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/ グラハム・ヒル

グラハム・ヒル  イギリス

  • 氏名 ノーマン・グラハム・ヒル
  • 生年月日 1929年2月15日
  • 出身地 イギリス ロンドン・ハムステッド
  • 没年月日 1975年11月29日 (46歳287日)
  • 死亡場所 イギリス ハートフォードシャー・アークリー
  • 関係 息子 - D.ヒル
  • チーム Brabham, BRM, Hill, Lola, Shadow, ロータス
driver portrait
F1キャリア / 戦績
Year Car Race Start Won Pod Class Best Pole Front Best Lap Hat Pts Pos
1958 Team Lotus 9 9 0 0 2 6 0 0 12 0 0 0 -
1959 Team Lotus 7 7 0 0 2 7 0 0 5 0 0 0 -
1960 BRM 8 8 0 1 2 3 0 3 2 1 0 4 15
1961 BRM 8 8 0 0 3 5 0 1 2 0 0 3 16
1962 BRM 9 9 4 6 9 1 1 7 1 3 0 52 1
1963 BRM 10 10 2 5 7 1 2 8 1 0 0 29 2
1964 BRM 10 10 2 5 8 1 1 5 1 1 0 41 2
1965 BRM 10 10 2 6 9 1 4 6 1 3 2 47 2
1966 BRM 9 9 0 3 4 2 0 0 4 0 0 17 5
1967 Team Lotus 11 11 0 2 3 2 3 6 1 2 0 15 7
1968 Team Lotus 12 12 3 6 8 1 2 4 1 0 0 48 1
1969 Team Lotus 10 10 1 2 7 1 0 2 3 0 0 19 7
1970 Team Lotus 12 11 0 0 5 4 0 0 8 0 0 7 13
1971 Brabham 11 11 0 0 5 5 0 0 4 0 0 2 21
1972 Brabham 12 12 0 0 8 5 0 0 13 0 0 4 15
1973 Shadow 12 12 0 0 6 9 0 0 16 0 0 0 -
1974 Lola 15 15 0 0 12 6 0 0 15 0 0 1 18
1975 Lola, Hill 4 2 0 0 2 10 0 0 20 0 0 0 -
Total 179 176 14 36 102 1 13 42 1 10 2 289
グランプリ サーキット 開催日
デビュー戦 モナコGP モナコ 1958年5月18日 レース結果
ラストレース モナコGP モナコ 1975年5月11日 レース結果
プロフィール

確固たる決意と情熱を持ち、記録破りでユーモラス。グラハム・ヒルはこのスポーツを代表する大使として完ぺきな人物だ。それ以上にグラハムを物語るのはF1世界選手権、インディ500,ル・マン24時間レースの三大レースをすべて制した唯一のドライバーであること。

才能というより努力の人だとよく言われるが、そんなグラハムが自動車免許を取得したのは24歳のときである。同年、グラハムはブランズハッチのレーシングスクールに参加し、レースの魅力にとりつかれた。

すぐに同スクールのメカニックとして働き始めたグラハムは給与をもらう代わりにスクールのマシンを使ってレースに参戦。その中で、コーリン・チャップマンに出会い、ロータスのメカニックとなったグラハムは1956年に自らが乗り込むロータスマシンを組み上げ、1958年にはワークスドライバーに就任、モナコでグランプリデビューを果たしている。デビュー戦では4番手を走りながらもホイールの脱落によりリタイアを喫した。その後、記念すべきデビューの地でグラハムは5勝という輝かしい記録を残している。

チャップマンのロータスマシンの脆弱性に嫌気がさしたグラハムは1960年にBRMへと移籍し、ザントフォールトで3位に入る。2年目は精彩を欠いたものの、1962年には新しいV8エンジンと共にオランダ、ドイツ、イタリアで勝利を挙げ、南アフリカの最終戦でジム・クラークとの対決へ。最初はクラークがリードするも、ロータスマシンにトラブルが発生した際にグラハムが優勝とタイトルの両方を手にした。

1963年から1965年にかけては、それぞれクラーク、ジョン・サーティース、そしてまたクラークに次ぐ選手権2位となったグラハム。1964年は総得点でサーティースを上回っていたにもかかわらず、10戦中ベスト6戦のポイントのみが選手権の対象となったため1ポイント差で敗れる苦いシーズンを味わった。

