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  • 天成の成功者たち

トップ10:チーム代表

Laurence Edmondson / Me 2010年7月21日
ドライバーとやりとりするための旗を手にポーズを取るアルフレート・ノイバウア © Getty Images
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【アルフレート・ノイバウア】

チーム代表の元祖、ノイバウアこそ、文字通りこの役職を考案した人物だ。第一次世界大戦で従軍後、彼はフェルディナント・ポルシェの下でアウストロ・ダイムラーのテスト&レースドライバーになるという夢をかなえる。だがドライバーとしての才能が限られていることを知り、間もなく彼は"Rennleiter"(レンライター/ドイツ語でレーシングチームマネジャーの意)という地位に就く。これがまさに当たり役で、1926年にダイムラーと合併したメルセデスは1930年代、そして1950年代においてグランプリレーシングの強豪チームとして彼の下で大活躍する。丸々とした体に中折れ帽をかぶったノイバウアはピットのどこにいてもすぐに見つかった。ドライバーたちを厳格かつ統制された方法で扱い、ボードや旗を使ってコース上の彼らとコミュニケーションを取るシステムを考案。彼はありとあらゆる策略を使いこなし、モーターレースの世界を永遠に変えるプロフェッショナリズムをスポーツにもたらした。

【エンツォ・フェラーリ】

リストの中でもとりわけ感情を喚起させる名前だ。史上最も成功したF1チームを創設した人物である。しばしばマフィアのドンに例えられ、コメンダトーレの愛称で呼ばれた彼は無慈悲な経営スタイルで知られたが、それが周囲に神秘的なオーラを漂わせていた。彼の愛情はドライバーよりマシンに対して注がれ、完全なるエンジン至上主義でシャシーは二の次という考え方だった。だが気に入った勇敢なドライバーに対しては十分な見返りを与えた。例えばジル・ビルヌーブ――彼はエンツォの心の中で特別な位置を占めていたようだ。1960年代に会社の大部分をフィアットに売却したが、1998年にこの世を去るまでチームへの影響力を持ち続け、テストコースやファクトリーの近くにある邸宅で生涯を終えた。

【フラビオ・ブリアトーレ】

F1パドックで過去最も物議を醸したのは彼だろう。ブリアトーレはまさしくスポーツの最高、そして最悪の一面を象徴する存在である。ほかの者たちと違い、彼はチームマネジャーになる前はF1に対してそれほど情熱を持ってはいなかった。だからこそベネトン、後のルノーで感情的になりすぎず、非常に分析的な姿勢を貫くことができたのだろう。4度のタイトル獲得を見守り、過去20年間で2人のベストドライバー(ミハエル・シューマッハとフェルナンド・アロンソ)を見いだしたにもかかわらず、彼はクラッシュゲート・スキャンダルの首謀者として人々の記憶にとどめられる。この一件で当初はFIAから生涯追放処分を言い渡された。だがブリアトーレの人生に論争はつきもの――F1に関わる以前にも詐欺行為で有罪判決を受け、ヴァージン諸島へ逃亡した経歴の持ち主だ――2013年にF1への立ち入り禁止が解かれた後、何食わぬ顔で現場に戻ってくる可能性は十分にある。

【バーニー・エクレストン】

彼のモータースポーツにおけるキャリアのスタートは慎ましやかなものだった。きっかけは地元ガス工場の仕事の合間にモーターバイクのパーツを売り始めたことだった。だが、エクレストンの起業家精神が財政的見返りを得るのにそう時間はかからず、急成長したモーターバイクビジネスの収入で苦戦中のコンノート・チームを手に入れる。真の成功が訪れたのは1970年代。ブラバムを買収し、ネルソン・ピケと2度のドライバーズタイトルを獲得。彼は初めに12万ドルを投じてチームを手に入れたが、1987年には500万ドル以上の値で売却した。その間、フォーミュラ・ワン・コンストラクターズ・アソシエーション(FOCA)を通してスポーツ内での存在感を高め、テレビ放映権を管理するようになり、現在の地位を築いた。

【ロン・デニス】

デニスは徹底した完全主義者であり、しばしば支配魔といわれる。だがその偏執的な性格こそが、マクラーレンをF1史上2番目に成功を収めたチームという立場に押し上げ、今でもタイトルコンテンダーであり続ける礎を築いた。10分の1秒が勝ち負けの違いを生む環境で、デニスの指揮により、彼の細部へのこだわりと従業員に対する高レベルの要求がマクラーレンに7度のコンストラクターズタイトル、そして10回のドライバーズタイトル獲得を可能にした。

1978年、勝利を喜ぶコリン・チャップマン © Sutton Images
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【コリン・チャップマン】

おそらく、リストの中で最も革新的なチーム代表は彼だろう。チャップマンとチーム・ロータスは常に限界ギリギリまでルールを追求してアドバンテージを見いだそうとした。ロータスがグラウンドエフェクトを最大限利用したタイプ79は劇的な結果をもたらし、彼の才能はフェラーリのようなチームを後進的とさえ感じさせた。彼はいつも流行の仕掛け人だったが、スポーツ、そして自らのドライバーに対しても巨大な情熱を持ち続けた。その両個性がロータスに、彼のチーム代表時代、7度のコンストラクターズタイトルをもたらしたのだろう。

