ドライバー

/ ジョン・サーティース

ジョン・サーティース  イギリス

driver portrait
F1キャリア / 戦績
Year Car Race Start Won Pod Class Best Pole Front Best Lap Hat Pts Pos
1960 Team Lotus 4 4 0 1 1 2 1 1 1 1 0 6 12
1961 Cooper 8 8 0 0 4 5 0 0 4 0 0 4 12
1962 Lola 9 9 0 2 5 2 1 3 1 0 0 19 4
1963 Ferrari 10 10 1 3 5 1 1 3 1 3 0 22 4
1964 Ferrari 10 10 2 6 6 1 2 5 1 2 2 40 1
1965 Ferrari 8 8 0 3 5 2 0 3 2 0 0 17 5
1966 Ferrari, Cooper 9 9 2 4 4 1 2 5 1 3 1 28 2
1967 Honda 9 9 1 2 5 1 0 0 3 0 0 20 4
1968 Honda 12 12 0 2 4 2 1 1 1 1 0 12 8
1969 BRM 10 9 0 1 3 3 0 0 6 0 0 6 11
1970 McLaren, Surtees 11 11 0 0 4 5 0 0 5 0 0 3 18
1971 Surtees 11 11 0 0 8 5 0 0 6 0 0 3 19
1972 Surtees 2 1 0 0 0 - 0 0 19 0 0 0 -
Total 113 111 6 24 54 1 8 21 1 10 3 180
グランプリ サーキット 開催日
デビュー戦 モナコGP モナコ 1960年5月29日 レース結果
ラストレース アメリカGP ワトキンズグレン 1972年10月8日 レース結果
プロフィール

ジョン・サーティースは4輪と2輪の両方の世界で世界選手権を制した唯一の人物として歴史書にその名を刻んでいる。サーティースがF1にやってきたのは決してつかの間のことではなく、マシン内外で長いキャリアを過ごした。

イギリスのサイドカーチャンピオンに3度輝いた父を持つサーティースは、バイクのレースへ赴くことが運命づけられていた。17歳のときに初レースで勝利し、26歳になるまでに有名なイタリアチームMVアグスタとともに世界選手権を7度制している。1959年、最後のタイトルを手にするより前に、サーティースのジャンルを超えて人を魅了する才能が4輪のテストを何度か呼び込み、ケン・ティレルによってグッドウッドでクーパーのF3マシンをドライブする機会を得た。そこで印象づけたサーティースは1960年に4輪の世界に完全に移行する。

その姿に熱い目を注いでいたのがコリン・チャップマンで、1960年シーズンにロータスで4レースするチャンスをサーティースに申し出た。イギリスGPの2位で競争力を示したサーティースはポールポジションを手にしたポルトガルでファステストラップをも記録し、勝利目前に見えたものの、ラジエーターのトラブルでリタイアに追い込まれている。しかし、そこまでの活躍で引っ張りだこになったサーティースには1961年のオファーが山のように舞い込んだ。そのうちの一つが、ジム・クラークのパートナーにというチャップマンからのオファーだったが、サーティースの結論はクーパーだった。しかし、この移籍は表彰台にはつながらず、サーティースは1962年にロータスへ向かうことになる。これで状況はいくらか改善したものの、レース優勝には至らず、サーティースはランキング4位でこの年を終えた。

それでもイタリアでの評判は依然高く、エンツォ・フェラーリがサーティースと1963年シーズンの契約を結ぶ。両者のパートナーシップは初年度から有望な兆しを見せ、サーティースはニュルブルクリンクで初めてグランプリ優勝を果たし、他にも2度表彰台に上っている。しかしながら、タイトルをかけてジム・クラークに挑戦することはできず、ラスト4戦中3戦でリタイアしたのに加え、残る1レースでは押しがけによって失格処分を科された。

