインストラクターとなり、やがて重役に昇進した。

【ドロシー・レビット】

初期の自動車レースのパイオニアであり、史上初の女性ドライバーとして1903年にレースに出た。1906年、女性の地上最高速を樹立し、またリアミラーが発明される以前から、"運転する時は手近に手鏡を置いておくべき"と女性に呼び掛けていた。"渋滞の中を走っている時に、時折掲げて後方を確認するといいのよ"というのがその理由だ。スピードボートのレースでも優勝し、またパイロットの免許取得に初めて挑戦した女性でもある――さらには1903年、ロンドンのハイドパークで警察に呼び止められ、スピード違反で初めて罰金を科された人物の1人という不名誉な記録もある。1907年にブルックランズがオープンした際にはしばらくレース出場を禁止されていた。女性騎手が存在しないのに、女性ドライバーがいるのはおかしいと考えるサーキット側に拒否されたためだった。

【デザイア・ウィルソン】

南アフリカ出身のモーターバイクチャンピオンの娘だったウィルソンは1980年のイギリスGPで一度だけF1世界選手権に参戦したが、予選を通過することはできなかった。"私の人生で最も失望した週末"と彼女が言うように、与えられたマシンはひどい出来で、イベント自体が"詐欺まがい"だったという。1年後、南アフリカGPでティレルをドライブし、グリッド最後尾から9番手までポジションを上げたが最後はスピンを喫した。このレースは開催時点では選手権レースだったが、数週間後、国内の政治情勢のため格下げされてしまった。だが彼女は記録上、F1として扱われる全てのシリーズの中で優勝した初の(現在に至るまで唯一の)女性ドライバーとされている。1980年のブランズハッチで行われたブリティッシュ・オーロラF1シリーズでの勝利だ。同年、アラン・デ・カディネットと世界耐久レースにも出場し、モンツァとシルバーストーンで勝利を飾った。1982年にインディアナポリス500にエントリーしたが、こちらは予選落ちとなっている。

【ケイ・ペトレ】

カナダ生まれの彼女は20代でイギリスに移り、夫の影響で運転を始めた。1933年に初めて自分のレーシングカー――2リッターのブガッティ――を購入し、すぐにブルックランズで頭角を現し始めた。1934年、ヒルクライムなどにも参戦する傍らドロシー・チャンプニーとパートナーを組み、ル・マン24時間レースに参戦、完走を果たした。スピードそのものに魅入られた彼女は記録を追い続けた。巨大な10.5リッター・ドラージュの運転席に座ると、小柄なペトレの姿はほとんど見えなかった――後に明らかになったところによると、彼女はペダルに足を届かせるために木製のブロックをペダルにくくりつけていたという。1934年、彼女は129.58mphというサーキット最高速記録を作った。10カ月後、ライバルのグウェンダ・スチュワートが記録を更新したが、それを見たペトレはすぐに再挑戦し、スチュワートのタイムを塗り替えてみせた。その3日後、さらにスチュワートが最速を更新すると、さすがのペトレも敗北を認めざるを得なかった。1937年には南アフリカGPに参戦し、本拠地でも安定した成績を残し続けた。しかしこの年のブルックランズで大きなクラッシュに巻き込まれ、頭部に重傷を負って数日間昏睡状態に陥った。1938年、彼女は最愛のブルックランズに最後の登場を果たし、観衆の大声援を受けたが、以前のような度胸を持てなくなったと自ら認め、以後2度とサーキットでのレースには出なかった。しかしナビゲーターとしてラリーに挑戦、やがてドライバーも務めた。

女性ドライバーとして注目を集めたジョバンナ・アマティだったが、ブラバムのシートをデイモン・ヒルに明け渡すことになる © Sutton Images
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【ジョバンナ・アマティ】

彼女より前にトップレベルでレースに出た多くの女性ドライバーと違い、アマティは女性であるがゆえにチャンスを得たといえる。F3でレース出場を続け、1986年には勝利も挙げているが、彼女の記録は非常に平凡なものであり、ブラバムから1992年シーズンのドライバーに選ばれた時には驚いた者が少なからずいた。チームは破たん寸前であり、どうしてもスポンサーが欲しかったのだろう。彼女のために言っておくと、ブラバムのマシンは粗末なものでテストも不足していた。結果、キャラミ、メキシコシティー、インテルラゴスの3戦で彼女は全て予選落ち。若きデイモン・ヒルにシートを明け渡すことになった。思うようにスポンサーが獲得できなかったための、またも財政的理由による交代劇だった――が、彼もまた8戦中6回予選落ちを喫している。アマティはレースを続け、1999年にスポーツレーシング・ワールドカップSR2クラスで総合3位に入った。その後ジャーナリズムの世界に転身し、テレビのコメンタリーなども務めた。資産家の娘だったため、子供の頃に身代金目的のギャングに誘拐されたことがある。

【エリザベス・ジュネック】

その目覚ましいキャリアは1920年代のブガッティのドライバーだった夫を中心に始まった。当初はメカニックを務めていたが、夫が戦時中のケガでギアチェンジが困難になると彼女がステアリングを握るようになった。1923年にプロデビュー。1926年には男性と対等にレースをするようになり、高い評価を得た。シチリア島で開催された過酷なタルガ・フローリオでは4番手を走り続けたがクラッシュアウト。それでも彼女のスキルとスタミナは仲間の尊敬を集めた。その年の後半にはニュルブルクリンクで2リッタースポーツカーを操り優勝、グランプリで勝利を収めた唯一の女性となった。1928年のタルガ・フローリオでは終盤近くまでレースをリードし続け、結果は5位に終わったものの当時のトップドライバーを多数打ち負かした。だがその年のドイツGPで悲劇が起きる。彼女は夫とマシンを共有していたが、運転を交代した直後に彼がクラッシュで命を落としてしまった。失意のエリザベスはすぐに引退し、マシンを全て売り払って旅に出た。エットーレ・ブガッティは彼女に新しいツーリングカーを与え、アジアへのビジネス進出の際にエージェントとして彼女を雇った。

【ジャネット・ガスリー】

プロの航空宇宙エンジニアだったガスリーは30代でレースを始め、1976年、女性として初めてNASCARウィンストン・カップに参戦した。翌年にデイトナ500に出走、インディアナポリス500の予選を通過してレース出場を果たした。これも女性としては初めてのことだった。1978年のインディ500で9位に入り、インディカーでの11回のレースで5位のベストリザルトを残した。2006年に国際モータースポーツの殿堂入りしている。「彼女は素晴らしい仕事をしたよ」とマリオ・アンドレッティは1977年のインディ500で語っている。「両肩の上に乗っている頭もなかなかいい。インディでは彼女より苦労している男たちをたくさん見てきた。コース上にとどまるだけでも大変なことなんだ。彼女がここにふさわしくないなどと言うヤツは、恐れをなしているだけさ」

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Martin Williamson is managing editor of digital media ESPN EMEA

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Martin Williamson is managing editor of digital media ESPN EMEA Martin Williamson, who grew up in the era of James Hunt, Niki Lauda and sideburns, became managing editor of ESPN EMEA Digital Group in 2007 after spells with Sky Sports, Sportal and Cricinfo