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/ ジョディ・シェクター

ジョディ・シェクター  南アフリカ共和国

driver portrait
F1キャリア / 戦績
Year Car Race Start Won Pod Class Best Pole Front Best Lap Hat Pts Pos
1972 McLaren 1 1 0 0 1 9 0 0 8 0 0 0 -
1973 McLaren 5 4 0 0 1 9 0 2 2 0 0 0 -
1974 Tyrrell 15 15 2 6 11 1 0 2 2 2 0 45 3
1975 Tyrrell 14 14 1 3 11 1 0 1 2 0 0 20 7
1976 Tyrrell 16 16 1 5 12 1 1 3 1 1 0 49 3
1977 Wolf 17 17 3 9 10 1 1 2 1 2 0 55 2
1978 Wolf 16 16 0 4 9 2 0 1 2 0 0 24 7
1979 Ferrari 15 15 3 6 13 1 1 2 1 0 0 60 1
1980 Ferrari 14 13 0 0 9 5 0 0 8 0 0 2 19
Total 113 111 10 33 77 1 3 13 1 5 0 255
グランプリ サーキット 開催日
デビュー戦 アメリカGP ワトキンズグレン 1972年10月8日 レース結果
ラストレース アメリカGP ワトキンズグレン 1980年10月5日 レース結果
プロフィール

ジョディ・シェクターは速いが向こう見ずなレーシングドライバーとして、唐突にモーターレース界へ登場した。南アフリカで行われた初めてのナショナルレースですでに彼の行く先が表れていると言えよう。危険なドライビングで黒旗を受けたのだ。一方でそのスキルは明白であり、キャリア初期にアグレッシブさをうまく発揮できたときのギリギリの走りは向うところ敵なしだった。常連のウイナーになったことで南アフリカ・フォーミュラ・フォード選手権に進み、"ドライブ・トゥ・ヨーロッパ"の奨学金を獲得する。

機会を最大限に活用したシェクターはイギリスに渡り、大いに騒がせた。見事な勝利と派手なクラッシュは同じくらい頻繁に見られたが、たとえまだ磨かれてはいないにしても、才能は誰の目にも明らかだった。最初にそれを手なづけようとしたのはマクラーレン。欧州に渡ってわずか18カ月のシェクターにワトキンズグレンを舞台に行われた1972年アメリカGPでドライブするチャンスを与えている。

マクラーレンのF2チームと契約したシェクターは1973年のグランプリで定期的にマクラーレンのサードカーをドライブした。しかしながら、向こう見ずなところが戻ってきたときに、シェクターの成長は歩みを止める。フランスで序盤にリードしながらも、ディフェンディングチャンピオンのエマーソン・フィッティパルディと衝突し、2人そろってリタイアになってしまうと、フィッティパルディはシェクターを"狂人"だと非難した。次に参戦したシルバーストーンではオープニングラップ終盤に4番手を走っていたが、ウッドコート出口でワイドになり、スピンしつつコースを横切ってピットウオールの方へと突っ込んで後続車の進路上に戻ってくるというアクシデントを引き起こす。多くのマシンがこの巻き添えを食い、マクラーレンはシェクターの参戦が禁じられるのを避けるため、しばらくの間"休養"を取らせざるを得なかった。

復帰戦のカナダGPではレース序盤にティレルのフランソワ・セベールをリタイアに追い込んでしまう。それでも、引退する王者ジャッキー・スチュワートの後釜として1974年シーズンにシェクターと契約を結んだケン・ティレルを思いとどまらせることはなかった。同シーズン序盤3戦を無得点で終えたシェクターは明白なスピードに加えて一貫性を持つようになり、2回の勝利とそれ以外に3回の表彰台を含む、8連続入賞を決めた。再度2位に入ってワールドチャンピオンシップ制覇の絶好のチャンスをつかんだシェクターだったが、ワトキンズグレンで発生した燃料供給パイプの破損がその挑戦に終止符を打った。

