ジャンカルロ・フィジケラ イタリア
- 氏名 ジャンカルロ・フィジケラ
- 生年月日 1973年1月14日
- 出身地 イタリア・ローマ
- 年齢 40歳127日
- 身長 1.72 m
- 体重 64 kg
- チーム Benetton, Jordan, ザウバー, フェラーリ, フォース・インディア, ミナルディ, ルノー
| Year | Car | Race | Start | Won | Pod | Class | Best | Pole | Front | Best | Lap | Hat | Pts | Pos | ||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1996 | Minardi | 8 | 8 | 0 | 0 | 3 | 8 | 0 | 0 | 16 | 0 | 0 | 0 | - | ||||
| 1997 | Jordan | 17 | 17 | 0 | 2 | 13 | 2 | 0 | 1 | 2 | 1 | 0 | 20 | 9 | ||||
| 1998 | Benetton | 16 | 16 | 0 | 2 | 11 | 2 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 16 | 9 | ||||
| 1999 | Benetton | 16 | 16 | 0 | 1 | 10 | 2 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 13 | 9 | ||||
| 2000 | Benetton | 17 | 17 | 0 | 3 | 12 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 18 | 6 | ||||
| 2001 | Benetton | 17 | 17 | 0 | 1 | 11 | 3 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 8 | 11 | ||||
| 2002 | Jordan | 17 | 16 | 0 | 0 | 8 | 5 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 7 | 11 | ||||
| 2003 | Jordan | 16 | 16 | 1 | 1 | 8 | 1 | 0 | 0 | 8 | 0 | 0 | 12 | 12 | ||||
| 2004 | Sauber | 18 | 18 | 0 | 0 | 17 | 4 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 22 | 11 | ||||
| 2005 | Renault | 19 | 18 | 1 | 3 | 13 | 1 | 1 | 3 | 1 | 1 | 0 | 58 | 5 | ||||
| 2006 | Renault | 18 | 18 | 1 | 5 | 16 | 1 | 1 | 5 | 1 | 0 | 0 | 72 | 4 | ||||
| 2007 | Renault | 17 | 17 | 0 | 0 | 14 | 4 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 21 | 8 | ||||
| 2008 | Force India | 18 | 18 | 0 | 0 | 11 | 10 | 0 | 0 | 12 | 0 | 0 | 0 | - | ||||
| 2009 | Force India, Ferrari | 17 | 17 | 0 | 1 | 16 | 2 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 8 | 15 | ||||
| Total | 231 | 229 | 3 | 19 | 163 | 1 | 4 | 11 | 1 | 2 | 0 | 275 |
| グランプリ | サーキット | 開催日 | ||
|---|---|---|---|---|
| デビュー戦 | オーストラリアGP | アルバート・パーク | 1996年3月10日 | レース結果 |
| ラストレース | アブダビGP | ヤス・マリーナ | 2009年11月1日 | レース結果 |
ジャンカルロ・フィジケラは、レーシング・チームに所属する前からカート経験を積み重ねていた。1991年にフォーミュラ・アルファ・ボクサーというチームから、本格的なレース参戦をスタート。
その後、1992年より、RCモータースポーツから3年間のイタリアF3時代を過ごした。1993年はシーズンを通して2位の成績を収め、翌1994年にはタイトルを獲得。1994年はさらに、モナコで行なわれたF3レースでも優勝を果たし、マカオ国際F3レースでは2ヒート目で1位を獲得している。
