ジャッキー・スチュワート イギリス
- 氏名 ジョン・ヤング・スチュワート
- 生年月日 1939年6月11日
- 出身地 イギリス スコットランド・ダンバートン
- 年齢 80歳186日
- 身長 5 ft 4 in
- 関係 弟 - J Stewart
- チーム BRM, March, Matra, Tyrrell
- その他 チームオーナー

Year | Car | Race | Start | Won | Pod | Class | Best | Pole | Front | Best | Lap | Hat | Pts | Pos | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1965 | BRM | 10 | 10 | 1 | 5 | 7 | 1 | 0 | 5 | 2 | 0 | 0 | 34 | 3 | ||||
1966 | BRM | 8 | 8 | 1 | 1 | 3 | 1 | 0 | 2 | 3 | 0 | 0 | 14 | 7 | ||||
1967 | BRM | 11 | 11 | 0 | 2 | 2 | 2 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | 10 | 9 | ||||
1968 | Matra | 10 | 10 | 3 | 4 | 8 | 1 | 0 | 4 | 2 | 2 | 0 | 36 | 2 | ||||
1969 | Matra | 11 | 11 | 6 | 7 | 8 | 1 | 2 | 5 | 1 | 5 | 1 | 63 | 1 | ||||
1970 | March, Tyrrell | 13 | 13 | 1 | 4 | 5 | 1 | 4 | 8 | 1 | 0 | 0 | 25 | 5 | ||||
1971 | Tyrrell | 11 | 11 | 6 | 7 | 9 | 1 | 6 | 9 | 1 | 3 | 2 | 62 | 1 | ||||
1972 | Tyrrell | 11 | 11 | 4 | 5 | 8 | 1 | 2 | 4 | 1 | 4 | 1 | 45 | 2 | ||||
1973 | Tyrrell | 15 | 14 | 5 | 8 | 13 | 1 | 3 | 4 | 1 | 1 | 0 | 71 | 1 | ||||
Total | 100 | 99 | 27 | 43 | 63 | 1 | 17 | 42 | 1 | 15 | 4 | 360 |
グランプリ | サーキット | 開催日 | ||
---|---|---|---|---|
デビュー戦 | 南アフリカGP | プリンスジョージ | 1965年1月1日 | レース結果 |
ラストレース | アメリカGP | ワトキンズグレン | 1973年10月7日 | レース結果 |
ジャッキー・スチュワートの名を聞いて思い浮かぶのは、優勝に次ぐ優勝を果たしたブルーのティレルだろう。そして、あのサングラスともみあげも。しかし、その一方でビジネスの実力者としての彼も浮かんでくるはずだ。
1969年、1971年、1973年の王者であるスチュワートには、素晴らしい商業的な洞察力も備わっていた。多くの友人や同世代が死にゆくのを見てきたスチュワートは、F1の安全性向上と、ドライバーたちにリスクに見合った報酬が与えられることを希望してきた。1966年ベルギーGPで、スチュワートは自分自身が反転したマシンに閉じ込められたことに気づく。そこへ燃料が漏れだすも、幸いにも引火することはなく、難を逃れたスチュワートは安全性の推進に乗り出した。
スチュワートには一流の射撃手という側面もあるが、1960年のオリンピックイギリス代表の座はあとわずかのところで逃している。兄ジミーを追ってレースの世界に入ろうと決心させたのは、この一件だったのかもしれない。理由はともあれ、レース活動を開始したスチュワートはエキュリー・エコッスで戦い始めた早い段階から特別な才能の持ち主であることを知らしめてきた。ケン・ティレルによってF3マシンを与えられると、たちまちそのチャンスを勝利へとつなげている。1965年はロータスとサインするようプッシュされていたスチュワートだが、それを断ってBRMに加入する。
F1初シーズンに優勝した経験のあるドライバーは限られているが、それをやってのけたのがスチュワートだ。8戦目のイタリアGPで表彰台の頂点に上ったスチュワートは、ジム・クラークと、僚友グラハム・ヒルに次ぐランキング3位に入った。
1966年はモナコGP制覇という最高の形で始まった。しかしながら、BRMの競争力は不足しており、ブラバム優勢の状況に。スチュワートはティレルとタッグを再結成する1968年まで次の勝利を挙げることができなかった。
スチュワートの9年のF1キャリアのうち、6年がティレルの元で費やされた。その初年度はティレル率いるマトラであり、フォードエンジンを使用して1968年に3勝を決めている。2年目の2人はさらに成功を収め、スチュワートは6勝とタイトルを手中にした。1962年に1回目の戴冠を果たしたグラハム・ヒル以来、イギリスが輩出した6人目のチャンピオンだった。
1970年はシャシーがマトラからマーチに代わるも、ロータスのヨッヘン・リントやフェラーリの2台についていくことができない。1971年はティレルシャシーでの反撃だった。オープニングラップで完ぺきなドライブ技術を発揮し、それ以降のレースをコントロールするというスタイルで、スチュワートは1971年に6勝をマークした。
翌年は4回優勝しながらも、タイトル争いではエマーソン・フィッティパルディに敗れて2位。1973年には5勝をひっさげて臨んだワトキンズグレンを自身の最終レースにするつもりだった。しかし、予選でチームメイトのフランソワ・セベールが事故死したのを受け、スチュワートはエントリーを取り下げる。それまでに積み上げた27勝(99スタート)という記録は、1987年にアラン・プロストが118回目のレーススタートから優勝を飾るまで、誰にも破られなかった。
1997年、スチュワートはF3で順調なチーム運営を行っていた兄ポールと共に新チーム、スチュワート・グランプリを結成。フォードパワーを積む同チームのマシンにはルーベンス・バリチェロとヤン・マグヌッセンが搭乗した。彼らのベストリザルトは2位だったが、1999年にはジョニー・ハーバートがニュルブルクリンクでチームに初優勝を贈っている。後にチームはフォードへと売却され、2000年にジャガーと名を改めた。
【長所と短所】
ウエットの天候で輝く技を見せるドライバーであり、どんなマシンからも最大の力を引き出すことができた。その様子は2度目のタイトルを獲得した1971年に、パワーに優る12シリンダーのフェラーリを何度も阻止したことによく表れている。
【キャリア最高の瞬間】
最も危険なサーキットの一つであるニュルブルクリンクで、ティレルに勝利を届けたこと。1968年、シーズン序盤のアクシデントによって手首に特別なギプスを施した状態で、かつ悪天候の恐ろしいコンディションで成し遂げられた偉業だった。雨で視界がほぼゼロの状況のドライラビングを振り返り、スチュワートは「歯を食いしばって戦った」と認めている。
【キャリア最低の瞬間】
100戦目にして最後のグランプリをもって、チャンピオンとしてF1を辞するはずだった栄誉の瞬間が、親しい友人であり愛弟子でもあるチームメイト、セベールの死で吹き飛んだこと。安全基準の向上に力を注いできたドライバーにふさわしからぬ、あまりに痛ましい終幕だった。
【注目のコメント】
「コーナリングは女性を絶頂に導くかのように」
「私のスポーツでは速い者が死亡者リストに載ることが多すぎる」
【トリビア】
優秀な射撃手であるスチュワートは1960年のオリンピック代表に選ばれる寸前までいくほどだった。
42歳のとき、スチュワートは自身が失読症であることを知った。
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2015年3月15日 ![]() 表彰台で勝利のシャンパンを振るハミルトン © Sutton Images |
2014年7月6日 ![]() ホーナーらと談笑するプリンス・ハリー © Sutton Images |
2014年7月6日 ![]() ヘンリー王子とスチュワート © Sutton Images |
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