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  • 傘寿のお祝い特集

バーニー・エクレストン年表

Laurence Edmondson / Jim 2010年11月1日
英サフォーク州で生まれ、F1で最も権力のある人物にのし上がったバーニー・エクレストン © Getty Images
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1930年: イギリス・サフォーク州バンギーに程近い小さな村にバーナード・チャールズ・エクレストンが生まれる。トロール漁船の船長の息子として生まれた彼は幼少期をワングフォードで過ごし、ロンドン南東の街ベクスリーヒースに居を移す。

1946年: 16歳で学校を卒業すると、友人の父親の紹介で地元のガス会社に就職。モーターバイクにまたがることに情熱を注ぎ、戦後のリソース不足の中、趣味に資金を投じるべく中古部品の会社を設立する。

1949年: 500ccのF3カーで初めて本格的なカーレース活動を開始したのは地元のレースコース、ブランズハッチ。この当時、彼のビジネスは中古車の販売とオークションにまで発展していた。

1951年: クーパーMk Vを手に入れてからは定期的にレース活動に励み、ブランズハッチでは優勝も飾った。しかしながら、ビル・ホワイトハウスと接触事故を起こした後、1956年に駆け出しのキャリアに終止符を打つ。後にエクレストンは「病院で4、5回目が覚めた。そうして、死ぬまで天井を見上げながらベッドに横たわり続けなければならないようなリスクを冒したくはないと気づいたのだ」と語っている。

この頃、最初の妻と出会い、一児を授かった。

1950年代後半はスチュアート・ルイス・エバンスのマネジャーとして活躍したエクレストン © Getty Images
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1957年: 自動車業界や不動産、貸付資金調達などで資金を作ったエクレストンはスチュアート・ルイス・エバンスのマネジャーとしてモーターレーシング界に復帰。オーストラリアで利益を上げるべく、売却するつもりでコンノートのF1マシンを2台購入する。この計画がうまくいかなかったため、エクレストンは2台を保有し続け、ルイス・エバンスがそのマシンに乗り込みシーズン開幕戦モナコGPに参戦、4位フィニッシュした。その後、ルイス・エバンスはヴァンウォールとドライブ契約を結ぶ。

1958年: エクレストンのコンノートはシーズンを通して完走できなかった。彼もまたドライバーとしてモナコGPとイギリスGPに出走したが、予選でタイムを残せずレースをスタートできていない。モロッコGPでルイス・エバンスが事故死したことを受けて、エクレストンはモータースポーツから手を引く。

1965年: ロイ・サルヴァドーリとジョン・クーパーを通じて南アフリカGPでヨッヘン・リントに出会い、2人はジンラミー(トランプゲーム)ですぐに意気投合。リントのマネジャーとなり、モータースポーツの世界に完全復帰した。

1968年: リントとグラハム・ヒルがドライバーを務めるロータスF2チームの運営に携わる。

1970年: イタリアGPでリントが死亡するも、死後にチャンピオンが確定。2010年現在、亡き後にF1王者に輝いたのはリントただ一人である。エクレストンはこの時、2度目のモータースポーツ引退を決めた。

1971年: ロン・トーラナックから10万ポンドで苦戦のシーズンを過ごしたブラバムF1チームを買収。

1972年: ブラバムのカスタマーカー部門を廃止し、ワークスチームのみに全力を投じる。初年度こそ成功しなかったものの、チームの将来に向けて基盤を築いた。また、フォーミュラ・ワン・コンストラクターズ・アソシエーション(FOCA)で重要な役割を担い始め、これがF1帝国へのルーツとなる。

FOCAの活動に従事したバーニー・エクレストンとコーリン・チャップマン © Sutton Images
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1974年: エクレストン(ブラバム)、コーリン・チャップマン(ロータス)、テディ・メイヤー(マクラーレン)、マックス・モズレー(マーチ)、ケン・ティレル(ティレル)、フランク・ウィリアムズ(ウィリアムズ)らイギリス系チームの代表から成るFOCAはF1が生み出す収益の分配を増やすよう求めた。

エクレストン率いるブラバムが南アフリカGPで初勝利を挙げる。ゴードン・マレーがデザインしたマシンをカルロス・ロイテマンが駆り、表彰台の頂点に上った。

1976年: FIAとのバトルを制したFOCAはすべてのF1チームに参戦料とテレビの放映収入の公正な分配をもたらす。

1978年: モズレーを法務アドバイザーに据えてエクレストンがFOCA会長に就任。F1の商業権をめぐる緊張関係は高まり、FISA(FIAが新たに結成した国際自動車スポーツ連盟)は自動車メーカー系チーム(フェラーリ、アルファロメオ、ルノー)寄りの姿勢との認識があった。この対立は、FISA-FOCA戦争と呼ばれている。

