1952年イギリスGPを終えて(アルベルト・アスカリ、ファン・マヌエル・ファンジオ、ジュゼッペ・ファリーナ) © Getty Images

フォーミュラ1(フォーミュラとはすべての関係者およびマシンに求められる一連の規則を意味し、もともとはフォーミュラAとして知られていた)のルーツはモーターレーシングが始まった初期までさかのぼり、両大戦間に上昇傾向のあったヨーロッパのレーシングシーンから誕生した。フォーミュラ1のドライバーズ選手権に関する計画は1930年代後半に議論されたものの、第二次世界大戦の開始によって棚上げされてしまう。

1946年に再び検討され、その年のうちに最初のレースを実施、翌年にはドライバーズ選手権の開催が決まった。細かな調整は1950年まで行われ、同年5月、シルバーストーンで初めての世界選手権が開催される。F1の初レースはその1カ月前にポーで行われており、この年のタイトルは20戦中7選のみがカウントされたが、チャンピオンシップは大いに盛り上がった。チャンピオンシップのレースが増えた後も、多くの非選手権のF1レースが開催されている。非選手権はコスト上昇に伴い利益が見込まれなくなった1983年まで続いた。

プライベーターが不足することはなく、ドライバーたちは自らマシンを買い、走らせている。とはいえ、アルファ・ロメオやフェラーリ、マセラッティ、メルセデス・ベンツといった自動車メーカーによる戦いが圧倒的に多かった。初代F1王者の栄光をつかんだのはジュゼッペ・ファリーナ。1950年代はファン-マヌエル・ファンジオの支配が続き、1951年に初めてのタイトルを獲得すると、1954年から1957年までドライバーズ選手権を4連覇した。5度のチャンピオンシップ制覇はすべて異なるマシンで成し遂げたものである。

F1のスタートは容易ではなかった。1952年と1953年は参戦者の不足によりフォーミュラ2のレギュレーションの下でレースが行われたのだ。いずれの年もアルベルト・アスカリがチャンピオンシップを制している。1950年は20台で争われたチャンピオンシップも、すぐさまコストの問題に直面する。開始以来、絶えず参戦し続けているのはフェラーリだけだ。さらに、レースにおける死亡者数は恐ろしい数字を残しており、最初の10年間で亡くなったドライバーは13人に上る。

マシンは相当の技術的進歩を遂げている。当初はアルファの158のような戦前のクルマが使用されており、1.5リッター過給エンジンあるいは通常の4.5リッター吸気エンジンはフロント部分に搭載され、トレッドの狭いタイヤが使われた。F1レギュレーションが改定された1954年にエンジンは2.5リッターに制限される。メルセデス・ベンツが大活躍するも、1955年にル・マンで発生した事故を受けて撤退。クーパーがリアエンジン車を導入したのは1950年代後半で、1961年まですべてのメーカーが同様のマシンを走らせた。コンストラクターズ選手権が誕生したのは1958年のことである。

スターリング・モスは一度もタイトルを手にできず"無冠の帝王"と呼ばれるが、マイク・ホーソーンのチャンピオンシップ制覇からイギリス勢の圧巻時代が到来する。1962年から1973年の間はジム・クラーク、ジャッキー・スチュワート、ジョン・サーティース、ジャック・ブラバム、グラハム・ヒル、デニス・ハルムといったイギリス系のドライバーが台頭し、ドライバーズ選手権9回、コンストラクターズ選手権10回のタイトルを数える。ブリティッシュ・レーシング・グリーンに象徴されるロータスが、それまで使われていたスペースフレーム設計に代えてアルミ製モノコックシャシーという革新的な技術を持ち込み、1968年には車体に広告を掲示するというF1の新たな境界をやぶった。

1970年のチャンピオンであるヨッヘン・リントは事故死した後に王者の称号を授かった唯一のドライバーである。ロータスでリントの後任に就き"No.1"を背負ったのは若きブラジル人ドライバーのエマーソン・フィッティパルディだった。チーム・ティレルから参戦したジャッキー・スチュワートが1971年にタイトルを獲得すると、翌年にはフィッティパルディが、さらに1年後にはスチュワートが再び王者に輝き、1974年はフィッティパルディが王冠を奪還している。

マシンは年を追うごとに速さを増し洗練されていく。1970年代前半までにはコストが急騰し、プライベーターたちの姿はほとんど見られなくなっていたが、ロータスが再び革命を起こし、グラウンドエフェクトカーという空力的に優れたマシンを導入。大量のダウンフォースをもたらすグラウンドエフェクトカーはコーナリングスピードの増加も顕著だった。技術革新はこれにとどまらず、後にターボエンジンを積んだ速く力のあるマシンも登場する。

それでも、安全性は懸念を抱えたままだった。スチュワートは1973年の最終戦アメリカGPを引退レースと位置付けていたが、その前日、かわいがっていたチームメイトのフランソワ・セベールが事故死したことを受けてレースに出走することなく、そのF1キャリアに幕を下ろしている。モンジュイック・サーキットで1975年に行われたスペインGPではロルフ・シュトメレンの駆るマシンが観客を襲い、4名が死亡する大惨事に至った。

ニキ・ラウダとクレイ・レガツォーニの起用により、フェラーリが復活を遂げる。キャリア通算3度のタイトルを手にしたラウダが初めてチャンピオンシップを制したのは1975年だった。1976年は序盤9戦で5勝を挙げる大活躍を見せるも、第10戦ドイツGPで大クラッシュ。炎に包まれる悲惨な事故で命さえ危ぶまれたにもかかわらず、驚異的な回復を見せたラウダはなんと6週間後にはコックピットに戻り、シーズン最終戦までジェームス・ハントとタイトルを争った。

