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/ アラン・ジョーンズ

アラン・ジョーンズ  オーストラリア

driver portrait
F1キャリア / 戦績
Year Car Race Start Won Pod Class Best Pole Front Best Lap Hat Pts Pos
1975 Hesketh, Hill 8 8 0 0 5 5 0 0 13 0 0 2 17
1976 Surtees 14 14 0 0 10 4 0 0 14 0 0 7 15
1977 Shadow 14 14 1 2 8 1 0 0 7 0 0 22 7
1978 Williams 16 16 0 1 9 2 0 0 3 2 0 11 11
1979 Williams 15 15 4 5 8 1 3 6 1 1 1 43 3
1980 Williams 14 14 5 10 11 1 3 4 1 5 1 71 1
1981 Williams 15 15 2 6 12 1 0 3 2 5 0 46 3
1983 Arrows 1 1 0 0 0 - 0 0 12 0 0 0 -
1985 Lola 4 3 0 0 0 - 0 0 19 0 0 0 -
1986 Lola 16 16 0 0 5 4 0 0 10 0 0 4 12
Total 117 116 12 24 68 1 6 13 1 13 2 206
グランプリ サーキット 開催日
デビュー戦 スペインGP モンジュイック 1975年4月27日 レース結果
ラストレース オーストラリアGP アデレード 1986年10月26日 レース結果
プロフィール

"真面目"な人という言葉ではアラン・ジョーンズのすべてを表し切れない。ジョーンズはサー・フランク・ウィリアムズ代表とその共同チーム創設者のパトリック・ヘッドが考えるチームの方向性を、弱音や泣き言の一切を排除して具体化した人物だ。ジョーンズによってチームはF1の最前線に上り詰め、1980年に初めてのワールドチャンピオンシップ制覇を成し遂げた。"彼は男の中の男"とはウィリアムズ代表の言葉であり、女性解放運動に対するジョーンズの見解は、政治的に正しい表現が必要とされる今の世情とは折り合わないだろう。

ジョーンズの父は1959年に故郷メルボルンで行われた当時は非選手権レースだったオーストラリアGPで優勝しており、息子ジョーンズは一刻も無駄にすることなくレースの世界に飛び込んだ。最初にカートを始めたジョーンズは適齢になるとMiniやF2のクーパーで走るようになる。

キャリアアップのために1967年にイギリスに向かったジョーンズだが、この時はレース費用をねん出できず、結果的に帰国を強いられた。3年後、再度ヨーロッパへと渡ったジョーンズは同郷のブライアン・マグワイアとともに中古車を売りながらF3でのレースを続けている。

その日暮らしの生活を3年送ったものの、1973年にジョーンズの状況は好転する。ハリー・スタイラーの登場によってフォーミュラ・アトランティックにエントリーしたジョーンズは、1975年にやはりスタイラーによってF1へと導かれた。後にスタイラーがチームをたたんだ際には負傷したロルフ・シュトメレンの代役としてグラハム・ヒルのチームに拾われ、ドイツGPで5位入賞を果たした。

1976年にはF1でジョーンズの名が知られるようになったが、その理由は所属先のサーティースがコンドームメーカー『Durex(デュレックス)』の支援を受けていたからだ。ともあれ、ジョーンズはレース・オブ・チャンピオンズでは2位に入り、F1では日本GPで4位フィニッシュを果たしてシーズンベストリザルトを記録するなど活躍した。評価は高まりつつあったものの、ドライバーとオーナーの意見の相違により、ジョーンズはシーズン末にチームから放出されてしまう。1977年の序盤には事故で亡くなったトム・プライスの後任としてシャドウをドライブし、後方の14番グリッドからスタートしたオーストリアGPでトップチェッカーを受け、一気にその名をとどろかせた。

しかし、ジョーンズのキャリアが真に羽ばたいた場所はウィリアムズ。チーム独自のマシンとして初めて製作されたシャシーがデビューした1978年に、ジョーンズは幾度も際立った走りを見せた。このシーズンにはカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ(Can-Am/カンナム)にも参戦しており、ハース・ホールを駆って10レース中9回のポールポジションと5勝を達成している。

1979年はさらなる飛躍の年となり、ヘッドがペンを取ったグラウンド・エフェクトカーFW07とともにシーズンラスト5戦で4勝、ドライバーズチャンピオンシップ3位に入った。実際、タイトルの障害となったのは序盤戦の信頼性不足だけだ。

1980年はそういったミスが起こることはなく、5回の優勝を手土産にタイトルを勝ち取った。この年は計7勝を挙げたものの、オーストラリアは非選手権レースであり、スペインは選手権から除外されている。完走した11レースにおいて、ジョーンズは実に10回の表彰台フィニッシュを遂げた。

1981年の王座も十分に視野に入っていたが、チームメイトのカルロス・ロイテマンと険悪な関係になり、2勝のみでシーズンを終えている。また、3レースにおいてジョーンズはロイテマンのすぐ後ろでチェッカーを受けた。ランキングはネルソン・ピケから4ポイント、ロイテマンから3ポイント後方の3位。このシーズンをもって、ロイテマンは"この地球上で最高の国"に戻って農業を営むべくF1を退いた。

だが、決勝日には必ず身に着けていた幸運の赤い下着とともに、ジョーンズは1983年にアロウズで一度限りの復帰を果たす。さらに、1985年と1986年にはハース・ローラからフルタイムでカムバックするも、マシンの性能は低く、これを最後にF1から完全に引退した。ジョーンズはその後20年にわたり、母国オーストラリアでレースや耐久イベントに参加し続けた。

【長所と短所】

厳しいまでの率直さはチームがジョーンズから、そしてジョーンズがマシンからベストの力を引き出すことを可能にした。しかし、チームメイトを含むライバルたちとの激しい対立があまりにも多く、その才能で実現できたはずの結果につながらないことがあった。

【キャリア最高の瞬間】

ジョーンズのタイトルはシーズンの最後から2戦目で決まったが、その決意のほどは老朽化したコースを克服した上での開幕戦アルゼンチンGP優勝にすでに表れていた。ジョーンズはビニール袋がラジエーターにひっかかったり、2回ほどスピンを喫したりしながらも、ポールポジションからの勝利を守り切っている。

【キャリア最低の瞬間】

1983年アメリカGPでアロウズのドライバーとして復帰したこと。「バーベキューとフォスターズ・ラガー(豪ビールブランド)のやり過ぎ」と彼自身が言う調整不足と体重増加、そして落馬による大腿部骨折の治療中だったことが良くなかったようだ。「体調が優れない」として、ジョーンズは30周でリタイアした。

【注目のコメント】

少年時代の自身を語るアラン・ジョーンズの言葉。

「反抗的な悪ガキで、うぬぼれやの小心者」

アラン・ジョーンズ、ラストシーズンの1986年にドライブしたローラについて。

「バイクにつけた灰皿くらい役立たず」

フランク・ウィリアムズ卿

「彼と一緒にいるのは最高に楽しかった。彼はとても意思が固くて気が強いので、精神面での支えを必要としたことがない。彼をあやしたり手を握ったりする必要はなく、まさに、あるべき姿だ。私が自らドライバーに満足か尋ねたり、下着を変えなければならないか聞いたりすることがあってはならない」

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