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  • チャンピオンを決める接戦

トップ10:最終戦で決まったタイトル

Martin Williamson and Laurence Edmondson / Me 2011年1月15日
1950年、モンツァで史上初のF1ワールドチャンピオンになったジュゼッペ・ファリーナ © Getty Images
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【1950年】

史上初のFIA世界選手権シーズンは全6戦のラスト、モンツァのイタリアGPまでもつれ込んだ。すでに2勝を挙げていたファン・マヌエル・ファンジオがポイントリーダーで、2ポイント差でルイジ・ファジオーリ、序盤の勢いを失ったジュゼッペ(ニーノ)・ファリーナが4ポイント差で続いた。当時はシーズンベスト4戦の結果しか選手権ポイントにカウントされなかったため、4点差のファジオーリがタイトルを取るには、レースに勝った上で、アルファロメオのチームメイト2人がフィニッシュしないことが条件だった。ファンジオはここまで3勝しており、フィニッシュすればポイントを加算できる。一方ファリーナは勝つことが必須条件で、ファンジオが5位以下であることを願わねばならない。ポールを取ったのはファンジオ。後ろにアルベルト・アスカリ、ファリーナとファジオーリが続いた。序盤のラップはポジション変わらず、ファンジオがアスカリの新車フェラーリ375――アルファ勢の優位を打ち砕くために作られた4.5リッターマシン――を率いてファステストラップを記録。14周目、アスカリがわずかな間リーダーになるが、すぐに抜かれた。アスカリはリアの車軸を壊してピットまで舞い戻り、チームメイト、ドリーノ・セラフィーナのマシンを没収して走り続けた。2周後、ファンジオのギアボックスが動かなくなり、彼もピエーロ・タルフィのマシンに乗り換えたが、10周後エンジンがブローし、脱落した。これで道が開けたファリーナはアスカリに1分半の差をつけてフィニッシュ。こうして初代F1チャンピオンに輝いたのだった。

【1958年】

ピーター・コリンズの死が暗い影を落としたシーズン、最終戦は盛り上がりを見せたものの、再び悲劇が襲う。マイク・ホーソーンの1勝に対し、3勝を挙げていたスターリング・モスだったが、ドロップ・スコア方式がホーソーンに味方した。モスはレースに勝つことが必要であり、ファステストラップに与えられる貴重な追加ポイントを取ることも重要だった。後方で彼に有利な展開になることを願うよりほかにない。リードし続けたモスはファステストラップでポイントを獲得したが、ホーソーンはチームメイトのフィル・ヒルにポジションを譲られ、王座獲得に必要な2位の座を楽に手に入れた。モスの勝利によってヴァンウォールは史上初のコンストラクターズタイトルを手にしたものの、チームメイトだったスチュワート・ルイス-エヴァンスがレース中のクラッシュで重傷を負い、6日後に永眠。29歳でチャンピオンに輝いたホーソーンはそのまま引退したが、翌年の1月に衝突事故でこの世を去った。

【1964年】

3人のドライバーがタイトルの可能性を残して最終戦のメキシコシティーに臨んだ。リーダーは39ポイントのグラハム・ヒル、ジョン・サーティースは34ポイント、卓越した技術を持つアウトサイダー、ジム・クラークが30ポイントだった。サーティースのチームメイト、ロレンツォ・バンディーニと接触したグラハムはすぐにポイント争いから脱落。リードを奪ったクラークがタイトルをもつかみかけたが、残り2周になってロータスのエンジンがオイル漏れを起こし、リタイアを強いられる。生き残ったサーティースはチームメイト、バンディーニの協力もあって、ダン・ガーニーに次ぐ2番手に上がり――グラハムからタイトルを奪うのに十分なポジションを得た。これによって彼は2輪と4輪の両方でタイトルを獲得した初のレーサーになったのである。

妻マリア・ヘレナとタイトル獲得を祝うエマーソン・フィッティパルディ © Sutton Images
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【1974年】