1979年: FISA会長のジャン-マリー・バレストルがサーキットプロモーターとの契約について報道時に対し曖昧な発言をすることでエクレストンの信用を落とそうとした。

1980年: FISAはFOCA系チームに対する直接的な攻撃として、1981年シーズンに向けたグラウンドエフェクトの空力禁止を試みることで、その権力を誇示、ドライバーのブリーフィング不参加を禁止しようと脅威を示した。これに対し、FOCAとエクレストンはFISAの競合相手として世界モータースポーツ連盟を立ち上げるも、FIAはレースプロモーターとの契約や新組織の崩壊を通してその専売特許を固持している。

FISA-FOCA戦争中に議論するFISA会長のジャン-マリー・バレストルとエクレストン © Sutton Images
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1981年: 独力で行なおうとするFISAへの警告として、南アフリカGPの日程に関する論争はFOCAの独自レース開催に発展。エクレストンの倉庫に眠っていたエイボンタイヤが使用されたレースの現実は少々ハチャメチャだったものの、F1収入の分配を決める新契約において真剣な話し合いを行うようFISAを説得するには十分だった。規則決定の過程における拒否権、および収入分配の拡大を確保したコンコルド協定が締結される。

コース上ではネルソン・ピケがエクレストン率いるブラバム初のチャンピオンシップタイトルをもたらしている。

1982年: イタリアGPで後に妻となるスラヴィカ・ラディックに出会う。この頃、彼女はファッションモデルとして活動していた。エクレストンとは28歳差、身長差はスラヴィカの方が足の長さ分ほど高い。

1983年に先だってグラウンドエフェクトが禁止され、ブラバムが大急ぎで翌シーズンのマシンを再設計しなければならなくなったとはいえ、多くの譲歩の末、FISA-FOCA戦争はあっけなく終えん。

1983年: しかしながら、燃料タンクを縮小し、レースでの給油戦略が功を奏したおかげで大成功を収める。ブラバムが違法な燃料を使用しているとの疑惑が浮上したにもかかわらず、ピケはエクレストンのオーナーシップの下、2度目のチャンピオンに輝いている。エクレストンのFOCAとFISAとの新たな平和協定を強調するかのように、上告はFIAが認めなかった。

1984年: スラヴィカと結婚。長女タマラが生まれる。

1985年: マレーがマクラーレンに行き、シーズン末にエクレストンと報酬でもめたピケがブラバムを離脱。この後、ブラバムはF1で過ごした最後まで勝利を挙げられなかった。

1987年: FISAへの関与を深めるエクレストンはブラバムを500万ドルで売却。FISAで広報担当の副会長に就くと、最初のコンコルド協定の期日が満了するに伴いテレビ放映権を管理するためフォーミュラ・ワン・プロモーショナル・アソシエーション(FOPA、後のフォーミュラ・ワン・マネジメント/FOM)を設立する。FOPAは旧式のシステムよりはるかに収益を上げ、テレビ放映料のうち47%をチームに、30%をFIA、23%をFOPA自らが受け取った。またFOPAはプロモーターが支払う料金のすべてを受け取っているが、その一部をチームの賞金にあてている。

エクレストンとスラヴィカ(元)夫人、娘のペトラとタマラ(2005年撮影) © Sutton Images
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1988年: 次女ペトラが誕生。

1993年: FIA会長にモズレーが就任する。かつてブラバムにいた複数のスタッフがFIAの中心的な役割に就き、昔の同僚に囲まれるエクレストン。FOPAとF1の成功は発展し続けた。

1995年: モズレー率いるFIAはエクレストンに対し、15年間のF1の商業権を許諾。

1996年: 税金対策と将来的な新株発行の準備として、F1ビジネスのオーナーシップを妻であるスラヴィカに譲渡する。FOMとその子会社がSLECホールディングスの傘下に入る。SLECはスラヴィカ・エクレストン("SL"avica "EC"clestone)の頭文字をとってつけられている。

1997年: しかし、チームらは自らの命名権を失ったことに不満を訴え、マクラーレン、ウィリアムズ、ティレルは新コンコルド協定への調印を拒否。最終的には納得させられ、10年間の契約にサインした。

また、エクレストンは欧州の命令に逆らい、タバコスポンサーを許可するおう政府にプレッシャーをかけ、それと同時に労働党に100万ポンドを寄付して見出しを飾る。トニー・ブレア氏は後に状況の取り扱いのミスを謝罪、議会が制定した一般監査人の助言を受けて寄付は返還されている。

1999年: SLEC株12.5%を3億2,500万ドルでベンチャーキャピタリスト企業『Morgan Grenfell Private Equity(モルガン・グレンフェル・プライベート・エクイティ)』に売却。

