ジャック・ビルヌーブ カナダ
- 氏名 ジャック・ジョセフ・シャルル・ビルヌーブ
- 生年月日 1971年4月9日
- 出身地 カナダ ケベック州サン・ジャン・シュール・リシュリュー
- 年齢 42歳40日
- 身長 1.68 m
- 体重 67 kg
- 関係 お父さん - G.ビルヌーブ , 叔父さん - J Villeneuve snr
- チーム BAR, BMWザウバー, ウィリアムズ, ザウバー, ルノー
| Year | Car | Race | Start | Won | Pod | Class | Best | Pole | Front | Best | Lap | Hat | Pts | Pos | ||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1996 | Williams | 16 | 16 | 4 | 11 | 13 | 1 | 3 | 9 | 1 | 6 | 0 | 78 | 2 | ||||
| 1997 | Williams | 17 | 17 | 7 | 8 | 11 | 1 | 10 | 13 | 1 | 3 | 2 | 81 | 1 | ||||
| 1998 | Williams | 16 | 16 | 0 | 2 | 13 | 3 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 21 | 5 | ||||
| 1999 | BAR | 16 | 16 | 0 | 0 | 4 | 8 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | - | ||||
| 2000 | BAR | 17 | 17 | 0 | 0 | 13 | 4 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 17 | 7 | ||||
| 2001 | BAR | 17 | 17 | 0 | 2 | 11 | 3 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 12 | 7 | ||||
| 2002 | BAR | 17 | 17 | 0 | 0 | 10 | 4 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 4 | 12 | ||||
| 2003 | BAR | 15 | 14 | 0 | 0 | 7 | 6 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 6 | 16 | ||||
| 2004 | Renault | 3 | 3 | 0 | 0 | 3 | 10 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 0 | - | ||||
| 2005 | Sauber | 19 | 18 | 0 | 0 | 15 | 4 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 9 | 14 | ||||
| 2006 | BMW Sauber | 12 | 12 | 0 | 0 | 8 | 6 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 7 | 15 | ||||
| Total | 165 | 163 | 11 | 23 | 108 | 1 | 13 | 23 | 1 | 9 | 2 | 235 |
| グランプリ | サーキット | 開催日 | ||
|---|---|---|---|---|
| デビュー戦 | オーストラリアGP | アルバート・パーク | 1996年3月10日 | レース結果 |
| ラストレース | ドイツGP | ホッケンハイム | 2006年7月30日 | レース結果 |
ジャック・ビルヌーブは11歳のときにF1レースのクラッシュで父ジルを亡くしたものの、ビルヌーブの名を多くの人々がワールドチャンピオンのリストに連ねるにふさわしいと認めるものとして守っている。
本格的に父の足跡を追い始めたのはジャック15歳のとき。父ジルが通ったケベックのレーシングスクールに参加した。1989年から3年間をイタリアF3で戦い、続いて全日本F3へ舞台を移すと、デビューシーズンだった1992年のランキングで2位に入っている。続くシーズンは北米へ渡り、フォーミュラ・アトランティック・チャンピオンシップを3位で終えてインディカー・ワールド・シリーズへの切符をつかんだ。
インディカーでの2年間は成功に満ちたものであり、初年度にはルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞。1995年にはドライバーズチャンピオンシップの栄冠を手にした。この活躍がF1に繋がり、ウィリアムズでデイモン・ヒルのチームメイトの座を射止める。デビュー戦のメルボルンではレースの大半をリードして優勝目前だったが、オイル漏れによりヒルの後方、2位で終えることとなった。シーズン閉幕時のポジションも同様で、4勝を挙げたジャックは最終戦日本GPまでチームメイトとタイトル争いを繰り広げている。
ヒルのウィリアムズ離脱によりナンバー1ドライバーとなったジャック。直近のライバルだったミハエル・シューマッハがヘレスの決定的なレースでジャックに接触したものの、7つの勝利はタイトル獲得に十分だった。しかしながら、1998年にはマシンのパフォーマンス不足で2回の表彰台がせいぜいであり、王座防衛はならずに終わる。これに落胆したジャックはチームを離れて新たに創設されたBARに加入。このチームで勝利可能と予期していたジャックだったが、12戦目まで完走できないという事態に陥った。その後のシーズンでいくらかの改善は見られるも、チャンピオンシップでは連続7位という結果となり、約束されたはずの勝利が実現することはなかった。
その後はルノー、ザウバーと渡り歩いたジャックだが、タイトル争いのチャンスには恵まれないまま2006年にアメリカへと戻る。2010年に復帰したいとの意向を示しながらも、シートを得る計画は結実しなかった。2011年にはイタリアチームとのジョイントベンチャーとして自身のチーム立ち上げを狙ったが、このプロジェクトも成功を見ずに終わっている。
【長所と短所】
F1ですぐに速さを発揮したこと。ジャックには速いマシンをセットアップできるという強みがあり、1シーズンに達成した10ポールポジションという数字がそれを示している。しかし、過信がしっぺ返しに繋がることがあり、BAR時代の2003年には経験の少ないジェンソン・バトンのペースに遅れをとった。
【キャリア最高の瞬間】
1997年に5勝のミハエル・シューマッハをおさえて7勝を挙げ、タイトルを勝ち取ったとき。
【キャリア最低の瞬間】
翌シーズンから佐藤琢磨と交代させられることを知り、2003年日本GPへの参戦を拒否したとき。
【注目のコメント】
「1999年から2004年までの間で、僕は新しいチームを組織立てていく難しさや複雑さを直接経験した。でも、チャレンジを恐れることは決してなかった」
「僕の目標はレースカーのドライバーになることじゃない。僕がレースをしているのは、マシンの中でギリギリの感覚を楽しんでいるからだ」
【トリビア】
ジャックには失敗に終わった音楽界でのキャリアもある。『Private Paradise(プライベート・パラダイス)』というタイトルのアルバムを2007年に発売したが、836枚しか売れなかった。
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2012年6月7日 シューマッハとビルヌーブ © Press Association |
2012年5月8日 おなじみのヘルメットでフェラーリ312T4を駆るビルヌーブ © Sutton Images |
2012年5月8日 父ジルの没後30周年でフェラーリ312T4を駆るジャック © Sutton Images |
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