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  • ファンジオ誘拐事件

特集:1958年キューバGP

Laurence Edmondson / Me 2011年3月18日
反政府組織によって誘拐される前日のファンジオ(中央)とバティスタ大統領(右) © Press Association
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スポーツと政治が相いれないことはよく知られている。だが、たいていのスポーツマンが政治の世界に居心地の悪さを感じる一方で、政治家というものは歴史上やたらとスポーツに関与したがることが多い。

1958年、キューバのフルヘンシオ・バティスタ大統領は国内に平静を保とうとしていた。山間部ではフィデル・カストロのゲリラ部隊が潜伏しており、通りでは暴徒たちが勢力を増していたが、バティスタ大統領はハバナのダウンタウンで通常通り業務を続けようと懸命だった。

大統領は首都をラテンアメリカ版ラスベガスにするという構想を描いており、アメリカ合衆国から来た裕福な観光客たちが国に次々とお金を落としていくことを願っていた。そして浮ついた富裕層を引きつけるには、モーターレースこそ最適と考えたのである。

初のキューバGP(非選手権レース)が開催されたのは1957年のことで、レースは大成功を収めている。熱狂的で興味津々の観客たちが立ち並ぶ市街地コースで、当時のナンバー1ドライバー、ファン・マヌエル・ファンジオが優勝。1958年も同じイベントが計画されたが、時はキューバ革命直前であり、物事は前年ほどスムーズにはいかなかった。

連勝を狙うファンジオの隣には、そうそうたる有名ドライバーたちが肩を並べ、その中には世界ナンバー2のスターリング・モスの姿もあった。ドライバーたちはいつも通りにこの非選手権レースに臨み、トップドライバーたちは高級なホテル・リンカーンに滞在していた。が、グランプリ前夜、夕食に出かけようとロビーに降りてきたファンジオの前に、革のジャケットを着てピストルを誇示した青年が立ちはだかる。

当時の報道によると、やや神経質な様子の襲撃者は「ファンジオ、俺と来てもらおう。俺は7月26日運動のメンバーだ」と怒鳴ったという。ファンジオの友人の1人がペーパーウエイトを手に持ち、侵入者に投げつけようとするも途端にピストルがそちらを向いた。持ち主は「動くな」と警告。「動いたら、撃つ」それを聞いたファンジオは青年に従い、待機していた車に乗り込んだ。

動機は単純なものだった。モータースポーツで最も有名なドライバーを捕らえることで、武装勢力は政府に恥をかかせ、自分たちの大義を世界中に知らしめようとしていたのだ。しかしこのショッキングなニュースが国外に広がる中、バティスタ大統領もひるまず、予定通りにレースの続行を命じる。その裏で警察の精鋭チームが誘拐犯を追跡した。

モスには夜通し護衛が付けられ、3時間おきに彼がベッドにいることを確かめるために警備員がドアをノックしたそうだ。「非常に落ち着かない夜だった」と彼は思い起こす。「犯人たちにファンジオはこう言ったらしい。"モスには手を出すな。あいつはハネムーン中なんだ"とね――もちろんウソだよ。だが、なかなかいい思いつきだ」

一方、ファンジオは自分のペースを崩さなかった。ステーキにポテトを添えた一流の食事でもてなされ、設備の整った部屋で"心穏やかに眠った"とのこと。危険はないと確信した彼はストックホルム症候群の典型的な症状を示し、誘拐犯たちの行動に同情の念を抱いたことを後に認めた。「さて、これも1つの冒険だ。反逆者たちの行為が大義のためのものだとしたら、私はアルゼンチン人としてそれを受け入れようと思った」

大統領の命令通り、決勝日の朝、15万人以上の観客の前でマシンのエンジンに火が入る。行方不明のファンジオに代わってマセラティにはモーリス・トランティニャンが乗り込んだ。この頃、ファンジオはというと、カストロの側近ファウスティノ・ペレスから直々に謝罪を申し入れられ、レースの様子が分かるようにとラジオまで差し入れられていた。しかしファンジオはそういう気分ではなかったという。「少し感傷的になってしまったんだよ」と彼はその時のことを語った。「郷愁の念にとらわれていたので、聞きたいとは思わなかった」それは幸いだったかもしれない。この日コース上で起きた出来事を知ったら、ファンジオの感傷は極限まで高まったに違いないからだ。