心臓外科手術でトリプル冠状動脈バイパス手術を受けるも、元気に早期復帰を果たし、「皆も(手術を)受ければいいのに」と冗談を飛ばした。

旧友モズレーと共に1990年代後半から2000年代にかけてF1政治を牛耳ったエクレストン © Sutton Images
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2000年: 先の100年間に及ぶF1商業権の利用契約を締結。契約は3億6,000万ドルの価値があると言われ、F1の運営法においてFIAの背後から欧州委員会競争総局を取り除く。パリに設けられたFIAの新オフィスにかかった6,000万ドルは一括で支払われている。

エクレストンはSLEC株37.5%を7億2,550万ドルでアメリカを拠点とする投資会社『Hellman & Friedman(ヘルマン・アンド・フリードマン)』に売却。同社とモルガン・グレンフェル・プライベート・エクイティ社は共同で子会社『Speed Investments(スピード・イベンストメンツ)』を立ち上げ、そこからドイツのメディアカンパニー『EM.TV』のトーマス・ハッファに売却、16億5,000万ドルの現金と株式を手にしている。

2001年: EM.TVが問題を抱え、『Kirch Group(キルヒ・グループ)』がスピード・イベンストメンツの株式50%を5億8,600万ドルで購入。さらにエクレストンから9億8,750万ドルで株式25%を取得した。この2つの取引は『Bayerische Landesbank(バイエリッシェ・ランデスバンク/バイエルン州立銀行)』から10億ユーロ、JPモルガンおよびリーマン・ブラザーズの双方から6億ドルの融資を受けている。エクレストンはSLECの残る株式25%を所有する家族信託『Bambino Holdings(バンビーノ・ホールディングス)』に移した。

2002年: キルヒ・グループが管理下に置かれ、銀行がSLECの株式75%をコントロールすることになる。

2004年: 3銀行がエクレストンを訴えようと試み、エクレストンのF1における支配は脅威にさらされたように思われた。裁判官は銀行側の「主張は正しく、したがって(エクレストンは)要請された申告を行うべきである」と裁定。しかしながら、エクレストンは「(つまり)何もないということ」と話し、上告の意志を表明する。分裂シリーズ発足は利益にならないと判断した銀行側が最終的に譲歩した。

プライベートでは一度も住んでいないロンドンの自宅を5,710万ポンドで鉄鋼業界の立役者ラクシュミ・ミタルに売却している。

2005年: 『CVC Capital Partners(CVCキャピタル・パートナーズ)』がSLECの株式を購入すると共に、エクレストンの持株も取得。それでも、エクレストンは自身と同社が新たに設立したホールディングカンパニー『Alpha Prema(アルファ・プレマ)』の未公開株を保有する。またCEOとしてF1の手綱を握り続けている。

同年、アメリカで活躍するダニカ・パトリックに対するコメントとして「女性は他の家電のように白い服を着るべきだ」と発言、多くの人々に衝撃を与えた。

2007年: フラビオ・ブリアトーレが携わるコンソーシアムの一環として、エクレストンはサッカーチーム"Queens Park Rangers(クイーンズ・パーク・レンジャース)"の株式の過半数を取得する。

2008年: スラヴィカ・エクレストンが自宅を離れ、離婚訴訟に踏み切る。

2009年に離婚が成立したスラヴィカ元夫人とエクレストン © Sutton Images
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2009年: スラヴィカと離婚。慰謝料は10億ポンドと報じられたが、エクレストンは最終手続きが行われたことを知らず、「ちっとも知らなかった! 弁護士はこの情報を昨夜、夜遅くに入手したと言っていたが、離婚(手続き)が終わっていたのは知らなかった。こんなことになるなんて。家族にとっては悲しい1日だよ、うん・・・。避けられないこともある。それを受け入れなければならないこともね。だが、友好的なお別れだったよ」と明かしている。

また、『The Times(ザ・タイムズ)』紙への発言で窮地に陥る。エクレストンは「これを言うことがひどいとは知りつつも、彼が実際にそれをやりたかったかどうかは分からないが、ヒトラーが連行されて説得させられていた場合を除き、彼は多くの人々にやるべきことを命じてやらせていたと思う」と発言している。

2010年: F1サーカスがまた新たな開催地、韓国を訪れてから間もなく、80歳の傘寿を迎える。2011年にはインドGPがカレンダーに加わり、2012年にはアメリカGPが復帰予定、そして2014年にロシアGPが開催されることになっている。

Laurence Edmondson is an assistant editor on ESPNF1

© ESPN Sports Media Ltd.
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Laurence Edmondson is deputy editor of ESPNF1 Laurence Edmondson grew up on a Sunday afternoon diet of Ayrton Senna and Nigel Mansell and first stepped in the paddock as a Bridgestone competition finalist in 2005. He worked for ITV-F1 after graduating from university and has been ESPNF1's deputy editor since 2010