クレイ・レガツォーニ、エマーソン・フィッティパルディが同ポイントで並び、ジョディ・シェクターが7ポイント差でわずかな望みをつないでワトキンス・グレンにやってきた。予選では誰一人トップ5に入れず、レース自体も10周でヘルムート・ケーニッヒのマシンがバリアに激突し、首を切断されるという悲劇が起きた。次々とトラブルに見舞われたレガツォーニは2度もピットインしたにもかかわらず、フェラーリ・チームはマシンを思うように走らせることができず、ほとんど戦いにならなかった。44周目、シェクターのエンジンのフィードパイプが破損し、突然フューエルプレッシャーを失ってリタイア。これにより、フィッティパルディはどの順位でフィニッシュしようとも、勝利数の関係で一昨年に続き2度目のタイトルが決定する。それを知った彼はレースをクルージングして4位でフィニッシュしている。

【1976年】

何の不足もないシーズンだったが、最終的な決着をつけたのは悪天候だった。ニキ・ラウダとジェームス・ハントが1年を通して接戦を繰り広げていたものの、ラウダが8月のニュルブルクリンクで命にかかわる重傷を負ったことで、チャンピオンシップレースは終わったかに見えた。だが、ラウダは医師の反対を押し切って復帰し、ハントのブランズハッチでの勝利が無効になったこともあって、決着は富士の日本GPに持ち越された。この時点でラウダが3ポイントリードしていたが、コンディションがあまりにもひどいため、レースではわずか1周で抗議の意味を込めて自らリタイアを選択――大やけどから驚くべき復活を遂げ、片目を閉じられない状態だったにもかかわらず、度胸がないと彼を非難する声もあった。「どんなプロスポーツにも限界というものがある」とラウダは答えた。終盤近くまでレースをリードしたハントだったが、タイヤがボロボロになり、ピットイン。しかし3位までポジションを取り戻すと、1ポイント差でラウダからタイトルを奪った。

レース後には倒れ込んだもののシャンパンファイトには参加したピケ © Sutton Images
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【1981年】

シーザーズ・パレス・ホテルの駐車場に到着したF1サーカスはカルロス・ロイテマン、ネルソン・ピケのどちらが最優秀ドライバーの仲間入りをするのか、かたずをのんで見守った。最終戦のラスベガスを前にロイテマンが1ポイントリードしており、ポールポジションから有利なスタートを決めた。だが、ウォームアップ中からハンドリングトラブルが発生し、レースではほとんどドライブ不能なマシンになって順位を落とす。必要になればロイテマンを助けると渋々同意したチームメイトのアラン・ジョーンズはさっさと先頭に立ち、走り去ってしまった。17周目にピケがロイテマンをパスし、以後は耐久レースの様相を見せる。反時計回りのタイトなサーキットにドライバーたちの首が悲鳴を上げ始めた。「残り33周という表示を見た」と振り返るピケは「信じられなかったよ。もうその時には限界に来ていた。頭をまっすぐ保っていられなかったんだ。とにかくカルロスの前にさえいればチャンピオンシップに勝てると、それだけ考えて走り続けていた」と明かす。やがて5位でフィニッシュラインを越えたピケだが、ピットに戻ると倒れ込んで嘔吐(おうと)。それでも、彼が新ワールドチャンピオンだった。

【1986年】

オーストラリアGP残り20周の時点では、ナイジェル・マンセルが10年ぶりのイギリス人ワールドチャンピオンに決まったかに思えた。しかしながらその1周後、彼のウィリアムズマシンは突然のタイヤアクシデントに見舞われ、コンクリートウオールへの激突を寸前で回避。アラン・プロストとネルソン・ピケを6ポイントリードして最終戦に臨んだマンセルだったが、タイヤの摩耗が極度に進んだ結果、激しいブローを招き、彼のレースとタイトルのチャンスはドラマチックな終わりを迎えた。「あのスピードで働くのは防衛本能だけ」と語ったマンセル。チームメイトのピケに同様の現象が起きることを恐れたウィリアムズは彼を念のためピットインさせ、タイトルはプロストとマクラーレンのものになった。敗れたマンセルは強い愛国心を見せ、逆襲を誓う。「必ず奪い取ってみせる。私はブリティッシュだ」

