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トップ10:F1とインディカーの覇者

Laurence Edmondson / Me 2011年5月19日

今年のインディカーシリーズ最終戦、ラスベガスの勝者には、出自を問わず500万ドルの賞金が与えられるというニュースが発表された。これまで大西洋の両側で優勝経験のある10人を振り返ってみよう。

トップでインディアナポリスの1コーナーに入るジム・クラーク © Press Association
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【ジム・クラーク】

1960年代中頃にアメリカのプレミアモータースポーツに乗り込んだイギリス人のクラークは、1965年に外国人としては半世紀ぶりのインディアナポリス500ウイナーになった。それ以前にも2度勝利のチャンスをつかんでいる。ロータスのマシンを駆るクラークは、1963年に地元のヒーロー、パーネリー・ジョーンズに続き2位でフィニッシュ。コーリン・チャップマンはいたく落胆し、マシン後方からオイルをこぼしていたジョーンズに黒旗を出すべきだったと抗議した。1964年にはクラークがポールを取り、47周目に傷んだタイヤでコントロールを失うまで、優勝を照準にとらえていた。翌年、タイヤウエアの問題に対処したミッドエンジンのロータス38は向かうところ敵なしで、クラークはライバルに5マイルもの差をつけてフィニッシュラインを通過した。アメリカの地元レースでイギリス人が勝利したとして話題になり、7万5,000ポンドの賞金――当時のモータースポーツで最高額――が与えられている。さらにクラークにはビクトリーレーンで"インディアナ美女たち"からの祝福のキスが待っていた。

【グラハム・ヒル】

1965年のクラークに続き、1966年はグラハム・ヒルが優勝し、イギリス人が2年連続でインディ500を制す。グラハムは初挑戦での優勝だった。フォードエンジンのローラを駆るグラハムは序盤の多重クラッシュを回避、レースリーダーのジャッキー・スチュワートがスカベンジングポンプの故障でリタイアし、クラークが劣化したタイヤでスピンを喫すると、残り100mでリードを奪う。レース後、グラハムは「マシンの走りはビューティフルだった。特別大きな出来事もなく、最初のスタート後のトラブルには巻き込まれなかった。そこら中に飛んでいるマシンのパーツを避けるのに忙しかったよ。私はちょうどクラッシュの真ん中にいたが、無事に切り抜けることができた」と語っている。彼は1967年と1968年にも再挑戦したものの、1966年のような栄光はつかめず。だが1968年の挑戦は特筆に値する。グラハムが手にしたマシンはガスタービンエンジン搭載の4輪駆動、ロータス56だった――が、2つのイノベーションは直ちに統括団体USAC(アメリカ合衆国自動車連盟)によって禁止されてしまった。

【ジャッキー・スチュワート】

1966年のインディ500で惜しくも勝利を逃したスチュワートはその年の後半、友人のクラークやグラハムとともにUSACシリーズに戻り、自身も勝利を達成した。だが、日本で行われた非選手権イベントだったため、世界的にはあまり知られてはいない。舞台は富士スピードウェイ。同じフォードエンジンのローラを駆るボビー・アンサーを引き連れてトップチェカーを受けた。同一周回でのフィニッシュはアンサーだけである。スチュワートは1967年にもインディに戻ったものの、予選29番手からのエンジンブローに終わっている。

ガスタービンエンジンのジョン・ジンク・トラックバーナーでインディ500デビューしたダン・ガーニー © Press Association
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【ダン・ガーニー】

ガーニーはこのリストに登場する初めてのアメリカ人だ。彼は1962年のインディ500で母国デビューする以前に、ヨーロッパの耐久レースやF1でキャリアを積んだ。1963年にはインディアナポリスでクラークと並んでロータスをドライブし、7位でフィニッシュ。しかし彼は前年のフランスでF1初優勝を達成しており、F1でのレースを続ける決心を固めていた。1965年にキャロル・シェルビーとともにオール・アメリカン・レーサーズを立ち上げ、2人はF1とチャンプカーに挑んだ。イーグルと呼ばれたシングルシーターは、USACシリーズでガーニーを何度か勝利に導くも、インディ500では1968年と1969年の2位止まり。イーグルは1967年のF1ベルギーGPで優勝を果たしたが、チームは翌年を最後にF1から撤退している。

