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  • 大戦が始まった日

特集:1939年ベオグラードGP

Martin Williamson / Me 2011年4月28日
スタート時の写真。背後に鉤十字がはっきりと見て取れる。フロントローはメルセデスのブラウヒッチュ(ナンバー6)とラング(ナンバー2)。その後ろはアウト・ウニオンのミュラーで、彼のチームメイトとレース勝者ヌヴォラーリの姿は見えない © Getty Images
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1930年代の後半を通して、モーターレースは2つのドイツチーム――集合的にシルバーアローと呼ばれたアウト・ウニオンとメルセデス――によって支配されていた。どちらも国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)から資金提供を受けていたチームだ。彼らを止められるものはなく、実質的に対抗勢力はすべて壊滅していったのである。

シルバーアローのドライバーといえばドイツのスターであり、彼らの運転するマシンは宣伝車だった。ステアリングを握る者すべてがナチスの理念を支持しているわけではなかったが、車体には堂々と鉤十字が飾られていた。彼らの成功の価値は、ヒトラーにとって疑う余地のないものだった。

1939年シーズンも、それまでと同様のパターンをたどる。シルバーアローがメジャーレースの勝利をほとんどさらい、他のチームは重要性の少ないレースで残り物を争った。

8月のスイスGPの頃には――ヨーロッパ選手権において4戦目で最後の有効レースだった――大陸内で戦争の足音が確実に聞こえ始めていた。ヘルマン・ラングの勝利によってシルバーアローは全勝を達成し、同時にラングのドライバーズタイトルも決まっている。ただし、この年はポイントシステムが定まっておらず、物議を醸す決定だった。それまで適用されていたルールによると、総合点ではヘルマン・ミュラーの勝利だったものの、優勝回数はラングの方が多く、また彼はナチスのお気に入りでもあった。

8月25日、メルセデス・チームは非選手権レースの開催されるベオグラードを目指し、1,400kmの旅に出る。万が一、自力でドイツに戻らなければならなくなった場合に備えて巨大な燃料トラックを同行させた。アウト・ウニオンと同様、彼らは2台のマシンをエントリーさせるも、これにはレースが最重要事項ではないということをアピールする目的と同時に、彼らでさえ悪化しつつある政治情勢に気付き始めているという意思表示でもあった。

レースのスタートに備えるフォン・ブラウヒッチュ © Unknown
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ラングはメルセデス・チームとともに移動し、チームメイトのマンフレート・フォン・ブラウヒッチュは8月31日にミュンヘンから空路ベオグラード入り。全長約3kmのコースを下見した結果は喜ばしいものではなく――あちこちに転がった石や線路で路面は波打っていた。その日の午後行われたプラクティスセッションでは参加した3台のうちラングが最速だった。

ドイツ人たちは街の空気が緊迫しているのを感じ取り、ホテル内で過ごすことにしたが、メルセデスのドライバーたちは散歩にでかけたという。翌朝早く、ドライバーと関係者たちはドイツ軍がポーランドを攻撃し始めたという知らせで起こされた。ラングは車でラジオが最も受信しやすい近くの丘まで走り、ニュースに耳を傾けたと振り返る。さまざまな感情が入り乱れたが、主催者はシルバーアローに残ってほしいと懇願した。そうでなければ多額の損失を出すことになってしまうからだ。

だがその決定権は彼らの手中にはなかった。ドイツのモータースポーツを管理していた国家社会主義自動車軍団を率いるナチスの指導者アドルフ・ヒューンラインから、残ってレースに参加し、ドイツの優勢を強調せよとの指令が届いた。

アウト・ウニオンはタツィオ・ヌヴォラーリの到着を待っており、2日目のプラクティスではミュラーに加えてウルリッヒ・ビガルケが参加、マシンは4台になった。うわさされたアルファロメオとマセラティの参戦は結局具体化せず、イギリス勢は月初めにヨーロッパへの渡航は勧められないと言い渡されていたのである。

予選の行われる土曜日になって、ようやくヌヴォラーリが汽車でベオグラードに到着し、事前に特別なプラクティスセッションを許されたものの、すでにコースに精通していた3人のドライバーと比べてペースが遅かったのは無理もない。アウト・ウニオンから"前夜の酒がまだ残っている"と注意されたフォン・ブラウヒッチュの方が速かったほどだ。

レース中のラング。この後ゴーグルが割れ、交代を強いられる © Unknown
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決勝日の朝――9月3日(日)――イギリスがドイツに宣戦布告したというニュースで事態はさらに深刻化した。ラングは朝食中にニュースを聞いたのを覚えているそうだ。

「ほぼ全員がレースに対する意欲を失っていたが、(アルフレート)ノイバウア(メルセデス・チーム監督)が大使館から戻ってきて、落ち着いてレースをスタートせよ、という指示をもたらした」

しかし、フォン・ブラウヒッチュは夜が明けて間もなく空港に向けて出発し、ウィーン行きの航空券を購入していた。これを知ったノイバウアは激怒し、すぐに彼を追いかけて飛行機から引きずり下ろすとレース参加を命じた。

