ロス・ブラウン  イギリス

driver portrait
プロフィール

ロス・ブラウンは多くのチームを数々のコンストラクターズタイトルやドライバーズタイトルに導いてきたが、2009年に自分の名を冠したマシンで成し遂げた選手権制覇が何よりも甘美なものだったろう。

ブラウンがマーチ・エンジニアリングでモータースポーツのキャリアを歩み始めたのは1976年のことで、後にウィリアムズへと移っている。当初はマシニストとして雇用されたものの、その才能はたちまち認識され、マーチ・エンジニアリングのF3チームでレースエンジニアとなった。1979年には再びマシニストとして新たに形作られたウィリアムズに加わり、すぐに研究開発部門に迎えられる。

ハース・ローラとアロウズでの短い期間をはさみ、ジャガーではスポーツカーレースでの開発に挑んだ。ブラウンが取り組んだジャガーXJR-14でチームは1991年にスポーツカー選手権のタイトルを手にする。同じ年、ブラウンはベネトンのテクニカルディレクターとしてF1の世界に戻ってきた。ブラウンの指揮の元、チームはミハエル・シューマッハと共に1994年と1995年に連続してドライバーズチャンピオンシップを制し、1995年にはコンストラクターのタイトルも獲得。高いスキルを持つ技術者であるだけではなく、優れた戦略家としてもブラウンは名を馳せた。

シューマッハが1996年にチームを去ってフェラーリへ向かうと、ブラウンもそれに続いた。ブラウンは苦戦のさなかにあったイタリアの名門の再建に寄与し、1999年からのコンストラクターズタイトル6連覇に導いている。2006年10月、フェラーリはチームの他のメンバーが開発する余地を持つことができるように、ブラウンが1年のサバティカルをとることを発表。しかし、ブラウンが戻ってくることはなかった。翌年の11月、ブラウンはHonda F1チームの代表に就くことを明らかにし、2008年にホンダがF1を撤退まで同チームに所属した。

しかし、その冬はブラウンにとっても、ドライバーのルーベンス・バリチェロやジェンソン・バトン、そしてブラックリーの本拠にいる何百人もの人々にとっても事態がはっきりしない状態が続いた。誰もがシーズン開幕戦にさえ行けるか確信できない状況でチームに2009年型マシンの開発を続けるモチベーションを維持させたのは、ブラウンの管理能力の証だろう。

シーズンが開幕する2009年3月、ブラウンはチームの引き継ぎを完了し、メルセデスエンジンを確保してブラウンGPが誕生した。チームメンバーの信念とハードワークは、バトンが開幕から7戦で6勝を挙げたことですぐに報われている。混戦となったシーズン後半では、最後から2戦目のブラジルGPでバトンが10人目のイギリス人ワールドチャンピオンとなり、ブラウンGPもコンストラクターズチャンピオンシップの栄冠を手にした。チームは参戦初年度で両タイトルを制覇するという信じがたい偉業を成し遂げたのだ。

2009年11月16日、ブラウンと他の株主たちはチームの経営権をメルセデスに売却し、その将来を長く安泰なものにした。ブラウンはシューマッハとの強力タッグを再現、2010年からのシューマッハ復帰でチームに経験とスポンサーシップの両方がもたらされている。

しかしながら、数カ月にわたる不確実さと発表まで続いたタイトル争いによって、2010年のマシンには再び勝利するのに十分なだけのリソースが注ぎ込まれなかった。さらに、シューマッハが苦戦する中でメルセデスはポイントの大部分をニコ・ロズベルグに頼っている。

続く2年間も苦闘の中で過ごしたメルセデスだが、2012年日本GPの前にはシューマッハに代わってルイス・ハミルトンがチームに加入することが明らかに。ブラウンにとってこの契約が持つ意味は大きく、2020年までチームをF1にとどめるべく、メルセデスの役員会に新たなコンコルド協定へのサインを説得する一助となった。

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