【ピーター・レブソン】

こちらも母国のレーシングシリーズより、F1に傾倒したアメリカ人ドライバーの1人だ。レブロン化粧品創業家の御曹司だった彼は、1964年にレグ・パーネルからF1に参戦。だが結果が伴わず、F2やF3に降格された。1966年にアメリカでの挑戦を始め、1969年、インディアナポリス200のセカンドヒートでブラバムのステアリングを握り初優勝。1970年にUSACのマクラーレンチームに加わり、1971年にインディ500でポールを獲得するも、優勝はアル・アンサーに奪われてしまう。その間彼はマクラーレンからF1復帰のチャンスを手に入れ、1973年に2勝を挙げた。だがこの成功にもかかわらず、1974年にはサードカーのオファーしか得られなかったことから、シャドーへの移籍を選んだ。そして、悲劇が起きた。シーズン3戦目のプラクティス中にサスペンションが破損し、レブソンは160mphでキャラミのバリアに衝突、命を落とした。

【マリオ・アンドレッティ】

このリストで最も成功を収めたチャンプカードライバーであり、F1ワールドチャンピオンの称号も得たドライバーである。アンドレッティは1965年にUSACシリーズ優勝を果たし、翌年も8勝を挙げて2年連続タイトルを獲得。1969年には3度目のタイトルとインディ500初優勝を達成したが、この頃にはロータスに声を掛けられ、F1にもチャレンジするようになっていた。1971年にフェラーリでF1初優勝を遂げ、驚くことに1970年代を通して大西洋の両側でレース参戦と勝利を続けた。1978年にロータス79で初のF1タイトルを獲得、チームに衰退の兆しが見え始めた1981年に移籍。1982年には故ジル・ビルヌーブに代わってイタリアとアメリカ、2つの母国でラスト2戦をフェラーリで戦っている。アンドレッティにとってはこれがF1キャリア最後のレース。しかしながら、42歳にしてまだまだ現役だった彼は、1984年にニューマン・ハースでチャンプカータイトルを取り、1994年に54歳で引退するまで同チームにとどまり続けた。驚くべきことに71歳になった今年、ラスベガスで500万ドルの賞金を目指して復帰するといううわさも聞かれる。

伝統を破り、インディ500の表彰式でオレンジジュースを掲げたエマーソン・フィッティパルディ © Getty Images
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【エマーソン・フィッティパルディ】

F1で11シーズンを過ごし、その間に2度のワールドタイトルと自らのチーム創設を成し遂げたフィッティパルディは、1980年から3年間の休止を経て、チャンプカーでさらに13シーズンを戦い続けた。1989年にチャンプカータイトルを獲得し、1985年から1995年まで毎年少なくとも1回は優勝している。うち2回はインディ500の勝利だ。その年齢に似合わず、あるいはその年齢だからこそというべきか、"エモ"はハードファイターだった。1989年のインディ500では最後の数周でアル・アンサーJr.とリードを争い、ホイールをぶつけ合った。被害が大きかったのはアンサーJr.の方で、マシンはターン3でコンクリートバリアに衝突。一方、当時42歳のフィッティパルディは驚異的に持ちこたえ、レースに勝利している。アンサーJr.もインフィールドから両手の親指を立てて敬意を表した。またフィッティパルディは1993年にも一騒動を起こしている。インディ500のウイナーはミルクで勝利を祝うのが慣例のところを、オレンジジュースで祝ったのだった――それも自身の農園産のオレンジで。次のラウンド、ミルウォーキーでファンの大ブーイングを浴びたのは言うまでもない。

【ナイジェル・マンセル】

13年の長く厳しい年月を経て、1992年にナイジェル・マンセルはようやくウィリアムズでF1のワールドタイトルを取った。だが喜びは長く続かない。1993年にアラン・プロストがチーム入りすると、フランク・ウィリアムズとの仲は険悪になっていった。マンセルは辞表をたたきつけたが、モータースポーツへの熱意は失われておらず、チャンプカーチームのニューマン・ハースとの契約にこぎつける。当時まだ全盛期だったマンセルは、デビュー戦でポールを獲得、そして勝利と、アメリカのレースシーンにドラマチックな登場を果たした。2戦目は大きな事故に見舞われたにもかかわらず、天性の才能を発揮し、オーバルで4勝を達成――F1から転向したドライバーとしては驚くべき偉業だ。彼のチーフクルー、ジム・マクギーはマンセルの成功の秘訣を「彼はストレートが誰よりも速いんだ。われわれが最悪のエンジンしか用意できない時でさえもね。それは彼がコーナーの真ん中で十分ターンダウンし、マシンがまっすぐ立ち上がれるようにするからなんだ。そうするとスピードに無駄が生まれないため、自然と回転数が上がることになる」と説明する。マンセルは1993年選手権でタイトルを獲得し、F1とチャンプカーで続けて王座を獲得した唯一のチャンピオンとなった。しかし、1994年には周囲のほとんどの人々を敵に回していた。マシンは信頼性に乏しく、コース外での態度があまりにも傍若無人だったために、アメリカのファンには受け入れられなかったのだ。チームメイトのマリオ・アンドレッティは語る。「私はドライバーとしては彼を非常に尊敬しているが、人間としては無理だね」マンセルはこの年、我慢のシーズンを過ごすも、同時にF1でもウィリアムズから4レースに参戦。最終戦のオーストラリアでは勝利を飾った。1995年、アメリカを離れてマクラーレンからF1復帰することを発表したが、マシンが体に合わず、冴えないレースが2回続いた後、ついに最後の引退を表明した。