翌年はそれほどの成果を上げられず、1勝と3回のトップ6リザルトを経てランキング7位。1976年は6輪のティレルP34で1度だけ優勝し、前から大きく離されたランキング3位で締めくくった。この年の終わりにシェクターはティレルの速さは十分ではないと判断し、新規チームであるウルフへの移籍を決断する。

ウルフのデビュー戦アルゼンチンGPはそれを駆るシェクター本人でさえ驚きの結果となった。予選10番手だったシェクターは、6台がリタイアした決勝レースで優勝を遂げたのだ。悩みの種は信頼性で、最終戦日本GP以外は表彰台かリタイアのどちらかというアップダウンの激しいシーズンだったが、3レースで優勝してフェラーリのニキ・ラウダに次ぐドライバーズ選手権2位に入った。1978年は冴えない結果だったものの、翌年はフェラーリへ向うことになる。

この動きは報われ、速さではしばしばチームメイトのジル・ビルヌーブが上回ったものの、より安定した走りを披露したシェクターは3勝すると同時にノーポイントのレースを3回に抑え、モンツァでフェラーリとともにワールドチャンピオンに輝いた。しかし、1980年のフェラーリは急にペースを落とし、一度は予選落ちを喫することさえあったシェクターは、たった2ポイントしか手にできずにシーズンを終えた。自らの目標を達成したシェクターは、これをもってF1を引退する。その後は銃火器の訓練システムを扱う企業を立ち上げ、同社を売却して財を成した。この資金で2人の息子のキャリアを支えたシェクターは、イギリス・ハンプシャー州に有機農業のビジネスを立ち上げている。

【長所と短所】

無謀な速さが特徴であるシェクターのキャリア初期は諸刃の剣のような存在で、印象的な走りと同じくらい失望させるレースもあった。一貫性がリザルト向上につながったものの、フェラーリ移籍前はメカニカルトラブルでのリタイアがあまりにも多く、ハードなドライビングスタイルは目的達成の助けにはならなかった。

【キャリア最高の瞬間】

予想されていなかったような効果的な関係をフェラーリと築き上げ、批判が誤りであると証明したこと。1979年、シェクターはモンツァに集ったティフォシの目の前でワールドチャンピオンの座を手にした。ミハエル・シューマッハがフェラーリに次のタイトルを届けるまで、実に21年がかかった。

【キャリア最低の瞬間】

1973年のワトキンズグレンで、プラクティス中に起こったフランソワ・セベールの事故現場に最初にたどり着いたこと。セベールが命を落としたこの事故の後、シェクターは「あの後から僕がF1でトライしているのはすべて僕の命を守ること」と認めている。

【注目のコメント】

エンツォ・フェラーリ

「このシェクターは自分の能力とポテンシャルをうまくまとめられることを証明した。最終的なリザルト、もしくは安全性を念頭におき、プランを立てる男であることを。私に確信はないが」

ジョディ・シェクター、1997年のタイトル戦でミハエル・シューマッハがジャック・ビルヌーブに負けた際に。

「ミハエル・シューマッハはドライバーズチャンピオンシップにふさわしかった。正直なところ、私はフェラーリ最後のワールドチャンピオンという記録を維持したくなかった。何の役に立ったこともないからね!」

ジョディ・シェクター、1982年に亡くなった元チームメイトのジル・ビルヌーブについて。

「ジルはモーターレースの歴史上、最速のドライバーだった。でも、僕にとってそれより重要なのは、彼は僕が知る中で一番誠実な人間だったということだ」

【トリビア】

兄のイアンも1974年から1977年にF1で20戦に参加したが、ポイントは獲得していない。イアンにとってラストレースだった1977年日本GPでは、観光ビザしか所持していなかったことに加え、日本のアパルトヘイト反対によって入国拒否され、参戦することはできなかった。

シェクターはF1史上6輪のマシンで勝利した唯一のドライバーであり、1983年に国際ユダヤ人スポーツ殿堂入りを果たしている。

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