グラハムは1966年のインディ500で勝利を収めているが、これには悠々とリードを保っていたジャッキー・スチュワートにテクニカルトラブルが発生するという運の要素もあった。新たな3リッター時代が幕を開けた1966年を不調の内に終えたグラハムはクラークのチームメイトとしてロータスへ移籍。1967年にクラークがきん差でデニス・ハルムにタイトルを奪われたとは言え、ロータス49コスワースは有望なマシンだった。

1968年、クラークは南アフリカで優勝して好調なシーズンスタートを切ったが、F2のレースで事故死。その死はチャップマンを深く傷つけたものの、グラハムがスペインGPの勝利をもってチームを立て直した。マトラのスチュワート、マクラーレンのハルムと三つ巴のタイトル争いを演じたグラハムは最終戦メキシコGPを制して2度目のタイトルを手にしている。

1969年のグラハムは僚友ヨッヘン・リントに後れを取っていた。同年のワトキンズ・グレンではスピンを喫した際にシートベルトが外れてしまい、締め直すことができないまま再スタートするも、クラッシュして投げ出され、足を骨折してしまう。やがてレース復帰したグラハムだったが、かつての速さを取り戻すことはなかった。

それでも1972年にル・マンでマトラを駆って優勝するなど、1975年の半ばまで戦いを続けていたグラハムは、チームマネジメントに集中すべく引退を決意。しかし、ポールリカールから引き上げる道すがら自ら操縦した飛行機で、エルストゥリー飛行場へのアプローチ中に木に衝突して墜落。この悲劇で弟子のような存在であったトニー・ブライズ、チームマネジャー、デザイナー、2人のメカニックが共に亡くなった。

【長所と短所】

一般的なイメージとは対照的に、レースが近付いたときのグラハムはぶっきらぼうで、細かいことにうるさい完ぺき主義者だった。その成功は真のハードワークから成されたものであり、ジム・クラークやジャッキー・スチュワートら天才肌と言われる偉大なライバルたちとの比較に苦しむことに。それでもやはりグラハムは人気のあるドライバーであり、素晴らしいチームリーダーにして、自分の持つ才能をすべて絞り出した人物だった。

【キャリア最高の瞬間】

ジム・クラークを失ったロータスが動揺に包まれている頃、あまりに衝撃を受けたチーム代表のコーリン・チャップマンはスペインGPに姿を見せないほどだった。グラハムはそのパーソナリティから来る意志の力でチームをほぼ独力でまとめあげ、レースで優勝を決める。このリザルトがロータスを絶望の淵から救い出し、グラハム自身の2度目のタイトルにつながることにもなった。

【キャリア最低の瞬間】

グラハムは何度も大アクシデントを起こしている。ただ、そのいくつかは次第に競争力を失っていくマシンで攻めすぎたせいだと言えるだろう。キャリアの結末は、悲しくもグラハムが最も成功を収めたモナコでやってきた。自身のチームのマシンを駆って予選すら通過できなかった1975年モナコGPがグラハムのラストレース。決してあきらめない男、グラハムでさえ、自分の時代が終わったことを自覚したのだ。

【注目のコメント】

「私はアーティスト。サーキットは、わがカンバス、マシンはわが絵筆」

1962年、スターリング・モス

「彼は将来のドライバー像の原型だ。緻密でスムーズ、知識がある。グラハムはまさにその外見のように洗練されている」

【トリビア】

モーターレースの世界に入る前に熱心なヨット選手だったグラハムはロンドン・ロウイング・クラブに所属し、名高いヘンリー・ロイヤル・レガッタにも出場している。

ドライバーとしてキャリアをスタートさせた頃、グラハムは節約のためにしばしば道路脇にある干し草の山で寝ていた。

また、グラハムは障害者用の3輪の車を危険だと考え、否定的な見解を示している。

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1975年12月5日

1975年8月19日

グラハム・ヒル

1969年10月5日

ジャッキー・スチュワートとグラハム・ヒルの前を行くヨッヘン・リント

     

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