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F1死亡事故一覧

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1978年モンツァ、路上に散乱するマシン。当初、命に別状なしと思われたロニー・ピーターソンだったが、翌日病院で亡くなっている ©
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モーターレースの誕生とともに、ドライバーたちは常に死と隣り合わせで生きてきた。安全基準の著しい改善のおかげで、競技中の重傷者や死亡者は大幅に減少。F1で最後の死亡事故は、1994年に起きたアイルトン・セナの事故だ。だが、創生期の死者数は驚くべき数に上る。これは、F1でレース中に亡くなった全ドライバーのリストである。オフィシャルや観客は含まれていない。1950年から1961年にかけて、インディアナポリス500マイルレースはF1選手権の一部だったが、レースをしにアメリカまで行くヨーロッパのドライバーはまれだった。最初の死亡者11人のうち、7人までがこのサーキットで命を落としている。

1953年 チェット・ミラー インディアナポリス
コース上最年長のドライバーだった50歳のミラーは、プラクティス中、乗っていたノビ・スペシャルのコントロールを失い、時速160km以上でコンクリートウオールに激突した。このレースではフィニッシュ後、カール・スカーバラが熱中症で倒れ、死亡している。

1954年 オノフレ・マリモン ドイツ
予選でニュルブルクリンクの急激な下りターンに挑んだマリモンのマシンはコースを外れて木に衝突。何度も回転しながら逆さまになって停止した。現場でカトリックの臨終の儀式を受けた彼は間もなく息を引き取った。

1955年 マニー・アユロ インディアナポリス
レース前のプラクティスでステアリングが破損したと考えられており、コンクリートウオールに衝突した。翌日、けがのために死亡。

1955年 ビル・ブコビッチ インディアナポリス
前年にインディ500で2連勝していたブコビッチはレースをリードしていたが、前方で起きたクラッシュをよけ切れず、衝突。ウオールを飛び越えた彼のマシンはノーズから着地し、炎に包まれた。首が折れており、即死だった。

1957年 キース・アンドリュース インディアナポリス
プラクティス中に時速217kmでウオールにぶつかり、首の骨を折って死亡。

1958年 パット・オコナー インディアナポリス
レース1周目に起きた15台の多重衝突事故ではじき飛ばされたオコナーのマシンは燃え上がり、彼は命を落とした。3年前のブコビッチの死とは奇妙な類似点が多い。どちらもカーナンバー4に搭乗し、5番グリッドからスタート。別のマシンに乗り上げて炎上した点も同じだ。

1958年 ルイジ・ムッソ フランス
2位を走行中、高速ターンでコントロールを失ったフェラーリのマシンは溝に足を取られ、時速240kmで横転。事故の起きたランスのサーキットは緊急用ヘリコプターを備えた世界最初のサーキットの1つであり、彼は病院へ緊急搬送されたものの、助からなかった。

1958年 ピーター・コリンズ ドイツ
ムッソの事故が起きた次のレース。フェラーリに再び衝撃が訪れる。ドライバーズチャンピオンシップで3番手につけていたコリンズが、先頭争いの最中にコントロール不能となり、フェンスを直撃。コックピットから投げ出されたコリンズの体は木に打ちつけられ、同日夜、頭蓋骨骨折による死亡が確認された。

1958年 スチュアート・ルイス・エバンス モロッコ
ルイス・エバンスの乗るヴァンウォールのエンジンがブローし、彼は高速でバリアにクラッシュ。マシンは炎上した。チーム代表トニー・ヴァンダーベルのプライベート機でイギリスへ搬送されたが、やけどのため、6日後に病院で息を引き取った。この年初めて創設されたコンストラクターズチャンピオンシップに勝利したものの、ヴァンダーベルのショックは大きく、ルイス・エバンスのマネジャーを務めていたバーニー・エクレストンと共に、しばらくレース界から姿を消した。

1959年 ジェリー・アンサー インディアナポリス
前年の15台の多重衝突に巻き込まれながらも難を逃れたアンサーだったが、プラクティス中にコントロールを失い、ウオールに衝突して宙返りしながらコースに落下、マシンは爆発した。彼は2週間後にやけどのため死亡。この事故がきっかけで、耐火性のドライビングスーツ着用が義務づけられた。

1959年 ボブ・コートナー インディアナポリス
ミジェットレーシングのベテランだったコートナーにとって、インディに来てわずか2日目の出来事だった。突風にあおられてマシンはクラッシュ。コートナーはその日のうちに頭部外傷で死亡した。

1960年 ハリー・シェル イギリス
シルバーストーンで非選手権イベントのプラクティス中、ウエット路面でスリップした彼のクーパーはれんが壁に衝突。その壁が彼の上に崩れ落ちた。

1960年 クリス・ブリストウ ベルギー
スパのこの週末は後に暗黒の週末と呼ばれ、プラクティスから大事故が相次いだ(スターリング・モスはここで両脚を骨折している)。レース20周目、ブリストウのミスで、彼のクーパーはほぼ真正面からフェンスに突入。その際、頭部を切断されるという不幸が重なり、命を落とした。22歳だった彼は、今でも選手権レースで亡くなった最も若いドライバーである。

