Features

  • 傘寿のお祝い特集

バーニー・エクレストンのF1人生

Alan Henry / Kay Tanaka 2010年11月1日

アラン・ヘンリーが2010年10月28日に傘寿(80歳)を迎えたバーニー・エクレストンのF1に対する貢献について独自の見解を語ります。

すべてを取り仕切るF1界のドン、バーニー・エクレストン © Sutton Images
拡大
関連リンク

【アラン・ヘンリー 2010年10月28日】

私の記憶が正確であれば、私を含む数名のジャーナリスト集団がバーニー・エクレストンからディナーに招待されたのは1993年南アフリカGPの出来事。われわれにとって珍しい特権だったこともあり、当然、彼はその場で衝撃的なニュースを口にするものだと考えた。F1という巨大軍艦の指令室から離れ、命令役を放棄することでビジネスからの引退を発表しようとしていたのかもしれない。

その夕食に招かれたひとりは「結局、彼はいずれ引退しなければならない。63歳だし、これ以上は無理だろう!」と口にしたものだ。

今年、エクレストンは80歳を迎えたがこれまで以上に調子を上げており、活動的になっているように思う。そしてもちろん、金を生む機械であるF1のスロットルペダルを全開で踏み込んでいる。われわれの予測はいくらか的を外れていたということだ。

詳細なことにまで気を配り、すべての問題を論理的かつ実際的に解決するキャパシティを有し、長丁場の戦いをもいとわない忍耐力を持つというのが、エクレストンという素晴らしい人柄を構成する要素。

彼はバイクと4輪のレーサー、自動車ディーラー、資産開発者、そして時には抜け目のないギャンブラーというキャリアを持つ。しかし基本的には、億万長者の輝きの背景にはモータースポーツ熟練者の顔がある。

バイクとF1で世界王者に輝いたジョン・サーティースが私に教えてくれた話なのだが、当時、台所で母親を手伝っていた若いエクレストンからサーティースの父親ジャックがバイクのパーツを購入したという。その後、エクレストンは工業化学者になることにいくらか興味を持ち、古い友人たちは彼のことをモータースポーツ界のガイ・フォークスと表現した。しかし、化学者としてのエクレストンは大成していない。もはや伝説的な話ではあるものの、南ロンドンのガス製造所で働いていたエクレストンはモータースポーツ活動に精を出し過ぎた挙句、定期的な作業だったガスのフィルター交換を失念。これにより、南ロンドンのケントへのガス供給に多大なる滞りを発生させてしまったのである。

エクレストンが抱いたバイクへの興味は、1950年代初頭になると500ccのF3クーパー・ノートンでレースに参戦することへと発展するも、自動車ディーラーの活動は継続していた。私がエクレストンと初めて会ったのは1972年の春のこと。『Motoring News(モータリング・ニュース)』の若き編集者だった私は、F2のレポートという初仕事を手にした。新しいブラバムF1チームのオーナーとアポを取るように指示を受けたのだが、それによりある日の朝、私は南ロンドンのベックスレーヒースにあるエクレストンの事務所に向かうことになった。

表向き、エクレストンのお店は自動車販売のショールームと評して正解だろう。当時の自動車ショールームと言えば汚れていてオイルの染みがあるような店舗が多かったが、エクレストンのそれはまったく異なっていたのだ。そこはちり一つないような空間で、タイヤのサイドウオールもきちんと磨かれており、オイル染みの一滴ぐらいはあるだろうと踏んだものの、しっかりとオイル溜めが装備されていた。

モータースポーツに関してエクレストンはケント出身の若手ドライバー、スチュワート・ルイス・エバンスと親しい関係を築く。ルイス・エバンスは後に、スターリング・モスやトニー・ブルックスのチームメイトとしてヴァンウオールF1チームに加入している。コンノート・エンジニアリングが撤退し1957年に競売にかけられた際には数台のマシンを購入したエクレストン。そして1957年/1958年のタスマン・シリーズに参戦し、ルイス・エバンスとアイバー・ビューブをドライバーに起用した。エクレストンはルイス・エバンスをクーパーから1959年のF1に参戦させようとするも、ルイス・エバンスはモロッコ・カサブランカで行われた1958年のF1世界選手権最終戦でクラッシュを喫してこの世を去る。

