スターリング・モス  イギリス

driver portrait
F1キャリア / 戦績
Year Car Race Start Won Pod Class Best Pole Front Best Lap Hat Pts Pos
1951 HWM 1 1 0 0 1 8 0 0 14 0 0 0 -
1952 HWM, ERA, Connaught 5 5 0 0 0 - 0 0 9 0 0 0 -
1953 Connaught, Cooper 4 4 0 0 3 6 0 0 9 0 0 0 -
1954 Maserati 6 6 0 1 2 3 0 4 3 1 0 4.14 13
1955 Mercedes 6 6 1 3 5 1 1 5 1 2 1 23 2
1956 Maserati 7 7 2 4 5 1 1 4 1 3 0 28 2
1957 Maserati, Vanwall 6 6 3 3 5 1 2 5 1 3 0 25 2
1958 Cooper, Vanwall 10 10 4 5 5 1 3 7 1 3 0 41 2
1959 BRM, Cooper 8 8 2 3 3 1 4 6 1 4 1 25.5 3
1960 Cooper, Team Lotus 6 5 2 3 4 1 4 4 1 2 0 19 3
1961 Team Lotus, Ferguson 8 8 2 2 4 1 1 2 1 1 1 21 3
Total 67 66 16 24 37 1 16 37 1 19 3 186.64
グランプリ サーキット 開催日
デビュー戦 スイスGP ブレムガルテン 1951年5月27日 レース結果
ラストレース アメリカGP ワトキンズグレン 1961年10月8日 レース結果
プロフィール

しばしば無冠の帝王と称されるドライバースターリング・モス。これについては議論のあるところだが、長年にわたってモスに劣るドライバーたちがタイトルを手にしてきたことは確かだ。ドライバーがあらゆる仕事をしなければならない時代、11年間のキャリアにおいて数人の偉大なドライバーたちと時を共にしたが、モスはその中でも傑出していた。

モスは18歳のときに地元のヒルクライムに参加し、1949年に本格的なレースの世界へ。フォーミュラ3での成功がHWMのフォーミュラ2チームのシートにつながった。それから2年のうちにF1の伝説的なドライバーたちとバトルを演じ、スポーツカーでも活躍している。

F1での初期キャリアは振るわなかったが、おもな理由はモスがイギリスのマシンを駆っていたこの頃がイタリア車全盛の時代だったことに起因する。1954年には終戦後はじめてF1に戻ってきたメルセデスへの移籍話があったものの、コンペティティブなマシンで能力を示すべしとの示唆と共にチームから門前払いを食らい、それを念頭にモスはマセラティのマシンを購入した。

マセラティで戦った翌シーズンは落胆に終わったものの、モスにとっての初戦ベルギーGPで3位に入ったことがメルセデスの目にとまり、1955年は同チームでファン・マヌエル・ファンジオのチームメイトを務めることに。巨匠と若き弟子のコンビはそこから大きく花開いていった。モスはエイントリーで開催されたイギリスGPで優勝するも、これについてはファンジオがモスの先行を許したか否かの議論が今日までも続いている。モスがこのシーズンをランキング3位で終えた一方、ファンジオは生涯に記録した5度のタイトルのうち3度目を達成した。また、この年には非常に厳しいことで知られるミッレ・ミリアでモスが勝利を収めている。

しかしながら、メルセデスがル・マンの悲劇を受けてレース界から身を引いたため、1956年のモスはマセラティへの出戻りを強いられた。2勝を挙げたモスはファンジオに次ぐ2位でこのシーズンを締めくくっている。

1957年にモスがイギリスチームに戻る頃には英国勢の競争力が増大。ヴァンウォールで3勝を追加したモスだが、それにもかかわらずチャンピオンシップでは再度ファンジオに敗れてしまう。

ファンジオが引退した1958年はモスに勝利への扉が開かれたかに見えたが、4度の勝利を決めてもなお戴冠には1ポイント足りず、たった1度しか優勝していないマイク・ホーソーンの次点に終わる。シーズン最終戦モロッコGPでの事故が元でモスの僚友であるスチュワート・ルイス・エバンスが亡くなったためにヴァンウォールはレース界からの撤退を選び、モスは再び新たな移籍先を探さなければならなかった。