1960年 アラン・ステイシー ベルギー
ブリストウの事故のわずか数周後、再びクラッシュが発生、マシンが炎上してステイシーが死亡した。目撃していた観客とメカニックの証言によると、事故の直前に鳥がぶつかっており、彼は意識を失っていたと考えられている。

1961年 ウォルフガング・フォン・トリップス イタリア
1956年と1958年のモンツァでクラッシュを喫したフォン・トリップスだが、この年はタイトルを争っており、どうしても3位に入る必要があった。ジム・クラークのロータスと接触した彼のマシンは空中を飛んでバリアに衝突。フォン・トリップスはコックピットから投げ出され、さらにコース脇のフェンス裏から観戦していた14人の観客も巻き込まれて亡くなるという大惨事になってしまった。

1962年 リカルド・ロドリゲス メキシコ
フェラーリに所属していたロドリゲスだったが、チームは初開催のメキシコGP(非選手権)には参加しないことを決めた。どうしても生まれ故郷で走りたかったロドリゲスは、ロータスから出走することに。しかし、コーナーで判断を誤り――目撃者によるとスピードオーバーだったという――マシンは回転し、燃え上がった。彼は病院への搬送中に死亡。若干20歳だった。

1962年 ゲイリー・ホッキング 南アフリカ
友人の死をきっかけにこの年、オートバイのロードレースから引退を決めていたホッキングは、より安全と考えたF1に転向。しかし、デビュー戦に向けた練習中にマシンを溝にヒットさせて宙を舞い、命を落とした。

1964年 カレル・ゴダン・ド・ボーフォール ドイツ
突然暴走したマシンがコースを外れ、彼は頭と胸を強く打って2日後に死亡した。

1966年 ジョン・テイラー ドイツ
激しい雨の降りしきるニュルブルクリンク。1周目、テイラーのブラバムがジャッキー・イクスと接触。重度のやけどを負ったテイラーは5週間後に死亡した。

1967年 ロレンツォ・バンディーニ モナコ
ヌーベルシケインでコントロールを失った時は2位を走行中だった。マシンは逆さまになりながらわら俵に突っ込み、炎に包まれた。彼はマーシャルによって救出されたものの、重度のやけどと胸部損傷で3日後に亡くなった。

1968年 ジョー・シュレッサー フランス
ジョーン・サーティースに危険と評されたRA302だったが、Hondaは不屈の精神でフランスGPにエントリーを果たす。ドライバーには地元出身のシュレッサーが選ばれた。スタートから2周を過ぎ、コーナーでふくらんだマシンは土手に衝突、その衝撃で爆発した。

1969年 ゲルハルト・ミッター ドイツ
F1経験こそ浅かったものの、ミッターは他の分野では非常に優秀なドライバーだった。F2マシンのテストのためにBMWに雇われたが、ニュルブルクリンクで行われたドイツGPの予選中、サスペンションの破損によってクラッシュしてしまう。

1970年 ピアス・カレッジ オランダ
マシンのコントロールを失ってガードレールを突き破り、草地に転落、炎上して亡くなった。だが、おそらくは最初の衝突時に外れたホイールがコックピットを直撃しており、カレッジのヘルメットを吹き飛ばした時点で即死だったと思われる。

1970年 ヨッヘン・リント イタリア
亡くなった後にチャンピオンに輝いたただ一人のドライバー。リントはモンツァのファイナルプラクティス中、マシンが外周フェンスにクラッシュして大破し、亡くなった。この頃はシートベルト着用が義務づけられたばかりで、コックピット内で前方に潜り込んだ際にのどを切られたと考えられている。両足が露出するほどマシンは破損していた。現場は9年前にフォン・トリップスが亡くなったのとまったく同じ場所だった。

1971年 ジョー・シファート イギリス
F1で100戦ものスタートを経験していたベテラン。シファートはブランズハッチの非選手権レースで、乗っていたBRMのサスペンションが折れ、クラッシュして死亡した。燃えさかるマシンから脱出できず、煙を吸い込んだのが死因だった。その後の調査で、コースサイドの消化器がどれも機能していなかったことが明らかになり、これがマシン内の消化器搭載義務づけにつながった。またドライバーのヘルメットに送風システムが設置された。

1973年 ロジャー・ウィリアムソン オランダ
ウィリアムソンのマシンはパンクチャーが原因でクラッシュし、燃えだした。転覆して燃えるマシンの中で動けない彼を見て、通りかかったデビッド・パーレイがクルマを止めて救助に駆け寄り、助けを求めて叫ぶウィリアムソンのために炎と格闘した。熱のために立ちつくすだけのマーシャルを横目に、パーレイはコースを走って横断すると消化器をつかみ、必死に火を消そうとしたが、危険すぎると引き離された。消防車の到着まで8分かかり、到着時にウィリアムソンは窒息死していた。パーレイに手を貸そうと柵をよじ登ろうとした観客もいたが、警察犬に行く手を阻まれたという。この行為をたたえてパーレイにはジョージ十字勲章が授けられた。

