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ニキ・ラウダ  オーストリア

  • 氏名 アンドレアス・ニコラス・ラウダ
  • 生年月日 1949年2月22日
  • 出身地 オーストリア・ウィーン
  • 年齢 69歳292日
  • チーム Brabham, BRM, March, フェラーリ, マクラーレン
  • その他 チームオーナー, チーム代表
driver portrait
F1キャリア / 戦績
Year Car Race Start Won Pod Class Best Pole Front Best Lap Hat Pts Pos
1971 March 1 1 0 0 0 - 0 0 21 0 0 0 -
1972 March 12 12 0 0 7 7 0 0 19 0 0 0 -
1973 BRM 15 14 0 0 5 5 0 0 5 0 0 2 17
1974 Ferrari 15 15 2 5 7 1 9 10 1 3 1 38 4
1975 Ferrari 14 14 5 8 13 1 9 9 1 2 0 64.5 1
1976 Ferrari 14 14 5 9 11 1 3 8 1 4 2 68 2
1977 Ferrari 15 14 3 10 12 1 2 2 1 3 0 72 1
1978 Brabham 16 16 2 7 7 1 1 1 1 4 0 44 4
1979 Brabham 14 13 0 0 2 4 0 0 4 0 0 4 14
1982 McLaren 15 14 2 3 7 1 0 1 2 1 0 30 5
1983 McLaren 15 14 0 2 5 2 0 0 9 1 0 12 10
1984 McLaren 16 16 5 9 10 1 0 0 3 5 0 72 1
1985 McLaren 15 14 1 1 3 1 0 0 3 1 0 14 10
Total 177 171 25 54 89 1 24 31 1 24 3 420.5
グランプリ サーキット 開催日
デビュー戦 オーストリアGP シュピールベルク 1971年8月15日 レース結果
ラストレース オーストラリアGP アデレード 1985年11月3日 レース結果
プロフィール

ニキ・ラウダのF1への道は勝利に満ちた物語にあらず、ヒーローのごときパフォーマンスやタイトルに彩られてもいない。それは銀行ローンと借金の積み重ねだった。しかし、一度にして前者が実現する。自己資金でミニやフォーミュラ・ヴィーを戦ったラウダは自らの生命保険を担保としてフォーミュラ2でマーチのシートを得ると、1972年には同チームのF1シートを獲得した。

マーチと過ごしたシーズンは振るわぬもので、ラウダの将来の可能性は巨額の借金で潰えたかのように見えた。1973年、BRMでシートをつないだラウダの借金は増すばかりだったが、クレイ・レガツォーニと並んで印象的な走りを見せたことで、負債を帳消しにする見返りとしてチームとさらなる2年契約を結ぶ。しかし、フェラーリに移籍したレガツォーニの推薦を受けてエンツォ・フェラーリがラウダの契約を買い上げ、借金も一掃された。

1974年のマシンは最速ではなかったが、ラウダはこのシーズンでキャリア最初の2勝を挙げ、タイトル争いにからむ。だが、いくつかの手痛いミスでランキング4位に終わった。次の年にはこのミスを繰り返すことはなく、5勝を記録してフェラーリに1964年のジョン・サーティース以来のドライバーズタイトルをもたらしている。

1976年は31ポイントのリードを築いた状態でニュルブルクリンクでのドイツGPを迎え、連続タイトルが射程に入っていた。しかしながら、乾きつつある路面でタイムロスを取り戻そうとしていたラウダは高速でコントロールを失って土手に激突し、マシンが炎に包まれた。後からきた4人のドライバーがラウダを燃えさかるマシンから救出したものの、ラウダは1度と3度の火傷に見舞われ、多くの部位を骨折。さらに肺の広い範囲にダメージを負い、ドイツの病院では司祭が臨終の儀式を執り行うほどだった。

だが、そこからさらに2レースが終了した6週間後、ラウダはモンツァで勇敢な走りを見せて4位に入賞。その身に大きな傷跡を残しながらもシーズン最後から2戦目の舞台であるアメリカでは3位に入り、ジェームス・ハントに対して3ポイントのリードを築いた状態で最終戦を迎える。タイトル決定戦となった富士の予選でハントの一つ後ろの3番手につけたラウダだったが、決勝日の激しい雨を見て走るには危険過ぎると判断してリタイアしたことにより、3位フィニッシュを果たしたハントに王座を明け渡した。ラウダの決断は非常に勇気あるものだったとの見方が大勢を占めていた一方でフェラーリはそれに同意せず、1977年のラウダはチームとの関係に苦しめられることに。3勝と2位5回をもって2レースをのこした状態で2度目のタイトルを決めたラウダはただちにフェラーリを後にした。

ラウダの移籍先はブラバムだったがマシンには競争力がなく、2年間で2勝にとどまった末、カナダGPのフリー走行を終えた時点でラウダは引退を発表し、そのままF1の世界から身を引いた。その後は自身の航空会社の仕事に努めていたラウダだったが、1982年にカムバックしてマクラーレンに加入。今度は航空会社の成長を助けるために資金を獲得している。またしても2年で2勝しか挙げられなかったものの、1984年にすべてがかみあった。フロントローに着いたことは一度もなかったものの、5回の優勝で若きチームメイト、アラン・プロストと0.5ポイント差でタイトルをさらった。これはF1史上もっともきん差での王者決定だった。

しかしながら1995年は調子が落ち込み、マクラーレンの信頼性のなさに泣かされたラウダの完走はたった3レースだった。それでもラストレースでは勝利を飾り、3度のチャンピオンとして今度こそ引退生活へ。今でもF1の世界にとどまり続けた人物としてサーキットの周辺にその姿を見せている。

【長所と短所】

ペイドライバー時代に将来の保証や頼みの綱を欠いていたことがエンツォ・フェラーリをもうならせる勤労意欲を形づくった。ラウダのアプローチとはミスから学ぶことで、キャリア序盤の1974年には数々のミスによってタイトルを逃している。

【キャリア最高の瞬間】

1974年にフェラーリとサインをかわし、ついにドライバーとしての価値を認められて借金から逃れたこと。このチームで2度のタイトルを手にしている。

【キャリア最低の瞬間】

ニュルブルクリンクでのクラッシュで生命の危機に瀕したこと。

【注目のコメント】

「人は簡単に死ぬものだということを理解し、自分の人生に折り合いをつけてその現実に耐えていかなくてはならない」

「人生にはワールドチャンピオンシップよりも大事なことがある。生きていることだ」

【トリビア】

ドイツGPでの恐ろしいアクシデントをプラスへと転じたラウダ。頭部の火傷を隠すためのキャップにスポンサーロゴをつけたのだ。

ジェームス・ハントとザルツブルグの夜を満喫した後にプライベートジェットでハントをフランスでのテストに送ったことがあったが、ハントは二日酔いに見舞われてコース脇に停めたマクラーレンの中で寝ていることしかできなかった。

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