Features

  • 起きてはならなかった事故

トップ10:愚かなクラッシュ

Laurence Edmondson / Me 2010年4月29日
クラッシュしたアイルランドのロータス21の残骸 © Sutton Images
拡大

【イネス・アイルランド(1961年モナコGP)】

陽気で社交的なスコットランド出身のアイルランドは、優れた技術と天性の才能を持っていた。しかし、あまりに人生を楽しみ過ぎたがために、本来のレーシングタレントを出し切れなかったのではないだろうか。1961年のモナコGPプラクティス中、ギアを4速に入れるべきところで誤って2速に入れるミスを犯してしまった。彼のロータス21はトンネルを時速200km強で抜けるところだった。後に彼は振り返る。コントロールを失う直前、"ああ、くそったれ! ギアを間違えちまった!"と思ったらしいが、もう遅い。リアホイールをロックさせたロータスは何度か急旋回し、トンネル出口のウオールに激突、ドライバーの体を路上に放り出した。驚くべきことにアイルランドは、アスファルトで負った深刻なやけどと膝蓋骨を割っただけで命に別状はなかった。

【ヘルムート・マルコ(1972年フランスGP)】

これは愚かでもあり、悲劇でもある事故だ。そのどちらも人の良いマルコの責任ではなく、彼は不運な犠牲者であるが、二度とレースに出ることはなかった。クレルモン・フェランのフランスGP予選で、BRM P160を6番手に導いたマルコ。中団グループを走行していた彼に、別のマシンから跳ね上げられた石が彼のバイザーを貫通、片方の目を失明させた。マルコが痛みに耐えながらも燃料を満載したマシンを操り、バリア横まで移動して停止させたことは驚きに値する。だが、彼のレース――そしてキャリア――はそこで終わってしまった。

【ニキ・ラウダ(1974年ドイツGP)】

1974年ドイツGP、チャレンジングなニュルブルクリンクでラウダはフェラーリ312B3をポールポジションに導いた。しかし、スタートでチームメイトのクレイ・レガツォーニとティレルのジョディ・シェクターに抜かれてしまう。必死にシェクターから2番手を奪い返そうとアタックするが、ノースカーブのブレーキングでティレルの左フロントホイールに当たり、スピンを喫しながらコースアウトしていき、キャッチフェンスに突き刺さった。「自分が一体何を考えていたのか分からない」とラウダ。「楽に勝てるレースだったのに」

【ヴィットリオ・ブランビラ(1975年オーストリアGP)】

友人やライバルたちから親しみを込めて"モンツァ・ゴリラ"と呼ばれたブランビラは、ワイルドで荒っぽいF1ドライバーだった。1974年と1975年にマーチF1のワークスチームで走り、圧倒的な速さを見せつけた。雨で水浸しのエステルライヒリンクでマーチ751に乗る彼は、一度たりともラインを外すことなく走り続けた――レース半分が経過した時点で悪条件のため中止が決まり、チェッカーフラッグが振られるまでは。わき上がる興奮を抑えられなかったのだろう。喜びに拳を突き上げながらチェッカーを受けた直後、スピンしてピットウオールにノーズをぶつけ、それを引きずりながらスローダウンラップを走り続けることになった。

【ジェームス・ハント(1978年イギリスGP)】

1978年の夏頃になると、ハントのF1への欲求は自然な経過をたどっていた。相棒のラウダから1ポイント差でワールドチャンピオンになってから2年が経過しており、マクラーレンの新車M26は期待はずれの出来だった。この頃のハントは神経質になり過ぎており、スタート前のマシンに乗り込む前に嘔吐するのが当たり前になっていた。また極度のチェーンスモーカーでタバコを手放すことができず、中にはタバコでないものも混じっていた。ブランズハッチではほんの数周走ったところでスピンを喫し、コーナーマーカーをなぎ倒して急停止した。巻き込まれたマシンはいなかった。

1989年日本GPで絡んだプロストとセナ。セナはコックピットに座り続け、プッシュスタートで優勝。しかし、その後失格とされた。 © Sutton Images
拡大