こうした背景がありながらも、メインイベントを前にいくつかのレースが午前中に行われていた――3つはオートバイによるもの、4つはスポーツカーのレースだ。グリッドに並んだのは5台のマシン。アウト・ウニオンとメルセデスが2台ずつで、地元から古い2.3リッター・ブガッティT51に乗るボスコ・ミランコビッチがエントリーしていた。ミランコビッチは一度もプラクティスに顔を出しておらず、当日になって参加したようだ。

日差しの傾いた夏の終わり、7万5,000人から10万人の観戦客が見守る中、16時45分にレースはスタートした。ラングより良いスタートを切ったのはフォン・ブラウヒッチュ。アウト・ウニオンが3番手4番手に続いた――ミランコビッチは明らかに他車より遅く、最終的には19周もの差をつけられた。

ノイバウアが必死でチームとしてレースをするよう、サインを送り続けるのを無視して、ラングとフォン・ブラウヒッチュは互いに激しい攻防を繰り広げた。7周目、フォン・ブラウヒッチュのマシンから跳ね上がった石がラングを直撃。「突然何かが当たって、すべてが闇に包まれた」とラングは証言する。「(それは)私のオートスクリーンだけでなく、ゴーグルのレンズまで粉砕していた。私の目はその破片だらけだった」彼は顔中に血を滴らせながらも、どうにかピットまでたどり着いた。メルセデスのチームドクターが彼の目からガラスの破片を取り除く間、ウォルター・バウマーがマシンを引き継いだ。

16周目、フォン・ブラウヒッチュがスピンを喫してストール。「エンジンが止まってしまい、再スタートするためにマシンを逆走させなければならなかった」彼が方向転換しているとアウト・ウニオンのマシンが迫ってきた。「影のようにヌヴォラーリがコーナーを曲がってきたんだ・・・彼のたぐいまれなドライビングスキルのおかげで事故を免れた」とフォン・ブラウヒッチュはいう。その後も彼は果敢な走りを続け、バウマーを押し出してわら俵にクラッシュさせてリタイアに追い込んだほどだが、レース後半になると荒れた路面が問題を起こし始めた。ミランコビッチはラジエーターのキャップが外れず、長いストップを強いられ、フォン・ブラウヒッチュもやがてタイヤを破壊されてピットに戻ってくる。すぐにリーダーのヌヴォラーリも続いた。この時ヌヴォラーリはメカニックに押し出してもらってレース復帰しており、このルール違反がメルセデスの目にとまった。ノイバウアは抗議しようとしたが、自チームのフォン・ブラウヒッチュの違反について無言の圧力を感じて思いとどまっている。

優勝後、アウト・ウニオンのマシンから降りるヌヴォラーリ © Unknown
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65分後、50周のレースは終了した。ヌヴォラーリがフォン・ブラウヒッチュに7.6秒の差をつけて勝利。3位のミュラーはさらに23秒遅れだった。周回遅れで走っていたミランコビッチには終了のフラッグが振られた。ポール摂政皇太子がユーゴスラビア王ペータル2世のカップをヌヴォラーリに手渡す。これがヌヴォラーリの輝かしいキャリア最後の勝利となった。

式典は行われていない。最終ラップにさしかかる頃、フランスがドイツに宣戦布告したとのニュースが飛び込み、両チームはできる限り早い帰国を望んだ。燃料トラックが没収されるかもしれないという報告を受けたメルセデスは、ハンガリーを避けて帰路につき、さらに探知を難しくするために分かれて行動する慎重さだった。アウト・ウニオンの方は用心深く独自ルートで燃料を調達し、メルセデスとはまた別の――誰も知らない――ルートをたどっている。

帰国の旅は4日間に及ぶも、レースのゴタゴタはさらに尾を引く。ヨーロッパが戦争中にもかかわらず、メルセデスとアウト・ウニオンは互いのドライバーたちの違反行為を文書で批判し続けた。

その後ヨーロッパでは7年近くグランプリは行われず、一時代の終焉を迎えている。ナチスは1941年までシルバーアローに資金を供給し続け、党幹部は1940年も安全な領土でレースを続行しようとした。しかし戦争が拡大するにつれ、通常のレースは困難であることが明らかになっていった。チームを維持するためのリソースが正当化できなくなったのだ。

最後のレースとなったミッレ・ミリアは1940年4月28日に行われ、フシュケ・フォン・ハンシュタインとバウマーが勝利する。写真を見ると、2人の勝者はナチスの印を身にまとっている。だがこれは宣伝機関によって修正されたもので、バウマーのオーバーオールのSSロゴは後から付け加えられたものだ。

またベオグラードGPは政治的被害者でもあり、ユーゴスラビアの共産主義政府によって歴史から抹消されてしまった。ペータル2世が関与していたことと、ファシストの国のドライバーが圧倒的勝利を飾ったことがその理由だ。

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Martin Williamson is managing editor of digital media ESPN EMEA

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Martin Williamson is managing editor of digital media ESPN EMEA Martin Williamson, who grew up in the era of James Hunt, Niki Lauda and sideburns, became managing editor of ESPN EMEA Digital Group in 2007 after spells with Sky Sports, Sportal and Cricinfo