1959年と1960年はクーパーを中心にさまざまなマシンをトライブでし、両年のモナコGPで優勝。しかし、1960年ベルギーGP予選でクラッシュを喫してこの週末を含む3戦の欠場を余儀なくされた。ベルギーGP決勝では他に2名のイギリス人ドライバーが事故で命を失っている。

ルールが変更された1961年はフェラーリ優勢のシーズンとなり、イギリス勢は不意をつかれた形に。しかし、モスはモナコGPで際立ったスキルを見せ、パワーで劣るモスのロータスがフェラーリトリオを抑えきって優勝を飾る。高速のサーキットではそのモスでさえも苦戦したものの、ニュルブルクリンクで開かれた第6戦ドイツGPで2度目の勝利が訪れた。この年のチャンピオンシップで3位となったモスは、ここまで7シーズンで4回の2位に続く3回の3位という記録を残した。

1962年にはエンツォ・フェラーリがモスを迎えるためにどんなマシンでも用意しようとオファーしていた。しかし、4月にグッドウッドで開催された非選手権レースで大クラッシュを喫したモスは重傷を負う。1カ月の昏睡におちいり、その後1年間はゆっくりと回復に努めたモス。しかし、12ヶ月後にグッドウッドでひさびさのドライブに臨んだところ、すぐにピットへ戻ってくるとそのまま引退を表明した。この引退について、これまで自然にできたことに意識的な決定が必要になり、それでは十分ではなかったとモスは説明している。このときモスはまだ32歳で、同い年のグラハム・ヒルは6年後には2度目のタイトルを獲得した。

引退を強いられたことで、どちらかと言えばモスの名はさらに有名になり、コメンテーターや作家、セレブリティとしての人気が高まった。最後にレースをしてからほぼ50年間にわたり、モスは人気のある活気にあふれた人物としてよく知られている。

また、モスは初めて自身の商業的な価値を認識したドライバーの一人でもある。きっぱりとした態度でドライブの交渉に臨み、心をこめて自分を売り込むことで、その価値を巧みに活用した。彼はこれをドライビングに支障をきたすことなくやってのけた。

【長所と短所】

モスはF1に加えてさまざまなモータースポーツで秀でた才能を見せ、メジャーイベントで勝利を決められなかったのはほぼル・マン24時間だけだった。どんなマシンからでも最大の力を引き出す能力を有し、常にドライブできる状態を整えていた。

【キャリア最高の瞬間】

巨額の予算と優れたテクノロジーを備える強力なフェラーリ勢に対してモナコで勝利を挙げたこと。小規模で旧式、さらに動力も不足していたロータスマシンのサイドパネルは、モスが涼をとるために取り払われていた。モスはレースを通して入れ替わり立ち替わり攻めかかってくる3台のフェラーリを力量と経験のすべてを用いてしのいでいる。『Gurdian(ガーディアン)』紙は「他のイギリス、もしくは外国ドライバーがこの攻撃を打ち破ることができたかどうかは疑わしい」と記している。

【キャリア最低の瞬間】

キャリアに終止符を打ったクラッシュを別として、1960年ベルギーGPはモスのみならずイギリスのモータースポーツ界にとって痛ましい週末だった。モスは土曜日にリアタイヤの片方が脱落して激しいクラッシュを喫し、複数箇所を骨折。その後シーズンの大部分を欠場している。翌日にはクリス・ブリストウとアラン・ステイシーがレース中の事故で命を落とした。

【注目のコメント】

「外国のクルマで勝利するより、イギリスのクルマで栄誉ある敗北の方がいい」

「神がわれわれに歩かせるつもりだったというなら、なぜペダルに合う足を造りたもうたのだ?」

「男には下手だと認めたくないことが2つある。運転とセックスだ」

エンツォ・フェラーリ 「君が必要だ。何でも欲しいマシンを言ってくれ。6カ月でそれを用意しよう」

【トリビア】

モスの父で歯科医のアルフレッドは1924年インディ500で16位に入っている。

ノート

2000年、モータースポーツへの貢献が認められてモスにナイトの称号が授けられた。

サー・スターリング・モスのキャリアを振り返るギャラリーはこちらから

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