グラウンドエフェクトカーの導入で再び上昇気流に乗ったロータスは1978年にマリオ・アンドレッティを王者へと導いている。アンドレッティは16戦6勝でタイトルを手にした。しかし、アンドレッティのチームメイトだったロニー・ピーターソンがモンツァで死亡。同年はロータスにとって悲劇の年でもあった。

1970年代初め、バーニー・エクレストンの手によってF1商業権の管理が再編され、F1は巨額を生み出すグローバルビジネスへと変ぼうを遂げる。1971年にはブラバムを買収してフォーミュラ・ワン・コンストラクターズ・アソシエーション(FOCA)の席を手に入れると、1978年には会長に就任。エクレストンの登場までは、それぞれサーキット所有者がF1の多くをコントロールしてきたが、チームの価値や交渉の値打ちで提携を説き伏せた。

1979年、FISA(国際自動車スポーツ連盟)が発足されてほどなく、開催地およびレギュレーションに関してFOCAと衝突。両者の関係はFOCAがレースをボイコットしてシリーズ離脱の脅威を示すほどに悪化した。1981年に和解し、コンコルド協定が結ばれている。

アラン・ジョーンズとウィリアムズがチャンピオンシップを制した翌1981年にはネルソン・ピケがアメリカGP優勝でタイトルを手中に収める。わずか1点差の接戦だった。その1年後はフェラーリのジル・ビルヌーブとディディエ・ピローニが中心となって展開されると思われたが、ゾルダーでビルヌーブが事故死。その4週間後に行われたカナダGPではピローニがスタートで立ち往生し、そこに追突したリカルド・パレッティが命を落とした。

その後、1977年に初お目見えしたターボエンジンの時代が幕を開ける。BMWと共に1983年に2度目の世界タイトルを手にしたピケに続いて、1984年のラウダの優勝からマクラーレン時代に突入、以降8年間はアラン・プロストおよびアイルトン・セナによって7度のドライバーズタイトルがもたらされている。1988年は全16戦で15勝を挙げる圧倒的な強さを見せたマクラーレン。しかしながら、プロストとセナの関係が急激に悪化していく中、翌シーズンからはターボエンジンが禁止される。

マシンの驚異的なパワーに対抗すべく、制限が導入された結果のターボエンジン禁止。1980年代は電子補助装置が導入され始め、1990年代に入るとセミオートマチックギアボックスとトラクションコントロールも採用される。ドライバーへの電子補助装置を持ち込んだのもまたロータスだった。その後の20年は、ドライバー以上に技術者の力が問われることに対抗するFIAの思いと新技術との戦いが続く。

1990年代はマクラーレン対ウィリアムズの戦いが展開され、結果、マクラーレンが合計で16度のチャンピオンシップ制覇(ドライバーズ選手権9回、コンストラクターズ選手権7回)、ウィリアムズも選手権を制すこと16回(ドライバーズ選手権7回、コンストラクターズ選手権9回)を記録した。議論を呼ぶさまざまな出来事を生んだプロストとセナの対決も、1993年のプロストの引退によって終えんを迎え、1994年にはセナがイモラで事故死する。セナの死後、F1の安全性は向上し、F1マシンをドライブしている途中に命を落としたドライバーはいない。FIAはマシンの速さを抑え、安全性の改善に取り組んでいる。

しかしながら、純粋者たちはレースがドライバーよりも技術者とデザイナーによる争いになり、また他のスポーツ同様、いくつかのチームによる支配的なスポーツになったと主張する。1984年以降2008年までの間にタイトルを獲得したのは、マクラーレン、ウィリアムズ、ルノー(元ベネトン)、フェラーリのみ。増え続けるF1のコストはビッグ4と呼ばれるチームと独立系の小規模チームとの格差を生んだ。1990年から2008年にかけてF1参入を果たし、その後去って行ったチームは28に上る。そのほとんどは、短い期間での参戦にとどまっている。

その間、F1を支配し続けたのはミハエル・シューマッハとフェラーリだ。1999年から2004年にかけてコンストラクターズ選手権を6連覇、ドライバーズ選手権を5連覇している。シューマッハは確かに才能に満ちた偉大なドライバーではあるが、その手法やスポーツマンシップにおいて高感度を下げた。また、彼の成功はF1人気にも問題を引き起こす。視聴率が低下し、新規参入を果たす者たちの活躍を阻む可能性はF1の未来への懸念へとつながった。

その一方で、コース上でのバトルの増加とコスト削減を狙うFIAがレギュレーションの改訂に着手。1950年のチャンピオンシップ開始以来認められていたものの、レース結果を操作し、数々の議論を呼んだチームオーダーが2002年に禁止された。有名なところでは同年オーストリアGPでのフェラーリの一件が挙げられる。

2000年からは自動車メーカー系のチームが力を持ち、マクラーレンは例外だが、ルノーやBMW、トヨタ、Honda、フェラーリがチャンピオンシップを支配。それらが名を連ねるグランプリ・マニュファクチャラーズ・アソシエーション(GPMA)はF1商業収入のさらなる配分を求めて交渉に乗り出した。F1はさらにグローバル化し、東洋や中東の市場で新たなレースを展開していく。

2006年のシューマッハ引退によってF1は新たな時代を迎えるが、見出しの大半は政治的な話題が占めるようになった。

ほぼ毎年のように分裂シリーズの脅威が示され、F1主要関係者のスキャンダルが発覚する昨今。2009年には2008年シンガポールGPでの八百長、いわゆる"クラッシュゲート"騒動が問題になった。ルノーのネルソン・ピケJr.がチームメイトの利益になるよう意図的なクラッシュを指示された事件は、チームを率いていたフラビオ・ブリアトーレの永久追放という結末を見たが、F1が受ける打撃はこれが最後とは言い切れない。