【ジャン・トッド】

究極の人材マネジャーといえるトッドはF1で最も厄介なチームをまとめた真のリーダーだ。プジョーに所属し、ラリーやスポーツカーレースの世界で成功を収めたが、会社がF1進出に否定的だったことで、1993年、長引くチームの低迷に終止符を打つべく指導者を探していたフェラーリの新社長、ルカ・ディ・モンテゼモーロの目に留まった。1996年になると、トッドは当時2冠だったチャンピオン、ミハエル・シューマッハをベネトンから引き抜いた。それにロス・ブラウン(戦略家)、ロリー・バーン(デザイナー)も続いた。彼らを核にチームがまとまり、2000年から2004年にかけてシューマッハが5年連続タイトルを獲得するという偉業を成し遂げ、その勢いは誰にも止められそうになかった。しかしトッドのフェラーリへの傾倒は、ともすればスポーツにとって有害にもなり得るほどだった。2002年オーストリアGPでルーベンス・バリチェロに勝利をあきらめさせ、ミハエル・シューマッハを勝たせた時は、多くの人が行きすぎだと考えた。できれば、彼のリーダーシップの良い面だけを生かし、FIA新会長としての役目を果たしてもらいたい。

【アレクサンダー・ヘスケス卿】

風変わりな彼に家柄や社会的地位が与えられていたのは皮肉なことだ。彼はその富を使ってF1に乗り込み、勝利した。第3代男爵ヘスケスは、一族の財産を元手に1972年、フォーミュラ3チームを設立。ただ楽しめればいいとの考えからだった。しばらくして、彼は有望で速いが、壊し屋で有名なイギリス人ドライバー、ジェームス・ハントと出会う。1973年の初め、ヘスケスはハントにF2マシンを買い与えたが、フランスのポーでマシンはあっという間に壊された。この分では、F1で戦うコストも大して変わらないだろうと、ヘスケスはあっさり最高峰レースへの出場を決めた。ボスへの忠誠心あふれるチームは、楽しければいいという彼の信念に従って毎日のようにパーティーを開き、ハントはすぐに究極のプレイボーイとしてその名を知られることになった。F1の世界では伝統的だったスポンサーを持たず、ヘスケスはプロジェクトに湯水のように金をつぎ込む。1974年にはマシンを設計するためにハーベイ・ポスルスウェイトを雇用。ほどなくしてチームは表彰台を争うようになり、1975年オランダGPでフェラーリのニキ・ラウダを抑えて初優勝。F1界を揺るがしたヘスケスだったが、この頃になるとハント――親しみを込めてスーパースターと呼ばれていた――はチームに収まり切らない存在となり、1976年にマクラーレンと契約する。創設からわずか3年、夢は終わった。資金も尽き始めていたヘスケスは撤退を宣言。チームはスポンサーを得て1978年までレースを続けたが、1975年のような至福の時は二度と訪れなかった。

【フランク・ウィリアムズ卿】

パドックで最も長く代表を務めたウィリアムズ卿は、何もないところからチームをワールドチャンピオンにまで押し上げ、最後尾からポールまで、そこに至るまでの全グリッドを経験している。初めてF1に出走したのは1969年だったが、フランク・ウィリアムズ・レーシング・カーズとウォルター・ウルフ・レーシングが成功を収めることはなく、1977年に現在のウィリアムズF1チームを新たに設立。1980年までに選手権タイトル獲得も成し遂げたが、真の全盛期は1990年代に訪れた。1990年代だけで5回のコンストラクターズタイトルを獲得し、1992年、1993年、1996年、1997年はダブルタイトルを手にしている。

【レイモンド・メイズ】

30年にわたりドライバーとしてレースに参戦し続けたメイズだが、成功者となったのは第二次大戦前のイングリッシュ・レーシング・オートモービルズ(ERA)と、大戦後のブリティッシュ・レーシング・モーターズ(BRM)の代表としてだった。大陸がレースを支配した時代に、メイズは英国の成功を切望したが、しばしば資金難に苦しめられた。戦前にメイズが陣頭指揮を執ったERAは当初ワークスチームだったものの、マシンはその後プライベーターのカスタマーチームに売却された。1945年に始まったBRMプロジェクトは国家の威信をかけたものだったが、なかなか軌道に乗らず、幾度も頓挫しかけた。1950年、ようやくマシンはイギリスGPのイベントで姿を現すも、こっけいほど複雑なV16エンジンは動き出す前にオーバーヒート。それでも夏の間に期待は膨らみ、2度目の出走となった8月のインターナショナルトロフィー。とりあえず動き出すことには成功したものの、マシンはすぐにストップしてしまう。怒った群衆からコインを投げつけられた。1951年に何度かレース出場を果たしたが、メイズは翌年交代させられてしまった。彼は華やかな人物だったようで、当時の新聞は彼のことをしばしば"完ぺきな服装"で"エレガント"と称したが、真実はというと、アイラインを引いてドライブするのが好きで、ビジネスパートナーのピーター・バーソンは仕事上だけのパートナーだけではなかったと広くうわさされた。

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Laurence Edmondson is an assistant editor on ESPNF1

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Laurence Edmondson is deputy editor of ESPNF1 Laurence Edmondson grew up on a Sunday afternoon diet of Ayrton Senna and Nigel Mansell and first stepped in the paddock as a Bridgestone competition finalist in 2005. He worked for ITV-F1 after graduating from university and has been ESPNF1's deputy editor since 2010