
第二次世界大戦の終戦直後、1939年以降レーシングカーはほとんど作られておらず、パーツも手に入らない状況下にもかかわらず、ヨーロッパにおけるモータースポーツは急速に再興を始めた。1940年代後半のレースの多くは、戦前のマシンに手を加えたプライベーター対、新品のマシンを走らせるファクトリーチームとの戦いだった。
1946年、FIAはルールの新基準――フォーミュラ・ワン――を作製。これがやがて1950年に世界初の世界選手権開催につながる。新ルールの下で最初のグランプリが行われたのは1946年のトリノだった。
イングランドは復興が遅れた国の1つ。戦後2年から3年の間は厳しいガソリンの配給制が続いたため、レース開催は難しく、伝統的な拠点の多くが機能を失っていたのだ。両大戦間で2回のイギリスGPを主催したブルックランズは当局の支配下に置かれ、象徴的だったバンクは破壊されていた。ドニントンは軍需品の集積所となっており、クリスタル・パレスは大規模な修繕が必要だった。
ノーサンプトンに近い小さな飛行場だったシルバーストーンは第17運用訓練部隊の基地として爆撃機ウェリントンのクルーを養成。その任務を解かれた後は1945年後半に数人のレースファンによって買収され、次第にレースへの適性が知られるようになっていく。1948年、イギリスGP再開の地を探していた英国王立自動車クラブが航空省に短期リース契約を持ちかけた。

戦後の緊縮財政で初めから問題は山積みだった。仕事はお役所流で準備は一向に進まず、建設に必要な資材は全く手に入らない。資金もないに等しく、コースは干し草の俵と古タイヤで仕切られ、粗末な仮設スタンドが組み立てられた。スチュワードやハウスキーパーはコース脇の2階建てバスに収容されている。
3つの長い滑走路のうち2つがサーキットのベースとして使われ、トラックの端をつないで細かい部分が作られた。1948年に使われたサーキットの全長は3.7マイルで、このレイアウトは1度しか使用されていない。後に周辺道路を使った伝統的な2.9マイルの配置に変更された。
10月2日の初イベントにエントリーしたビッグネームはマセラティ、タルボ・ラーゴとフェラーリだったが、フェラーリは最終的にヨーロッパに残ることを決め、アルファロメオに至っては参加の意思すら見せず。残りはプライベーターばかりで、多彩なマシンのコレクションが並んだ。10年近く一流のレース開催を待ちわびた10万人以上の観客が、晴れた秋のシルバーストーンに詰めかけ、大賑わいとなった。
メインイベントの2時間前に500ccの前座レースが行われたものの、ほとんどのドライバーがまだマシンに乗り込んでいないにもかかわらず、スタートのフラッグが振られ――最初から大混乱の展開に。レースはクーパーが大活躍、カナダ人の"スパイク"リアンドが勝利している。
グランプリ自体の予選は出発の遅れたマセラティ・チームが間に合わず、ほとんど意味をなさなかった。ポールを取ったのはフランスのタルボ-ラーゴに乗るルイ・シロン。一方、マセラティ4CLT/48サンレモのルイジ・ヴィロレージとアルベルト・アスカリは全25台の最後尾からスタートを強いられた。
レースが始まるやいなや、ヴィロレージとアスカリは脱落する多くのプライベーターにも助けられてバックマーカーたちを蹴散らし始める。そのほとんどは単純な故障によるものだったが、ERAのジェフリー・アンセルように大きなクラッシュを喫する者も。幸い彼にケガはなかった。
ピットストップでもドラマが生まれた。多数のプライベーターが燃料をかぶり、コックピット内にも燃料浸しに。だがそれでも彼らはレースに復帰した。

レースの半分が過ぎた時点で2台のマセラティがトップに立ち、入れ替わりながら独走を続けた。最終的に勝利したのは平均時速72.27マイルで2分52秒00のファステストを記録したヴィロレージ。アスカリとは14秒の差が開いていたが、これでもチームメイトが追いつけるようにペースを緩めたとの記録がある。一度はヴィロレージも、セーラーコーナーのヘアピンでバリアを突き抜けるという場面があったが、幸いそこに観客はおらず、レースを再開できた。
勝者から2分以上遅れて3位のチェッカーを受けたのはERAのボブ・ジェラード。タルボのルイス・ロジェはさらに遅れて4位だった。ヴィロレージと同一周回での完走は11台中、この3台のみ。
当時、『Times(タイムズ)』はこう記した。
「入念に準備され、優れた取り扱いを受けたイタリア・マセラティ勢の必然的勝利は、海外では常に人気の高かったスポーツがようやく浸透しつつあるイギリスにおいて、適切な代表者の必要性を促す良い機会となった」
多くの観客を動員したことで、1927年のように跡形もなくイギリスGPが消滅する恐れはなくなった。また同時にシルバーストーンはイギリス・モーターレースの新たな拠点としての立場を確立した。
脚注
- 1948年12月20日、ジェラードは再設計されたシルバーストーンのレイアウトで試験走行し、ヴィロレージより時速19マイル近い平均速度を記録。1949年以降のシルバーストーンではこちらの記録の方がよく使われている。
- ヴィロレージは1943年から1945年まで戦争捕虜を経験。アスカリは戦時中を中立国スイスで過ごした。
- 同様に飛行場(ウェストハンプネット・エアロドローム)だったサセックスのグッドウッドも2週間前にオープンしている。
- 約7年後、4日前のモナコGPで海に転落して命を取り留めたアスカリがモンツァに現れ、ヴィロレージのプラクティスを見守った。しかし彼は傍観者のままでいることができず、フェラーリでコースインしたが、クラッシュを起こして死亡。後にヴィロレージは「彼はテストを見るために一緒に来たはずだった。参加の予定はなかったのに、ステアリングを握りたいという欲求がどうしても強すぎたんだ」と語った。
- 1998年、14台のオリジナルマシンと7台の姉妹マシンが一堂に会し、コイズ・インターナショナル・ヒストリック・フェスティバルで3周のデモンストレーション走行を披露。当時のドライバーたちのうち5人が出席した。
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Martin Williamson is managing editor of digital media ESPN EMEA
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