【プロストとセナ(1989年日本GP)】

1988年と89年のマクラーレン・ホンダ・チーム内で起きたアラン・プロストとアイルトン・セナのライバル関係はすさまじいものだった。決して彼らがお互いを嫌っていたのではない。単純に2人が完全に異なる人格で、同じ環境にいることができない関係だったのだ。彼らのライバル心は1989年の日本GPで爆発した。鈴鹿のグリッド上でスタート直前に空力を調整したプロストがレースの大半をリード。終盤になると、セナが徐々に追いついていき、タイトなシケインで強引に追い越しをかけた。プロストはスペースを与えず、2台のマクラーレンは絡まったまま、コースの真ん中でストップ。実に間抜けな光景だった。

【マイケル・アンドレッティ(1993年イギリスGP)】

これは、レースする相手を知ること、相手がどんな行動に出てくるかを知る必要があるという古典的な例だ。1978年のワールドチャンピオン、マリオ・アンドレッティの息子であるマイケルは、セナのチームメイトとしてマクラーレンでF1デビューした。しかし、サーキットに不慣れだったこと、テストが制限され、マシンに乗った経験が少なかったこと、このすべてが悪い方に働いた。シルバーストーンで彼はいいスタートを切ったが、第1コーナーでタフガイ、ジャン・アレジのフェラーリに一対一の勝負を挑んだ。2台はホイールを派手に衝突させ、マイケルは当然のようにはじき出されてグラベルにはまった。

【クリスチャン・フィッティパルディ(1993年イタリアGP)】

モンツァで開催されたイタリアGP、フィニッシングラインへ向かっていたフィッティパルディは、ミナルディのチームメイト、ピエルルイジ・マルティニのトウを利用してパスしようとした――が、そこで手違いが発生。マルティニのリアに乗り上げたフィッティパルディのマシンはきれいな後方宙返りを描き、正しい方向を向いて着地まで決めると、8位でチェッカーを受けた。

【マンセルとセナ(1987年ベルギーGP)】

ナイジェル・マンセルのウィリアムズ・ホンダ、そして、同じエンジンを使うロータスのセナは接触して共にリタイア。セナはピットまで長い距離を歩きながら頭を冷やそうとした。しかし、マンセルはそうはいかなかった。セナはこのタフなバーミンガム出身ドライバーと絡んだらどうなるか、知っておくべきだったといえる。ライバルのガレージに乗り込んだマンセルは、セナのオーバーオールの襟首をつかむと、地面から数インチ浮くまでつり上げた。そのメッセージは誰が見ても明らかだった。

【セナとブランドル(1989年オーストラリアGP)】

スタート前のアデレードを豪雨が襲い、多くのドライバーがスタートするべきではないと考えた。だが、協定を守ったのはプロストだけで、彼だけがオープニングラップを終えてピットに戻った。そのチームメイト、セナは、水がたまり、視界がほとんどゼロという状態の中、圧倒的なリードを築いていく。その頃レースの後方、ブラバム・ジャッドのマーティン・ブランドルがスピンを喫していた。コース復帰はしたものの、一瞬自分が正しい方向に進んでいるのかどうか疑問に思ったブランドル。彼より一瞬速くその答えを知ったのは世界中のテレビ視聴者だった。リアを映すブラバムのカメラに、水しぶきの中からセナのマクラーレンのノーズが突如浮かび上がったかと思うと、セナのマシンはそのままブランドルのマシンに追突。両者、その場でリタイアとなった。

携帯サイト『F1-Live.com MOBILES』ではESPNF1でご紹介する特集記事をイチ早くお届け! F1最新ニュースも速報でお伝えしています! 他にも、F1クイズ選手権や携帯サイトでしか手に入らないグランプリの待受&フォト、誕生日を迎えたドライバーのフォトセレクションなど盛りだくさんのコンテンツをご用意しています。携帯サイト『F1-Live.com MOBILES(月額315円)』で、ぜひF1シーズンをご堪能ください。

携帯サイトURL⇒http://k.F1-Live.com/m

i-mode: メニューリストスポーツモータースポーツ

EZweb: トップメニューカテゴリで探すスポーツその他

Y! ケータイ: メニューリストスポーツF1・モータースポーツ

公式twitter URL: http://twitter.com/F1_Live_com

QR Code

Laurence Edmondson is an assistant editor on ESPNF1

© ESPN Sports Media Ltd.
Laurence Edmondson Close
Laurence Edmondson is deputy editor of ESPNF1 Laurence Edmondson grew up on a Sunday afternoon diet of Ayrton Senna and Nigel Mansell and first stepped in the paddock as a Bridgestone competition finalist in 2005. He worked for ITV-F1 after graduating from university and has been ESPNF1's deputy editor since 2010