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  • ヨーロッパがイギリスを席巻した時代

特集:1948年イギリスGP

Martin Williamson / Me 2011年4月6日

1948年イギリスGP画像ギャラリー

チームメイトのアルベルト・アスカリをリードするレースウイナーの"ジジ"ヴィロレージ © Press Association
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第二次世界大戦の終戦直後、1939年以降レーシングカーはほとんど作られておらず、パーツも手に入らない状況下にもかかわらず、ヨーロッパにおけるモータースポーツは急速に再興を始めた。1940年代後半のレースの多くは、戦前のマシンに手を加えたプライベーター対、新品のマシンを走らせるファクトリーチームとの戦いだった。

1946年、FIAはルールの新基準――フォーミュラ・ワン――を作製。これがやがて1950年に世界初の世界選手権開催につながる。新ルールの下で最初のグランプリが行われたのは1946年のトリノだった。

イングランドは復興が遅れた国の1つ。戦後2年から3年の間は厳しいガソリンの配給制が続いたため、レース開催は難しく、伝統的な拠点の多くが機能を失っていたのだ。両大戦間で2回のイギリスGPを主催したブルックランズは当局の支配下に置かれ、象徴的だったバンクは破壊されていた。ドニントンは軍需品の集積所となっており、クリスタル・パレスは大規模な修繕が必要だった。

ノーサンプトンに近い小さな飛行場だったシルバーストーンは第17運用訓練部隊の基地として爆撃機ウェリントンのクルーを養成。その任務を解かれた後は1945年後半に数人のレースファンによって買収され、次第にレースへの適性が知られるようになっていく。1948年、イギリスGP再開の地を探していた英国王立自動車クラブが航空省に短期リース契約を持ちかけた。

レースのスタート © Getty Images
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戦後の緊縮財政で初めから問題は山積みだった。仕事はお役所流で準備は一向に進まず、建設に必要な資材は全く手に入らない。資金もないに等しく、コースは干し草の俵と古タイヤで仕切られ、粗末な仮設スタンドが組み立てられた。スチュワードやハウスキーパーはコース脇の2階建てバスに収容されている。

3つの長い滑走路のうち2つがサーキットのベースとして使われ、トラックの端をつないで細かい部分が作られた。1948年に使われたサーキットの全長は3.7マイルで、このレイアウトは1度しか使用されていない。後に周辺道路を使った伝統的な2.9マイルの配置に変更された。

10月2日の初イベントにエントリーしたビッグネームはマセラティ、タルボ・ラーゴとフェラーリだったが、フェラーリは最終的にヨーロッパに残ることを決め、アルファロメオに至っては参加の意思すら見せず。残りはプライベーターばかりで、多彩なマシンのコレクションが並んだ。10年近く一流のレース開催を待ちわびた10万人以上の観客が、晴れた秋のシルバーストーンに詰めかけ、大賑わいとなった。

メインイベントの2時間前に500ccの前座レースが行われたものの、ほとんどのドライバーがまだマシンに乗り込んでいないにもかかわらず、スタートのフラッグが振られ――最初から大混乱の展開に。レースはクーパーが大活躍、カナダ人の"スパイク"リアンドが勝利している。

グランプリ自体の予選は出発の遅れたマセラティ・チームが間に合わず、ほとんど意味をなさなかった。ポールを取ったのはフランスのタルボ-ラーゴに乗るルイ・シロン。一方、マセラティ4CLT/48サンレモのルイジ・ヴィロレージとアルベルト・アスカリは全25台の最後尾からスタートを強いられた。

レースが始まるやいなや、ヴィロレージとアスカリは脱落する多くのプライベーターにも助けられてバックマーカーたちを蹴散らし始める。そのほとんどは単純な故障によるものだったが、ERAのジェフリー・アンセルように大きなクラッシュを喫する者も。幸い彼にケガはなかった。

ピットストップでもドラマが生まれた。多数のプライベーターが燃料をかぶり、コックピット内にも燃料浸しに。だがそれでも彼らはレースに復帰した。

クラッシュでERAのマシンを横転させたジェフリー・アンセル――彼は無傷だった © Getty Images
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レースの半分が過ぎた時点で2台のマセラティがトップに立ち、入れ替わりながら独走を続けた。最終的に勝利したのは平均時速72.27マイルで2分52秒00のファステストを記録したヴィロレージ。アスカリとは14秒の差が開いていたが、これでもチームメイトが追いつけるようにペースを緩めたとの記録がある。一度はヴィロレージも、セーラーコーナーのヘアピンでバリアを突き抜けるという場面があったが、幸いそこに観客はおらず、レースを再開できた。

勝者から2分以上遅れて3位のチェッカーを受けたのはERAのボブ・ジェラード。タルボのルイス・ロジェはさらに遅れて4位だった。ヴィロレージと同一周回での完走は11台中、この3台のみ。

当時、『Times(タイムズ)』はこう記した。

「入念に準備され、優れた取り扱いを受けたイタリア・マセラティ勢の必然的勝利は、海外では常に人気の高かったスポーツがようやく浸透しつつあるイギリスにおいて、適切な代表者の必要性を促す良い機会となった」

多くの観客を動員したことで、1927年のように跡形もなくイギリスGPが消滅する恐れはなくなった。また同時にシルバーストーンはイギリス・モーターレースの新たな拠点としての立場を確立した。

脚注

  • 1948年12月20日、ジェラードは再設計されたシルバーストーンのレイアウトで試験走行し、ヴィロレージより時速19マイル近い平均速度を記録。1949年以降のシルバーストーンではこちらの記録の方がよく使われている。
  • ヴィロレージは1943年から1945年まで戦争捕虜を経験。アスカリは戦時中を中立国スイスで過ごした。
  • 同様に飛行場(ウェストハンプネット・エアロドローム)だったサセックスのグッドウッドも2週間前にオープンしている。
  • 約7年後、4日前のモナコGPで海に転落して命を取り留めたアスカリがモンツァに現れ、ヴィロレージのプラクティスを見守った。しかし彼は傍観者のままでいることができず、フェラーリでコースインしたが、クラッシュを起こして死亡。後にヴィロレージは「彼はテストを見るために一緒に来たはずだった。参加の予定はなかったのに、ステアリングを握りたいという欲求がどうしても強すぎたんだ」と語った。
  • 1998年、14台のオリジナルマシンと7台の姉妹マシンが一堂に会し、コイズ・インターナショナル・ヒストリック・フェスティバルで3周のデモンストレーション走行を披露。当時のドライバーたちのうち5人が出席した。

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Martin Williamson is managing editor of digital media ESPN EMEA

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Martin Williamson is managing editor of digital media ESPN EMEA Martin Williamson, who grew up in the era of James Hunt, Niki Lauda and sideburns, became managing editor of ESPN EMEA Digital Group in 2007 after spells with Sky Sports, Sportal and Cricinfo