ペドロ・デ・ラ・ロサ スペイン
- 氏名 ペドロ・マルティネス・デ・ラ・ロサ
- 生年月日 1971年2月24日
- 出身地 スペイン・バルセロナ
- 年齢 42歳115日
- 身長 1.77 m
- 体重 74 kg
- チーム フェラーリ, Arrows, HRT, ザウバー, ジャガー, マクラーレン
| Year | Car | Race | Start | Won | Pod | Class | Best | Pole | Front | Best | Lap | Hat | Pts | Pos | ||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1999 | Arrows | 16 | 16 | 0 | 0 | 5 | 6 | 0 | 0 | 18 | 0 | 0 | 1 | 18 | ||||
| 2000 | Arrows | 17 | 16 | 0 | 0 | 6 | 6 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 2 | 16 | ||||
| 2001 | Jaguar | 13 | 13 | 0 | 0 | 7 | 5 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 3 | 16 | ||||
| 2002 | Jaguar | 17 | 17 | 0 | 0 | 8 | 8 | 0 | 0 | 8 | 0 | 0 | 0 | - | ||||
| 2005 | McLaren | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | 0 | 8 | 1 | 0 | 4 | 20 | ||||
| 2006 | McLaren | 8 | 8 | 0 | 1 | 6 | 2 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 19 | 11 | ||||
| 2010 | BMW Sauber | 14 | 13 | 0 | 0 | 7 | 7 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 6 | 17 | ||||
| 2011 | Sauber | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 12 | 0 | 0 | 17 | 0 | 0 | 0 | - | ||||
| 2012 | HRT | 20 | 19 | 0 | 0 | 15 | 17 | 0 | 0 | 20 | 0 | 0 | 0 | - | ||||
| Total | 107 | 104 | 0 | 1 | 56 | 2 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 35 |
| グランプリ | サーキット | 開催日 | ||
|---|---|---|---|---|
| デビュー戦 | オーストラリアGP | アルバート・パーク | 1999年3月7日 | レース結果 |
| ラストレース | ブラジルGP | インテルラゴス | 2012年11月25日 | レース結果 |
ペドロ・デ・ラ・ロサは1999年からF1に参戦しているが、2009年までにフル出場したのは3シーズンだけだった。今や、F1界で最も経験豊富なテストドライバーの1人に挙げられ、シーズン中のテストが禁止された2009年までの段階で、マクラーレンのウイニングカーを駆ってテストした距離数は数え切れないほどの記録になっている。
1983年に始めたラジコンカーをきっかけにモータースポーツに興味を持ち、17歳でカートへ進んだデ・ラ・ロサ。スペイン・フォーミュラ・フォードからスタートし、スペイン・フォーミュラ・ルノーで優勝、イギリスF3に2年間参戦するなど、フォーミュラ・シリーズで着実にステップアップしてきた。
そんなデ・ラ・ロサは日本に渡った1995年に頭角を現す。初参戦で日本のF3選手権を制覇、2年後にはフォーミュラ・ニッポン(F3000に相当する)のタイトルを獲得した。
1998年にジョーダンでテストドライバーを務めたのがF1へのチャンスとなり、1999年、アロウズのレースシートを確保してF1デビューを果たす。デビュー戦となる開幕戦でポイントを獲得したが、その後は伸び悩み、ポイントをマークするほどの結果を残すことはなかった。2000年もアロウズから参戦したが、2ポイントを獲得しただけで、苦戦のシーズンを過ごしている。
テストドライバーとしてジャガーに移籍した2001年は開幕から4戦後にルチアーノ・ブルティと交代、レースに参戦することになる。フォード傘下のチームは勝利に対する期待が高かったが、マシンは決してパーフェクトとは言えず、前年より1点多い3ポイントの獲得にとどまった。2002年もジャガーから参戦したが、成績は右肩下がり。半分以上のレースでリタイアし、ポイントを獲得することはなく、チームメイトのエディー・アーバインに大きな差をつけられた。
その後3年間はマクラーレンのテストドライバーとして活動、1度だけグランプリに出走している。チームには重宝されていたものの、デ・ラ・ロサ自身はレースドライバー復帰を切望していた。そのチャンスが2006年に訪れる。アメリカGPでチームメイトのキミ・ライコネンに衝突したファン-パブロ・モントーヤがチームを離脱、デ・ラ・ロサが残りの8レースでコックピットに収まることになったのだ。ライコネンの比ではなかったが、初めて表彰台にも上り、19ポイントを獲得。これは自己最高のスコアである。
2007年もマクラーレンのレースドライバー続投の可能性はあったが、ロン・デニスはデ・ラ・ロサではなくルーキーのルイス・ハミルトンを起用することに決めた。以来、再びチームのテストドライバーを務めているが、その一方で、チームのエンジンサプライヤーであるメルセデスとの関係上、フォース・インディアにも関わってきた。
2010年に先だって、新規参入組への移籍を含め、さまざまなうわさが流れる。年が明けてしばらくすると、小林可夢偉のチームメイトとしてザウバーのレースドライバーを務めることが発表された。しかしながら、チームの期待に応えられないリザルトが続いたためにシンガポールGPでニック・ハイドフェルドと交代、その後はピレリでテストドライバーの任に就く。
翌年は古巣マクラーレンのテスト兼リザーブドライバーとなり、カナダGPでは負傷したザウバーのセルジオ・ペレスに代わって急きょレースに参戦。テストドライバーとしてのキャリアが長いベテランだが、2012年はHRTで再びレースドライバーに起用されている。
残念ながら、そのHRTは破滅の危機に直面し、2012年シーズン末に売りに出されたものの、買い手がつかないままFIAの2013年エントリーリストから姿を消した。しかしながらデ・ラ・ロサの経験は需要が高く、フェラーリがいち早くシミュレーターでの開発ドライバー兼リザーブドライバーとしてデ・ラ・ロサを獲得している。
【長所と短所】
一貫性と経験の豊富さはピカイチ。その開発能力は高く評価されているが、根本的なペース不足が課題のひとつ。
【キャリア最高の瞬間】
ウエットレースとなった2006年のハンガリーGPで2位表彰台に上り、適したマシンで参戦すれば力を発揮できるところを証明したこと。
【キャリア最低の瞬間】
スパイゲート騒動の渦中、フェラーリの技術データをメールで送信していることが発覚。チームは1億ドル(当時115億円)の罰金を科せられた。
【注目のコメント】
「レギュラードライバーでなくても、マクラーレン・メルセデスに加われることはとても嬉しいし、単純に別のチームでレースに参戦できることも嬉しい。そういったレース参戦をアレンジしてもらえることも嬉しく思っている」
「スポンサーがいればすべてがはるかに楽だろうけれど、自分にとってはF1での経験がとても大切なんだ。そして、その経験こそが自分にとってのスポンサーだと思っている」
【トリビア】
趣味はラジコンのヘリコプターを組み立てて飛ばすことである。
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2013年2月8日 ピットレーンを進むデ・ラ・ロサ © Sutton Images |
2013年2月8日 煙を吐くマシンの横にたたずむデ・ラ・ロサ © Getty Images |
2013年2月8日 煙の中でマシンを止めたデ・ラ・ロサ © Getty Images |
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