1973年 フランソワ・セベール アメリカ
ワトキンズグレン・サーキットで行われた土曜プラクティス。将来を属望されていたセベールだったが、縁石に乗り上げてセーフティバリアに接触。スピンしながらコース反対側のゆるんだバリアに頭から落下した。体を引き裂かれるひどい状態で、彼は即死だった。ワールドタイトルを手にしていた彼のチームメイトで良き指導者であり、友人でもあったジャッキー・スチュワートはこのレースでの引退を発表していたが、結局最後のレースを戦わずに去った。

1974年 ピーター・レヴソン 南アフリカ
テスト中に起きたサスペンション破損が大きなクラッシュにつながり、レヴソンの命を奪った。彼の弟ダグラスも7年前、デンマークで起きたF3の事故で亡くなっていた。

1974年 ヘルムート・ケーニッヒ アメリカ
セベールの死から1年、またしてもワトキンズ・グレンの危険なバリアが事故を引き起こした。ターンでミスしたケーニッヒは安全柵を突き抜け、バリアに突進。しかし、勢いは止まらず、マシンが下に潜り込んでしまい、彼は首を切断されて死亡した。

1975年 マーク・ダナヒュー オーストリア
プラクティスでコントロール不能になったダナヒューのマーチは、フェンスに向かって暴走。飛び散った破片によってマーシャル1人が命を奪われたが、ダナヒューは無事だと思われていた。しかし、翌日頭痛を訴えて訪れた病院で昏睡状態に陥り、脳出血のため亡くなった。クラッシュの際にフェンスの木製ポストで頭を打っていたのだと考えられている。

1977年 トム・プライス 南アフリカ
ストップしたマシンから出たぼやを消すため、2人のマーシャルがコースを横断したところ、プライスを含む4台のマシンがコーナーに差しかかかった。前のマシンは2人目のマーシャルを寸前で回避したものの、プライスにその余裕はなく、時速272kmで彼をはねてしまった。マーシャルの抱えていた消化器が跳ね上がり、プライスの頭部を直撃。首がちぎれかけており即死だった。制御の利かなくなったマシンはそのまま暴走を続け、バリアに跳ね返されてからようやくコース上に停止した。はねられたマーシャルも遺体の損傷がひどく、レース後全員を集合させ、欠員を確認して初めて身元が判明した。

1978年 ロニー・ピーターソン イタリア
スタート直後、モンツァの第1コーナーで大きな接触事故が発生。ピーターソンは脚に重傷を負ったものの、炎の上がるマシンから3人のドライバー仲間によって引っ張り出された時には、命に別状ないように見えた。しかし、現場の混乱で路面に横たえられたピーターソンの元に救急車が駆けつけるのが遅れ、救急隊が到着したのは15分後だった。頭部外傷があったヴィットリオ・ブランビラの方が優先と判断されたため、最初に処置を施され、彼は復帰を果たしている。病院でピーターソンの合意を得た外科医は10個所に及ぶ脚の骨折を固定する手術を実施。しかしその晩、血流に乗った骨髄が折れた個所に浸入し、やがて腎不全を起こした彼は翌朝息を引き取った。

1982年 ジル・ビルヌーブ ベルギー
予選終了間際、ビルヌーブのマシンは速度を落としていたヨッヘン・マスの後部に追突し、時速224kmで飛び上がると、地面に激突、回転し、ばらばらになりながら止まった。彼の体はシートもろともキャッチ・フェンスに引っかかっているのが見つかったが、そこにヘルメットはなかった。首の骨折が致命傷だった。

1982年 リカルド・パレッティ カナダ
レース2戦目のパレッティは時速160kmでグリッド上にストールしたディディエ・ピローニに追突。胸に重傷を負った。救護班がすぐに駆けつけたが、その時満タンの燃料タンクに引火、パレッティは炎に包まれたが、防火スーツのおかげでやけどは免れている。マシンの残骸から彼を引き出すのに25分かかり、近くの病院に収容されたものの、間もなく死亡した。

1994年 ローランド・ラッツェンバーガー サン-マリノ
イモラでの予選中、フロントウイングが外れ、時速304kmでビルヌーブ・コーナーに衝突した。死因は頭蓋底骨折。実は前のラップでウイングを痛めていたのだが、最後のグリッドを争っていたために走行を続けていた。

1994年 アイルトン・セナ サン-マリノ
ラッツェンバーガーの事故から24時間後、セナは超高速コーナーでコントロールを失い、時速216kmでコンクリートウオールに激突。重度の頭部外傷のため、病院で死亡した。当局がマシンの残骸を調べたところ、折りたたまれたオーストリア国旗が出てきたという。セナが、優勝した場合にラッツェンバーガーをたたえて掲げようと準備していたものだった。この年に発生した2つの事故は、F1の安全性を大幅に見直すきっかけとなった。

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