ヒルのウィリアムズと接触し、宙を飛ぶシューマッハのベネトンマシン © Press Association
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【1994年】

ミハエル・シューマッハは7度の王座のうち最初のタイトルをアデレードで決めるも、このレースで大いに評判を落としている。ライバルのデイモン・ヒルを1ポイントリードしてオーストラリアにやってきたシューマッハは、ウィリアムズの前でフィニッシュすれば、ドイツ人初のワールドチャンピオンになれる状況。だが、心の奥底で、2人ともフィニッシュしなかった場合にも、彼がタイトルを手にするという認識がちらついていたはずだ。スタート後はプランAを押し進めていたシューマッハだったが、35周目、ラインを外れてウオールにクラッシュ。マシンに激しいダメージを受け、ヒルが近づいてくるのを見ると、急いでプランBに切り替えた。パスしようとするウィリアムズをブロックし、2台は接触。シューマッハはその場でリタイア、ヒルはピットまで戻ったものの、ウィッシュボーンが曲がってしまっていた。数分後、彼のリタイアが決まり、タイトルはシューマッハのものとなる。アイルトン・セナの死がまだ記憶に新しい中、『Guardian(ガーディアン)』のアラン・ヘンリーは「すでに汚点を残したシーズンが、このように恥ずべきドライビングで終わるというのも、また必然的だったのかもしれない」と記している。

【1997年】

3年後、再びシューマッハは同じような状況に直面した。1ポイントリードで最終戦を迎え、レースをリードしながら、またもタイトルを争うライバルの攻撃を受ける。今回の相手はウィリアムズのジャック・ビルヌーブで、シューマッハのインに飛び込んできた。シューマッハの戦術は今度も同じ。ステアリングをあからさまに切ってフェラーリマシンをビルヌーブの方へ向けたが、今回はわずかにタイミングが遅かった。はじかれたシューマッハのマシンはグラベルにコースオフ。彼のレースはそこで終わり、1994年のアデレード同様、アームコの裏からウィリアムズが走り続けているかどうかを確認した。ビルヌーブは走っていた。そのまま3位に入った彼がチャンピオンシップ優勝。一方のシューマッハは後にFIAからこの年のランキングをはく奪される処分を受けている。

【2008年】

史上最も小差での決着だったと言っていい。シーズンの最終戦、最終ラップ、最終コーナーで勝敗は決まった。あまりにもわずかな差だったため、タイトル両候補のルイス・ハミルトンとフェリペ・マッサが共に勝利を確信してフィニッシュ後に歓喜するという混乱もあった。言うまでもなく勝者はハミルトン。彼は5位でフィニッシュする必要があったのだが、レース終盤のウエットコンディションで6番手まで順位を落としていた。ところが最終コーナーを立ち上がり、インテルラゴスの長いピットストレートに向かうところで、ドライタイヤで走行のままならないトヨタのティモ・グロックに追い付いた。インターミディエイトを履いていたハミルトンはそれを抜き去り、フェラーリクルーも気付かないまま、フィニッシュラインを越えてチャンピオンに輝く。奇しくも1年前、1ポイント差で彼がタイトルを逃したのと同じ場所でのことだった。「心臓が口から飛び出そうだった」と明かすハミルトンは「爆発しそうだったよ。どうやったのか、自分でも分からない。すごく幸運だった」とコメント。一方のマッサはひどく取り乱していた。「僕は普段そんなに泣き虫な方じゃない。でも今日はこらえるのが難しかった」

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Martin Williamson is managing editor of digital media ESPN EMEA

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Martin Williamson is managing editor of digital media ESPN EMEA Martin Williamson, who grew up in the era of James Hunt, Niki Lauda and sideburns, became managing editor of ESPN EMEA Digital Group in 2007 after spells with Sky Sports, Sportal and Cricinfo