この事故を受けてエクレストンはレース界から離れ、1970年代の大半はF1に姿を現さなかった。その後、オーストリア人ドライバーのヨッヘン・リントのマネジャーとして表舞台に戻ったエクレストンだったが、そのリントもモンツァで行われた1970年イタリアGPで事故死している。エクレストンは今年のイギリスGPで当時を回顧し、「彼(リント)は素晴らしいヤツだった。速いドライバーの1人、おそらくは最速だった」と語っている。

1971年にブラバムを買収したエクレストンはフォーミュラ・ワン・コンストラクターズ・アソシエーション(FOCA)を立ち上げ、F1界で最も重要な力を発揮するための段階を踏む。この団体こそ、現在エクレストンが所有するフォーミュラ・ワン・マネージメント(FOM)の前身となるわけで、ゆくゆくは国際自動車連盟(FIA)やF1チームとの三角関係における頂点を極めることとなる。

しかし、エクレストンは常にレーサーだった。ブラバムのチーフデザイナーだった鬼才ゴードン・マレーとは難しい間柄だったものの、エクレストンはマレーを尊敬しており、マレーの"危険と隣り合わせのエンジニアリング"によってブラバムは"ファンカー"を生み出すことに成功。歳月の経過とともにエクレストンは一チームオーナーからF1の全権を握る最高権威へと変ぼうを遂げるものの、それでも依然としてレーサーだった。ギリギリの人生を歩むことを好むエクレストンは、最高の利益と成功を収めるために次の契約では最高の条件を狙う。もちろん、今でも彼にとって空気のように大切なのが、モータースポーツなのだ。

エクレストンはまた、長期的に考えて勝利を収めるために、戦略的な退却を決める適切なタイミングを推し量ることを熟知していた。1978年スウェーデンGPでニキ・ラウダが"ファンカー"で勝利した後、ブラバムのライバル勢は抗議に打って出ると、エクレストンはそのマシンの使用を取りやめ、その後は二度と使わなかったのだ。FOCAの前身であるF1CAの団結力により、エクレストンはF1における長い旅路の中で最強の力を手に入れることになる。彼にとっては、そのことが短期的な成功よりも圧倒的に重要な存在だったのだ。

エクレストン(左)について、厳しいながらも公平と言うラウダ © Sutton Images
拡大

1978年と1979年前半にブラバムを駆ったラウダは、エクレストンが基本的に厳しい人物だったが公平でもあったと記憶している。契約を締結するのは難しかったが、そこまでの経緯がどんなに痛みを伴い長引いたとしても、合意に至った後は完全に信頼できる人物だったそうだ。「彼と合意に至らなかったとしても、彼は恨みを持ったりしない」と語るラウダ。「問題を解決した後は、次のことに話を進める。くよくよするタイプの人間ではないのだ」とも述べている。

レーシングチームとの間で商業的な取り決めを設ける際のエクレストンは、難しい存在であり容赦ない人物となる。大きなチームに対してはF1商業権から10億ドルの支払いを確約しながらも、平衡感覚やバランスには慎重な姿勢を崩さない。チーム側はさらなる支払いを求めるものの、チーム団体が手にしているのは穏やかに訴える説得力のみだ。その説得力がエクレストンを動かすのに十分な時もあれば、足りない時もある。それでもエクレストンは大半の場合、人々に詳細を明らかにしないことを好む。

また、エクレストンは2005年に保有株式の75%をCVCキャピタル・パートナーズに売却している。関係者はその利益を4億5,000万ポンドと見積もるが、それでも控え目な計算らしい!

バーニーのファインプレーである。

© ESPN Sports Media Ltd.
Alan Henry Close
Alan Henry is a journalist at the Guardian and author Alan has been reporting on F1 since 1973 since when he has covered more than 600 Grands Prix and written more than 40 books on motorsport subjects. Currently a columnist for the Guardian and Autocar, he has edited the prestigious AUTOCOURSE annual for 20 years and contributed to a wide variety of publications across the world