翌年の幕開けもうまくいかず、序盤4戦中3レースでリタイアを喫した。しかしながら、再びドイツGPで飾った見事な勝利がサーティースのチャレンジを後押しする。イタリアGP優勝に加えて2回表彰台に上ったことで、1964年最終戦にはチャンピオンシップリーダーであるグラハム・ヒルの5ポイント後方、かつ、3位クラークに4ポイント差をつけた状態で挑む。決勝レースではヒルがサーティースのチームメイトであるフェラーリのロレンツォ・バンディーニに追突され、クラークがラップリーダーでサーティースが3位という状態になった。そのままであればタイトルはクラークの手中にあったはずだが、ファイナルラップでクラークのエンジンがブローして5位に終わったため、2位フィニッシュを遂げたサーティースがワールドチャンピオンになるための要件を満たした。

その成功にもかかわらず、コース上で感情を切り離すのに苦戦するサーティースは、議論屋の気質がわざわいして問題を起こす可能性を秘めていた。いまひとつ競争力がふるわなかった1965年、サーティースはカンナム(CanAm)のプラクティス中に生命をおびやかす重症を負う。さらに、翌年のル・マンで自分の意に反してルドヴィコ・スカルフィオッティと組むことを強いられると、サーティースはフェラーリをやめて残るシーズンをクーパーで送った。ジャック・ブラバムに挑戦することはできなかったものの、メキシコで表彰台の頂点に上ったサーティースは選手権2位でその年を締めくくった。

1967年にサーティースが選んだのはHondaのチャレンジだった。モンツァで優勝を決め、フェラーリに対する溜飲を下げたサーティース。しかしながら、ルーアンで開催されたフランスGPにHondaからスポット参戦したジョー・シュレッサーが事故死した1968年を最後に、同チームは第1期のF1活動を終了してしまう。翌年をBRWで失意のうちに過ごしたサーティースは、自身のチームを立ち上げるという決断に至った。

結果がともなわないまま2年が経過した後、サーティースは競技から身を引いてフルタイムでチームを監督する役割を担った。だが、モンツァでマイク・ヘイルウッドが2位に入ったのがベストリザルトで、優勝には手が届かない。カンナムのクラッシュの影響で健康上の問題を抱えるサーティースの状態もかんばしくなく、チームは1978年にその歴史を閉じた。

【長所と短所】

激しいドライビングと競争力の高さ、そして多様な能力を持ったサーティースは、ほとんどのマシンと状況を最大限に活用することができた。強い独立心と自己向上の欲求は障害になることもあり、フェラーリとの苦い別離はタイトルが可能なマシンとの決別につながっている。

【キャリア最高の瞬間】

1964年のチャンピオンシップをシーズン最終戦メキシコGPで手にしたこと。このグランプリのファイナルラップで、タイトルを目前にしていたジム・クラークのエンジンにトラブルが発生した。

【キャリア最低の瞬間】

身体的にはオンタリオでカンナムのテスト中にクラッシュを喫したこと。精神面では、自身の名を冠したマシンでレースに勝利できなかったこと。成功に慣れた男にとって、落胆の結果だった。

【注目のコメント】

「一貫性をもたらすリラックスしたドライビングのために必要なすべては、練習でしか得られない」

フェラーリチームマネージャー、エウジェニオ・ドラゴーニとの難しい関係について。

「(マシンとエンジンは)プラクティスでものすごく感触が良かったけれど、それはある意味でドラゴーニのお気に召さなかった。彼が僕に最も望んでいないのは、ポールを取ることたったのさ!」

「私はちょっとどうかしていた」

【トリビア】

大英帝国勲章のMBE(メンバー)を授与されていたサーティースは、2008年にOBE(オフィサー)に叙された。

F1とバイクの両方でワールドタイトルを手にしたのはサーティースだけだ。

サーティースの息子ヘンリーも父の足跡を追ってモーターレースの世界に飛び込んだ。しかし、その行く手に待ち受けていたのは悲劇で、2009年7月20日、ブランズハッチでF2のレース中に他のマシンから脱落したホイールの直撃を受けて命を落としている。享年18だった。

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