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  • 1926年イギリスGP

特集:ドライバーが灼熱地獄にさらされた日

Martin Williamson / Me 2010年4月15日
史上初のイギリスGPで人工的に設けられたシケインでプラクティスを行うドラージュのブノワ © Getty Images
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グランプリ・レーシングは多くのスポーツ同様、1900年代の初頭からヨーロッパ大陸で開催されていたが、イギリスは当初無関心を装っていた。イギリス人ドライバー、ヘンリー・シーグレーブが1923年と翌年にフランス、スペインで勝利を収めるようになってようやく、英国王立自動車クラブ(RAC)は態度を翻してイベント開催に動き出した。

開催地はすぐに決まった。ロンドンから南西に32kmほどのウェイブリッジに1907年、ブルックランズのレースコースがオープンしており、すぐに国内の主要レースサーキットとなっていた。高速用に設計されたバンクのあるコースで、およそ25万人の観客を収容できた。日程は非常あわただしいヨーロッパシーズン合間の1926年8月7日に設定されたが、まだ始まったばかりのワールド・コンストラクターズ選手権全5戦の4戦目に含まれていたことから、集客は保証されていた。

それまでのヨーロッパのレースは道路を使ったものが一般的で、専用コースの使用に慎重な意見も多かった。RACは彼らに譲歩し、ホームストレートに土のうを積んで人工的なヘアピンを2つ作ることに同意した。これでマシンのスピードが時速15マイル(時速24km)ほど減速されるはずだったが予想は外れた。

7月初旬までにRACは13のエントリーを受け付けた――8つがイギリス、残りはフランスからだった――主な欠場者は前2戦で優勝していたフランス人ドライバー、ジュール・グー。また、シーズンを支配していたブガッティの数が少なかったこともわずかな失望だった。

レース24時間前までに、13のエントリーのうち4つが取り消された。マルコム・キャンベルのタルボもその一つで、彼は2つめのエントリー、ブガッティからの参戦を決めた。

『Guardian(ガーディアン)』紙によれば、スタートの6時間前、午前8時から開場入りを待つ人の行列ができていたという。同紙いわく、会場には"異例の大観衆"が詰めかけ、足場のあるすべての観戦地点が人であふれかえっていたそうだ。

レース序盤は予想通り、ドラージュとタルボが圧倒し、スピードは遅いながらも信頼性に長けたブガッティが遅れて続いた。最初のリタイアとなった犠牲者はタルボのジュール・モリソーで、1周も走り切らずに車軸が折れてしまった。10数周を終えるとドラージュのロベール・セネシャルとロベール・ブノワははるか前方で独走態勢を築いており、実質的なレースは3位争いとなった。

イギリスのホープだったシーグレーブはライバルたちよりも速さを見せたが、タイヤのバーストとキャブレターのトラブルで3,000回転以下に落とすことができなくなった。『The Times(ザ・タイムズ)』によれば、彼のマシンで"時折起きるエンジンのミスファイアが、機関銃の暴発に似た音を立てながらエキゾーストから炎を吹き出したため、事情を知らない観客は大喜びしていた"と報じている。シーグレーブはピットストップでもウインドシールドの隙間にナットが挟まっているのが見つかり、メカニックたちが出所を探している間に大きくタイムロスしてしまった。最後尾でレースに復帰したが、結局リタイアを強いられている。

レースは脱落者多数となり、残り1時間で生き残ったのはわずか4台――セネシャル、ブノワ、キャンベルとフランス人のアルベルト・ディヴォだけだった。

レース前、ブガッティ・タイプ39Aに乗るマルコム・キャンベル © Getty Images
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セネシャルはその後、同郷のルイ・ワグナーと運転を交代。ワグナーは自身のマシンのエンジンがブローし、足にひどいやけどを負っていた。ワグナーがセネシャルから引き継いだマシンはすでにくたびれていただけでなく、ペダルが耐え難い高温に達していたため、彼は19周したところでいったんストップして、数分間冷たい水を張ったバケツに足を突っ込んだ後、レースを再開した。

「すべてのドライバーが生きながら焼かれる気分を味わった」と『Guardian(ガーディアン)』は記録しており、ブノワの初期のピットストップで彼のクルーが応急処置として石綿製のシールドをエンジンとの間に挟み、少しでも熱を和らげようとしたが、その後さらにスチール製のプレートを追加することになったと伝えている。

その頃、レースをリードしていたのはディヴォだったが、エンジントラブルでピットインを強いられた。マシンを再スタートさせようと努力したものの、失敗に終わり、その間にシーグレーブがオーバーテイクを試みたが、彼もまたタルボを再スタートさせることができなかった。

ブノワがエンジンから火を噴いてピットインすると、ワグナーがトップに立った。ブノワのトラブルは前半の応急処置が原因だろう。メカニックが炎を消す中、もう1人のフランス人、アンドレ・デュボネがブノワとドライバー交代した。

ブノワはさぞかし不安だったことだろう。デュボネはベレー帽をかぶり、スーツ姿でマシンに転がり込んだ。その上、彼は一度もサーキットで走ったことがなかったのだ。この経験不足が響き、彼はキャンベルにオーバーテイクされ、完走した3台中最後尾でフィニッシュした。

4時間に及んだレースは4周半以上の差をつけてセネシャル/ワグナーのドラージュが制し、平均速度は時速71.61マイル(時速114.5km)だった。彼らは287マイルのドライブで1,000ポンドの賞金を手に入れた。ワグナーは、アメリカGPだけでなく、初のイギリスGPウイナーとしても歴史に名前を刻んだ。イギリスの観衆にとって慰めだったのは、シーグレーブがこの日のファステストラップ(時速85.99マイル/時速137km)を記録してトロフィーを授与されたことだった。

ブガッティは最終レースでシーズン3勝目を挙げてタイトルを獲得し、ブルックランズでは翌年もレースが開催されたものの、それが最後となった。

1926年のイベントに関して際立ったのは参加者の個性だった。3人――キャンベル、シーグレーブ、ジョージ・イーストン――が自動車の最高速記録を樹立。デュボネは第一次世界大戦時の空軍のエースパイロットで、同時に1928年冬季オリンピックでフランスのボブスレー代表チームの一員にもなった。ブノワは第二次世界大戦でイギリス特殊作戦執行部(SOE)のエージェントを務めたが、ドイツ軍に捕らえられ、1944年にブーヘンヴァルト強制収容所で処刑された。そして、フランク・ハルフォードは後にジェット推進の分野を率いるパイオニアの1人となった。

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Martin Williamson is managing editor of digital media ESPN EMEA

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Martin Williamson is managing editor of digital media ESPN EMEA Martin Williamson, who grew up in the era of James Hunt, Niki Lauda and sideburns, became managing editor of ESPN EMEA Digital Group in 2007 after spells with Sky Sports, Sportal and Cricinfo