スタートは順調だった。モスとフェラーリドライバーのマステン・グレゴリーが序盤にリードし、2人の接戦になると思われた。だがリーダーたちが5周目に入った頃、3.5マイルのサーキットのほぼ全コーナーにオイルがまかれ、多くのマシンがバリアをかすめていった。当初、主催者は第2の反逆者による妨害活動を疑ったものの、後にロベルト・ミエレスのポルシェがオイル漏れを起こしていたことが判明。

次のラップで避けられない事態が起こる。地元ドライバー、アルマンド・ガルシア・シフエンテスの黄色と黒のフェラーリがコントロールを失い、コース沿いに立ち並ぶ観客の列に突進。残骸は仮設ブリッジを破壊し、ガードレールを飛び越えた。40人以上が負傷し、7人が死亡。マシンを止め、救助を手伝おうと駆け寄ったポルシェのウルフ・ノルデンは次のように証言している。「フェラーリがどこにあるのかさえ分からなかった。そこら中に遺体が積み重なっていたよ。僕は腕や脚の間をかいくぐって進んだんだ」

わずか6周でレースは打ち切られ、モスがウイナーとなった © Getty Images
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事故の重大性を知らなかったモスは、先頭でグレゴリーとレースを続けていた。そしてキャリアの中で最も異様な勝利を手にする。

「走行していたら、アクシデントが起きてブリッジが落ちたということだった。まあ、ブリッジというより両側にはしごをかけた板きれのようなものだったけれどね。しかし、赤旗が出されてみんなスローダウンし始めた。その時私はマステン・グレゴリーとポジション争いをしていたんだ。といっても500kmのグランプリの序盤だから、まだ本気ではない。だから彼がしばらく前にいて、その後私が先頭に立った。事故が起きた時は彼が前にいた」

「スタート・フィニッシュラインに近づいた時は彼がわずかにリードしていた。フィニッシュラインが見えてきたので私は2速に落としてアクセルを踏み込み、彼をパスして勝利したんだ。マシンを止めてから彼は不満そうな表情でこう言った。"おい、リードしていたのは僕だぞ・・・"とね。だから私は答えたよ"ああそうだね。でもフィニッシュラインでは僕が先だった"」

「赤旗を出すことができるのはコース係だけだが、ブリッジで振ることはできなかったはず。だからあの旗は非公認のはずだ――通常のスタート・フィニッシュラインからあれほど早く到着できるはずがないと私は思ったんだよ」

「そこでマステンにこう言った。"いいか、黙っているんだ。2人の賞金を合計して折半しようじゃないか"とね。その通り実行したよ。そうでなければ主催者か誰かの判断に委ねられ、賞金が手に入るまで何年もかかっただろう」

「つまり記録上は私がウイナーになっているが、真実はどちらが勝ってもおかしくなかった。だがそんなことは重要じゃない。わざわざ争う必要もないだろう? あれだけ大騒ぎの週末だったんだから」

イベントは大惨事となり、レース後間もなくファンジオの身柄はアルゼンチン大使館に引き渡される。カストロの革命が世界中の新聞で見出しを飾り、責任の追及が始まった。シフエンテスは病院で生死の境をさまよっているにもかかわらず過失致死罪で告訴され、またファンジオ誘拐の罪では"被疑者不詳"のまま刑事告訴の手続きが取られている。

翌年の年明けにカストロの革命は成功したが、モーターレースが再開されるのは1960年になってからのことで、キャンプ・コロンビアの軍飛行場に舞台を移す。メインイベントはモスが制したが、この時も悪夢が襲った。フェラーリのエットーレ・チメリがバリアを突き抜け、約46メートルの峡谷に落下。彼は搬送先の病院で死亡した。

その後何年もキューバで組織的なモーターレースは行われず、また再開されることもなかった。大衆人気は高かったものの、スポーツはカストロ政権からブルジョワ的とみなされた。簡単に言うなら、もはや政治に合致しなくなったということだ。

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Laurence Edmondson is an assistant editor on ESPNF1

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Laurence Edmondson is deputy editor of ESPNF1 Laurence Edmondson grew up on a Sunday afternoon diet of Ayrton Senna and Nigel Mansell and first stepped in the paddock as a Bridgestone competition finalist in 2005. He worked for ITV-F1 after graduating from university and has been ESPNF1's deputy editor since 2010