ベルギーGPはF1伝統レースの1つとして知られている。その大半を開催したのがスパ・フランコルシャン・サーキットだ。スパは1925年に開かれたベルギー初の国際レースの舞台であり、このときの優勝者はアントニオ・アスカリ。1952年と53年にはその息子のアルベルトが勝利を飾り、2度の世界タイトルを獲得する。1950年、7戦で行われた初の世界選手権の1つに選ばれたのは必然と言える。

スパは非常に危険なサーキットとしても知られている。1960年にはスターリング・モスが予選で重傷を負っており、クリス・ブリストウとアラン・ステイシーがレースで命を落とした。

1969年、スパでのレース開催が予定されていたが、グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション(GPDA)代表としてジャッキー・スチュワートがサーキットを訪れ、次のイベントまでに安全バリアや路面の改善を要求。サーキットの所有者がこれを実行できなかったため、イギリスとイタリアのチームが参加を拒否するという事態になった。結果、イベントの中止が4月に発表される。

スパは再びF1には危険すぎると判断された1971年、ゾルダーとブリュッセル近郊のニヴェル・ボレールでの交互開催が決定。安全は確保されたものの、ドライバーたちには不評で、特徴のないレイアウトはスパと比べると退屈な印象がぬぐえなかった。1973年のレースはゾルダー、1974年はニヴェルで開催されたが、財政難に直面していたサーキットが破綻してしまい、その後は1982年までゾルダーで開催されることになる。

1981年、再び悲劇がベルギーGPを襲った。ピットレーンでオゼッラのメカニック、ジョバンニ・アマディオがウィリアムズのカルロス・ロイテマンのマシンにひかれて死亡してしまう。また、レースのスタート直前、アロウズのメカニック、デイブ・ルケットが脚を骨折するという事故も起きた。翌年はジル・ビルヌーブの命を奪った予選中の事故が記憶に残る。1983年、舞台は再建されたスパに戻り、ゾルダーでのグランプリは翌年が最後となった。以降はスパでの連続開催となる。

ここでの最多勝記録を持つミハエル・シューマッハは1991年にスパでデビュー。翌年には優勝を飾った。

2003年はベルギーがタバコ広告規制を導入したため、カレンダー落ち。2004年、2005年と復活したが、2006年は大規模改修のため、再び姿を消した。2009年9月、またしてもスパに難問が持ち上がる。地元住民が騒音訴訟を起こし、地方最高裁はサーキットの運営許可を2026年まで取り消す判断を下したのだ。その後、11月18日に2011年3月まで運営許可が出された。

それ以降もベルギーGPは夏休み明けの1戦としてカレンダーにとどまり続ける。一時はフランスGPとの隔年開催の話が持ち上がるも、スパのファンにとっては幸運と言うべきかこの案は実現を見ずに立ち消え、2012年には新たに2013年から2015年までの3年契約を結ぶことでF1側と合意した。