マリオ・アンドレッティ  アメリカ合衆国

driver portrait
F1キャリア / 戦績
Year Car Race Start Won Pod Class Best Pole Front Best Lap Hat Pts Pos
1968 Team Lotus 2 1 0 0 0 - 1 1 1 0 0 0 -
1969 Team Lotus 3 3 0 0 0 - 0 0 6 0 0 0 -
1970 March 5 5 0 1 1 3 0 0 9 0 0 4 15
1971 Ferrari 7 5 1 1 3 1 0 0 4 1 0 12 8
1972 Ferrari 5 5 0 0 3 4 0 0 5 0 0 4 12
1974 Parnelli 2 2 0 0 1 7 0 0 3 0 0 0 -
1975 Parnelli 12 12 0 0 6 4 0 0 4 1 0 5 14
1976 Parnelli, Team Lotus 15 15 1 3 7 1 1 2 1 1 0 22 6
1977 Team Lotus 17 17 4 5 10 1 7 8 1 4 1 47 3
1978 Team Lotus 16 16 6 7 12 1 8 12 1 3 1 64 1
1979 Team Lotus 15 15 0 1 6 3 0 0 4 0 0 14 12
1980 Team Lotus 14 14 0 0 5 6 0 0 6 0 0 1 20
1981 Alfa Romeo 15 15 0 0 7 4 0 0 6 0 0 3 17
1982 Williams, Ferrari 3 3 0 1 1 3 1 1 1 0 0 4 19
Total 131 128 12 19 62 1 18 24 1 10 2 180
グランプリ サーキット 開催日
デビュー戦 イタリアGP モンツァ 1968年9月8日 レース結果
ラストレース ラスベガスGP シーザーズ・パレス 1982年9月25日 レース結果
プロフィール

マリオ・アンドレッティは希少な存在である。活動の場をヨーロッパへと移したアメリカ人というだけでなく、2人しかいないワールドタイトルを勝ち取ったアメリカ人ドライバーのうちの一人なのだ。もう一人のフィル・ヒルとは違い、アンドレッティは大西洋の両側で30年以上にわたってキャリアを成功させている。

イタリアからの移民として15歳でアメリカにやってきたアンドレッティはすでにレースの世界に興味を抱いており、兄のアルドと共に地元のダートオーバルでレースを開始した。1960年代初めまでにスプリントレースやストックカーのイベントで頭角を現していたアンドレッティは1964年にインディカーへと進出する。

最初のフルシーズンとなった1965年、インディ500のデビュー戦で3位に入ったことでアンドレッティの名が各紙の見出しを賑わせた。同年のタイトルを獲得してこれが偶然でないことを証明したアンドレッティは、1966年にシリーズ2位、1969年に3位(キャリア唯一のインディ500優勝はこの年)に入るも、このときにはすでにF1にも手を広げていた。1968年の終わりにロータスでデビューを飾り、ワトキンズグレンのアメリカGPでポールポジションに輝いている。

1969年から1979年にかけて継続してF1界に印象付けてきたアンドレッティだが、フルタイムでF1に専念することはなく、大西洋の行き来を繰り返していた。1970年のモナコGPでは、モンテカルロでのプラクティス後にアメリカでレースし、ただちにグランプリに間に合うようヨーロッパに戻ったものの、参戦を阻まれている。ただし、これはオフィシャルがグランプリの24時間以内に別のイベントに参戦したドライバーのレースを禁じるレギュレーションを適用したためであり、アンドレッティに思い悩む必要のあることではなかった。

1971年、アンドレッティはフェラーリでの初レースである南アフリカGPで優勝。しかし、本格的にF1に取り組もうと決心するには、1975年まで待たなくてはならなかった。パーネリで迎えた最初のフルシーズンは凡庸であり、チーム解散にともなって当時は調子が低迷していたロータスへと戻る。だが、コーリン・チャップマンがシーズン末までにチームを大きく立て直し、アンドレッティは激しい雨に見舞われた日本GPで優勝を果たした。

成功は1977年も続き、傑出したロータス78でさらに4勝を重ねるも、信頼性の問題からドライバーズチャンピオンシップでは3位にとどまっている。マシンの問題が解決した翌シーズン、アンドレッティは6勝を収めてタイトルを手中にする。しかしながら、その栄光はモンツァでの僚友ロニー・ピーターソンの死によって完全に脇に追いやられてしまう形となった。

1979年と1980年もロータスにとどまったものの、チームは再び不調に陥ってアンドレッティには1回の表彰台がせいぜいだった。1981年、アルファ・ロメオに移籍するも成果は上がらず。次の年にはF1からほぼ身を引き、亡くなったジル・ビルヌーブの代役としてフェラーリで2戦に出場して、イタリアGPでポールポジションから3位フィニッシュを果たした。

1982年にはインディカーに復帰し、1984年に4度目の栄冠を獲得する。そこからさらにインディカーでレーシングキャリアを重ね、1994年、54歳でついに引退した。その前の年に52回目にあたるインディカー最後の優勝をマークしており、40年にわたって勝利を決めた唯一のドライバーとなった。

ここへ至ってもアンドレッティにとってのレースの魅力はやまず、1995年にはル・マン24時間で2位を記録。同レースには2000年まで参加した。2003年になってもドライブの機会を狙い、息子マイケルのチームでインディ500に向けてテスト走行するが、大クラッシュをかろうじて無傷で切り抜けた。

2人の息子も実績のあるドライバーで、レーサー一家の血は2006年インディ500で2位に入った孫にも引き継がれている。

【長所と短所】

アンドレッティの残した成果を見るに、最も偉大な特質の一つは適応性にある。

【キャリア最高の瞬間】

F1では1978年のワールドタイトルを勝ち取ったこと。その後、母国に帰って44歳にして4度目のインディカー王者に輝いた。

【キャリア最低の瞬間】

これだけ長くレースをしたドライバーにしては珍しいことに、これといったものはない。

【注目のコメント】

「初めてクルマのエンジンを入れたとき、エンジンが振動し、自分の手でハンドルに生命が吹き込まれるのを感じた。私はとりこになった。何とも表現できない感覚だった。今でもレースカーに乗り込むたびにそれを感じる」

「すべてがコントロールされているように見えるなら、速さが足りないだけだ」

【トリビア】

アンドレッティはデイトナ500、インディ500、そしてF1選手権で勝利した唯一のドライバーであり、最後にアメリカGPを制した(1977年)アメリカ人でもある。

アンドレッティがアメリカ市民となったのは、同国にたどり着いてから9年後の1964年のことだった。

アニメ映画"Cars(カーズ)"にて、アンドレッティは1967年型フォード・フェアレーンのボイスを担当した。これはアンドレッティがデイトナ500で優勝した際のマシンだった。

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