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  • 「エンツォのためには決して走らない」

特集:モス卿がフェラーリで走らなかった理由

Laurence Edmondson / Me 2010年12月17日
1962年、ついにフェラーリをドライブするはずだったモス卿 © Getty Images
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1951年、20歳のスターリング・モスは彼のキャリアを左右することになる旅に出た。ジュニアカテゴリーで成功を収めた彼は、エンツォ・フェラーリによってイタリアのバーリに招かれ、いくつかのイベントに出場して能力を試されることになっていた。だがこの旅が計画通りに展開することはなく、結果的にモス卿のその後のF1キャリアを決定づけるものとなった――10年後、グッドウッドでの大事故でそのキャリアが幕を閉じるまで。

「当時の私は弱冠20歳。本拠地モデナでフェラーリ本人に会うなんて、一大事だよ」とモス卿は『ESPNF1』に語った。

「フェラーリは私を南イタリアに呼び、F2用に設計された4気筒マシンをドライブするように言った。言われた通り訪問し、私はガレージでマシンを見つけた。中に入ったらエンジニアがやってきてこう言ったんだ。"何をしている?"私は答えたよ。"僕はスターリング・モス。こいつは僕がドライブするんだ"と。すると"いいや、それは間違いだ。乗るのはピエロ・タルッフィだよ"と彼は即答した。」

「とても腹立たしかったね。タルッフィはいいやつだし、優れたドライバーだ。だが、エンツォ・フェラーリは私に連絡もせずに気を変えたんだ。その時、私は自分自身に誓った。決して彼のためにレースをしないと。そしてそれを貫いたよ」

それは大胆で、無鉄砲ともいえる反応だったが、モスは誓いを守っている。続く11年間でフェラーリのドライバーは5度のワールドチャンピオンに輝いたが、モスは1度も王座に恵まれなかった。2位を4度経験し、うち2回は数ポイントの差でフェラーリドライバーに敗れている。それでも彼が所属することを選んだのは跳ね馬ではなく、メルセデス、マセラティ、プライベーターのロブ・ウォーカーなどだった。スポーツカー・レーシングではフェラーリに乗って大成功を収めているものの、すべてプライベーターからの参加であり、エンツォ自身の下ではなかった。

ロブ・ウォーカーのフェラーリ250 GT SWBを操るモス卿 © Sutton Images
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「私はフェラーリで13レースに出た」と彼は振り返る。「一度、セブリングでブレーキパッドの交換のためにピットインした際にメカニックたちが燃料を入れてしまい、失格になった。ル・マンでファンブレードが外れてリタイアしたこともある――取り除かれるはずだったんだが、ノースアメリカン・レーシング・チームにいた頃で、彼らが手間を惜しんだため、ラジエーターを突き破ってしまったんだ。でもそれ以外のすべてのレースで私は優勝したよ。ファステストラップも10回出した。つまり、フェラーリのキャリアはとても優秀だったということさ」

1961年、新たな1.5リッター形式が導入されたことで、V6ディーノ・エンジンを搭載した156"シャークノーズ"シャシーのフェラーリはF1を支配した。一方、モスの所属するロン・ウォーカーのロータスを含むイギリス勢は、4年落ちのF2クライマックス・エンジンで我慢しなければならず、フェラーリ・パワーには到底かなわなかった。

1961年にモナコとニュルブルクリンクで見事な勝利を収めたモスはこの年"シャークノーズ"を倒した唯一のドライバーである。これに感心したエンツォはチームでのドライブをオファー。新たなV8クライマックス・エンジンの投入を警戒したチームは、1962年のタイトル防衛に最も近い道を選んだのだ。エンツォはプライドを捨ててモスにアプローチした。モスはその時の様子を語る。

「1961年の終わり、私がモデナに行くとフェラーリは"どんなマシンが希望か言いなさい。君のために作る"と言う。私はこう答えたよ。"BRP(ブリティッシュ・レーシング・パートナーシップ)カラーのフェラーリ250 GTOと、ロブ・ウォーカー・カラーのフェラーリ156が欲しい。それならあなたのために走ろう"とね。彼はうなずき、その通りのマシンを作った」

フェラーリ156の"シャークノーズ" © Getty Images
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フェラーリがこのような提案をしたのは驚くべきことであり、彼がいかにモスに敬意を払っていたかを示すエピソードだ。翌年は前例のないシーンが見られるはずだった――ダークブルーに白のストライプが入った特徴的ノーズの156が、深紅のワークスチームと同一スペックで走り、勝ち上がる――だがその場面が実現することはなかった。1962年のイースター、モスとフェラーリ双方の願いと野望はグッドウッドでの大事故によって霧散した。

モスの元にフェラーリはまだ届いておらず、彼はV8クライマックス・エンジンを搭載した古いロータス18に乗っていた。ポールポジションを獲得したものの、ギアの連携トラブルで上位に入るチャンスはなくなり、リーダーのグラハム・ヒルから2周遅れで走っていた。周回遅れを取り戻そうとした時、彼のロータスは高速のままコースを外れ、セント・メアリー・コーナー入り口の芝の斜面に激突。破壊されたマシンに閉じこめられたモスは意識不明に陥った。事故の正確な原因は分かっていない。モスが長い昏睡(こんすい)状態から目覚めた時、彼に事故の記憶はなかった。しかしながら、もしも156に乗っていたなら、結果は違っていたと今も確信している。

「グッドウッドでフェラーリがマシンを用意できていたら、あんな事故は起きなかっただろう」と彼は言う。「何が起こったにしろ、マシンに関係していたのはまず間違いない。フェラーリなら壊れることはなかったはずだ」

グッドウッドの大事故でモス卿のF1キャリアは幕を閉じた © Getty Images
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「あの事故のせいで私は32歳にして何の知識もないまま、生きるために働かねばならなくなった。ちょっとしたショックだったよ」

1962年のシーズンが始まると、フェラーリ156はイギリス勢に完敗し、1勝もできずに終わった。主要メンバーが多数流出したことや、チームがF1とスポーツカーの間でリソースを分散しすぎたことが原因とされた。

エンツォは後に非公式のコメントで、モスとの契約に失敗したことで多くの勝利を失ったとの考えを述べており、モス自身も20歳のバーリでの出来事に固執したことを後悔している。

「ああ、そうだ。私の最大の後悔は一度もフェラーリで走らなかったことさ」とモスは付け加えた。「フェラーリの歴史を振り返れば、原因がはっきりしていないアルベルト・アスカリの例をのぞいて、マシンが原因の死亡事故は1つも思い当たらない」

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Laurence Edmondson is an assistant editor on ESPNF1

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Laurence Edmondson is deputy editor of ESPNF1 Laurence Edmondson grew up on a Sunday afternoon diet of Ayrton Senna and Nigel Mansell and first stepped in the paddock as a Bridgestone competition finalist in 2005. He worked for ITV-F1 after graduating from university and has been ESPNF1's deputy editor since 2010