ジャック・ビルヌーブはCARTチャンピオンの称号を引っ提げて1996年にF1へやってきた © Sutton Images
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【ジャック・ビルヌーブ】

3年のうちにCARTとF1の両方で王座に就いたビルヌーブは、世界のトップレーシングドライバーの1人と評された。しかし移籍先に恵まれず、その株は急降下。凋落ぶりは目を覆いたくなるものだった。ビルヌーブの姓ゆえに先行報道が過熱しすぎたのかもしれない。チャンプカーでデビューし、1994年のインディ500で2位を獲得してからも、過剰な期待は彼にずっとつきまとっていた。その翌年のインディアナポリスで優勝し、同時にシリーズタイトルをも獲得した彼はフランク・ウィリアムズの目にとまった。F1で堅実なデビューイヤーを飾り、1997年に彼のキャリアは頂点を迎える。1999年、マネジャーのクレイグ・ポロックのアドバイスに従いB・A・Rに移籍したが、5シーズンで表彰台に上ったのはわずか2回。そのシーズン末には佐藤琢磨との交代が決まった。2006年シーズン半ばでBMWのシートをロバート・クビサに奪われる形でF1でのキャリアを終えたが、以後何度かF1復帰を試みている。レースの感覚は失われておらず、2008年にル・マン24時間耐久レースで2位に入ったほかNASCARにも参戦している。500万ドルの賞金に引き寄せられ、彼が10月に古巣のインディカー復帰を果たすかどうかに注目だ。

【ファン-パブロ・モントーヤ】

モントーヤはCART初挑戦の1999年に7勝を挙げてタイトルを獲得。だが彼にとってはF1でウィリアムズのレースシートに空きができるまでの時間つぶしに過ぎなかった。1998年にF3000のタイトルを獲得した時点で、フランク・ウィリアムズはテストドライバーの契約書を目の前に差し出しており、モントーヤも喜んでサインした。しかし、そのシーズンはすでにアレックス・ザナルディとラルフ・シューマッハが契約済みだったため、腕を磨くためにアメリカに渡ったのだった。当時インディ500はCARTのライバルシリーズ、インディカー選手権の一部として開催されており、モントーヤは2000年、他のチャンプカードライバーたちと同様、この1戦のためにエントリーした。順当に勝利を獲得して世界にその才能を誇示したモントーヤに、その週末、2001年ウィリアムズデビュー決定の知らせが届く。ジェンソン・バトンに代わってのシート獲得だった。F1ルーキーイヤーのモンツァで優勝したが、真っ先に注目を集めたのは3戦目のブラジルでミハエル・シューマッハに攻撃的なオーバーテイクを仕掛けたことがきっかけだった。その後バックマーカーとの接触がなければ勝てたレースだったろう。ウィリアムズでさらに3勝を挙げたが、チームラジオで口汚い言葉を使ってののしることが多く、チームからは快く思われていなかった。2004年、最終戦で勝利したものの、円満とはほど遠い状態でマクラーレンに移籍。だが新チームでも同様に受け入れられず、2005年に3勝しながらも2006年半ばで失意のままF1を去って行った。アメリカGPでチームメイトのキミ・ライコネンをリタイアさせてしまったのがとどめとなってしまったようだ。モントーヤはNASCARに招かれ、2007年にインフィニオン・レースウェイのスプリントカップで初優勝した。このリストの中では、ラスベガスでインディカー復帰の可能性が最も高いドライバーだろう。

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Laurence Edmondson is an assistant editor on ESPNF1

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Laurence Edmondson is deputy editor of ESPNF1 Laurence Edmondson grew up on a Sunday afternoon diet of Ayrton Senna and Nigel Mansell and first stepped in the paddock as a Bridgestone competition finalist in 2005. He worked for ITV-F1 after graduating from university and has been ESPNF1's deputy editor since 2010