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  • 死と隣り合わせのレース

特集:1966年ベルギーGP

Martin Williamson / Me 2010年12月20日
レース前、グラハム・ヒルと写るジャッキー・スチュワート。この後、ベルギーGPは大荒れの展開となり、クラッシュしたBRMのマシンからグラハムがスチュワートを救出することになる © Sutton Images
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1960年代半ばになると、それまで軽視され続けてきたドライバーの安全性に対する懸念が高まってきた。新しい世代のドライバーたちは、スポーツに伴うリスクを無条件に受け入れようとはしなかったのである。

中でも最も積極的に問題提起したのが、3度のワールドチャンピオンに輝いたジャッキー・スチュワート卿だ。彼は自叙伝『Winning Is Not Enough』の中でこう記す。

「想像してみてほしい。11年の間で57人――繰り返すが57人だよ――の友人や同僚を失うんだ。毎週末のように、自分と同じ仕事をしている仲間が恐ろしい状況の中で命を落とすのを目の当たりにした。私の場合、想像する必要はない。(私には)それが現実だったのだから。1963年から1973年まで、レーシングドライバーであるということは、死の可能性を受け入れるということだった」

スチュワートが声高に安全性の改善を叫び、活動するようになったきっかけは、1966年のベルギーGPだった。伝統のスパ・サーキットは、木々の生い茂る森の中を駆け抜ける14km以上に及ぶ最も危険なコースの1つで、バリアのない部分も多かった。長いサーキット特性により、マーシャルや救急隊の目が届かない範囲も広い。1960年には2人のイギリス人ドライバー――クリス・ブリストウとアラン・ステーシー――が数分差で相次いで命を落とした。

1966年のベルギーGPはドライコンディションでスタートしたものの、上空を雲が覆っていた。1周目、5kmほど走ったところで突然の豪雨が襲い、コース上は氷のリンクのような状態になる。雨が降り始めてすぐに8台のマシンがクラッシュして姿を消したが、ただ1人――スチュワート――をのぞいて無傷、あるいは軽いけがだけで済んだ。

「南ベルギーにしかない雨の降り方で、水の壁に飛び込んだようなものだった」とスチュワートは約30年後、『Guardian(ガーディアン)』のアラン・ヘンリーに語っている。視界がほとんど確保できない中、マスタ・キンクの右コーナーに差しかかった彼のBRMは、時速約272kmでアクアプレーニングを起こした。「初めは電信柱に当たり、それからきこりのコテージに、最後は農舎の地下室に飛び込んだ。クルマはバナナのように逆さまに突き刺さり、私は中に閉じこめられた」

「燃料タンクの内部が破裂して、モノコックは文字通り燃料であふれていた。燃料がコックピットで波打っていたよ。計器板は破壊され、むしり取られて、マシンから200m離れたところで見つかった。だが電気式燃料ポンプはまだ動いていた。ステアリングホイールが外れず、私は出られなかった」

数秒後、スチュワートのチームメイトだったグラハム・ヒルが同じ場所でスピンした。だが、時速約208kmでわら俵に突き進んだ割に被害は少なかった。グラハムは苦心してマシンをコースに戻そうとした――レース続行は可能だったのだが、タイムロスが大きすぎたために結局リタイアを決める――その時、スチュワートのマシンの残骸に気付き、何が起きたのか確認しようと駆け寄った。負傷したスチュワートを発見したグラハムは、後にその様子を"まるで2日酔いのようだった"とからかっている。グラハムは何とか燃料ポンプを止めることに成功し、スチュワートを脱出させようとした。すぐに、同じようにスピンオフして転覆したボブ・ボンデュラントも加勢。マシンとともに燃料まみれになりながら、2人は必死でスチュワートを救出しようとした。火花1つで3人とも火だるまになる可能性があった。

マシンの残骸からスチュワートを引き出すのにかかった時間は25分。その間マーシャルは現れず、観客から借りた工具でようやくステアリングを取り外すのに成功し、スチュワートの体を引き出すと、安全な納屋まで運んだ。

スチュワートはグラハムに、衣服を脱がせてくれと頼んだ。燃料の染みこんだレーシングスーツは危険であり、皮膚がただれているのに気付いたからだ。「そこに、修道女たちがやってきた」と説明するスチュワート。「トラクターの後ろに素っ裸の男を見つけて目を丸くしていたよ。仕方なく、また服を着たさ。だがグラハムが救急車を見つけて戻ってきて、また脱ぐ羽目になった」

スチュワートの試練はこれで終わらない。慎重に旧型の救急車に乗せられた彼は、メディカルセンターと呼ばれる場所に連れて行かれたが、そこでストレッチャーに乗せられたまま放置された。「医者が1人もいなかったんだ」と彼は思い起こす。「地面に置かれたストレッチャーの上で、床にはタバコの吸い殻が散らかっていた。とても不潔な場所だったよ」

やがて別の救急車に乗せられ、警察の先導でリエージュの病院に向かった。だが途中で先導車が救急車とはぐれてしまい、ドライバーが道を知らなかったため迷ってしまう。

救急車の中にはスチュワートの妻ヘレンと親友のクラークが付き添っていた。肋骨と肩の骨折以外にも多数の傷を負っていたスチュワートが痛みでうめく中、クラークが言った。「おい、頼むよジャッキー、しっかりしてくれ。ヘレンもここにいる」

ひどい事故だったにもかかわらず、スチュワートは1カ月も経たないうちにレースに復帰した。だが、スポーツに対する考えは根底から変わったという。「スパの後、いかに危険なのかということを実感したんだ」と彼は言う。「ほとんどのドライバー同様、私も事故は他の人にしか起きないと思っていた。だが突然危険性を実感し、衝撃を受けた。それはあまりにも日常に近いところにあった。その時、私はスポーツの安全のために何かしようと決めたんだよ」

彼の行動はサーキットオーナーたちの不興を買い――今なら信じられないことだろうが、何人かのドライバーにも反対されながら――それでもスチュワートは安全レベルの向上を目指す活動を始めた。徐々に、今ではごく当たり前となった装備が導入されるようになる。シートベルト、フルフェイスヘルメットや防火レーシングスーツなどだ。1969年にはグランプリ・ドライバーズ・アソシエーションのトップとして、スパのボイコットを先導。先延ばしされていた大幅なコース改修を迫った。

悲しいことに、スチュワートの活動が壁を突き破るのには時間がかかり、その間に犠牲者は増え続けた。1966年ベルギーGPをスタートした15人のうち、5人がその後5年間で事故死した――ロレンツォ・バンディーニ(1967年モナコ)、ジム・クラーク(1968年ホッケンハイム)、マイク・スペンス(1968年インディアナポリス)、ヨッヘン・リント(1970年モンツァ)、ジョー・シファート(1971年ブランズ・ハッチ)。

「もし、私がスポーツに何か残せるとしたら、安全性に関するものであることを願う」と栄誉の殿堂のウェブサイトにスチュワートは語った。「私がグランプリレーシングを始めた頃は、予防策や安全対策というものが完全に欠如していたからだ」

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Martin Williamson is managing editor of digital media ESPN EMEA

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Martin Williamson is managing editor of digital media ESPN EMEA Martin Williamson, who grew up in the era of James Hunt, Niki Lauda and sideburns, became managing editor of ESPN EMEA Digital Group in 2007 after spells with Sky Sports, Sportal and Cricinfo