1995年と1996年はアルファロメオのドライバーとして、国際ツーリング・カー選手権に挑戦したが、フォーミュラ・カーへの情熱が失われることはなかった。そして1996年には、ミナルディから待望のF1デビューを果たす。シーズン途中でジョバンニ・ラバッジにシートを譲ったものの、関係者に印象を残す走りを随所に見せ、翌1997年、ジョーダンへの移籍が決定した。
1997年、ベルギーGPで2位表彰台を獲得した他にも、メカニカル・トラブルによりリタイアしてしまったが、ドイツGPで一時トップを走行するなどの活躍を残す。この年はドライバーズ選手権8位の成績で終え、翌1998年にはベネトン・チームへ移籍。この年も2度の2位表彰台や、初ポールポジションを獲得するなど、フィジケラの活躍は続いた。シーズン合計で16ポイントを獲得し、ランキング9位という成績を残している。
順調にステップアップの階段を上り、誰もがフィジケラのF1での成功を期待していた。だが、1999年シーズンから、伸び悩みへのジレンマが始まってしまう。1999年のヨーロッパGPでは一時トップを走っていたものの、痛恨のスピンを喫してリタイア。チャンスを棒に振ってしまった。この年は13ポイントの獲得にとどまり、ランキング9位で終えている。新たな決意を胸に臨んだ2000年も、空回りの結果に終わってしまった。
2001年、長い間パートナーだったアレキサンダー・ブルツがチームを離れ、代わってジェンソン・バトンがパートナーとなる。常にバトンを上回るパフォーマンスは見せていたが、他に目立った成績を残せてはいない。シーズン終了前、チームを率いるフラビオ・ブリアトーレは、2002年よりチーム名をルノーに変更し、さらにフィジケラをチームから放出することを発表した。
2002年、ベネトンは言葉通りルノー・チームに変身した。フィジケラは2001年までジョーダンにいたヤルノ・トゥルーリとトレードされる形で古巣ジョーダンに復帰。日本期待の新人、佐藤琢磨がパートナーとなった。この年も思い描いていた活躍は見せられず、シーズンを終えて5位が3回、6位入賞を一度果たしたのみで、7ポイントの獲得にとどまっている。
2003年シーズンのフィジケラはフォード・エンジンを搭載したE13とともに、より良い成果を目指して走り続けた。しかし、この年はブラジルGPで運良く初優勝を遂げたものの、今までで最も困難なシーズンとなってしまう。ジョーダンのパフォーマンスは低く、走らないマシンにフィジケラのモチベーションは落ちる一方だったのだ。
2004年、ザウバーで挑んだフィジケラは、ドライバーズ選手権11位と、夢に見ていたような成績は残せなかったが、9戦でポイントを獲得したことは評価に値した。
ブリヂストンを履いたC23は予選でしばしば後方から多めの燃料を積んでのスタートを選択し、レース終盤でポジションを上げる走りを見せる。エキサイティングとは言えなかったかもしれないが、フィジケラにとってはうまくいっていた。そして2005年、古巣であるルノーとブリアトーレの下に戻るため、ザウバーを後にしたフィジケラ。
ルノーと2年契約を結び、古巣に舞い戻ったフィジケラの2005年は開幕戦からポール・トゥ・ウインという夢のようなスタートダッシュとなった。ところが、その後は思うようにいかず、チームメイトのフェルナンド・アロンソがワールドチャンピオンに輝き、ルノーがコンストラクターズ選手権を制した一方で、フィジケラ自身は3度の表彰台にとどまっている。
2005年はアロンソのスピードについていけず、2006年の巻き返しを誓っていたフィジケラ。しかし、マレーシアGPでの優勝を除けば、チームメイトよりも印象的な成績を残すことは、またしてもできなかった。アロンソはタイトルを懸けて戦っていたが、フィジケラはチームメイトと同等のペースを築くことができなかったのだ。チャンピオンシップで4位という成績は素晴らしい成績とは言えないが、ブリアトーレはフィジケラと2007年末までの1年契約を結び、マクラーレンへと移籍するアロンソの後任ドライバーとして、ヘイキ・コバライネンを据えることを決定した。
2007年シーズンもフィジケラにとって、同じような1年となる。ルノーのR27は旧型車と比べ、競争力に欠けていたのだ。ベテランドライバーとなったフィジケラは、まずまずのシーズンスタートを切るが、後半はチームメイトのコバライネンがトップ8常連だった一方で、わずか1ポイントしか獲得できなかった。
ルノーが2008年ドライバーラインアップとしてフィジケラを外したことは驚きを生まなかったが、オフシーズンに入ってフォース・インディアのテストに参加。その実力を認められ、グリッド後方からチームを進歩させるべく、フォース・インディアのレースドライバーとして2008年シーズンに臨んだ。
チームのポイント獲得は可能ではなかったが、フィジケラはプレッシャーのない状態で成長したようで、チームのシーズン最高結果をもたらしている。
2009年も引き続きフォース・インディアから参戦したフィジケラはモナコやシルバーストーンで強力な走りを披露。それでも、スパ・フランコルシャンで見せた驚きのパフォーマンスにかなう走りはないかもしれない。予選でポールポジションを獲得し、レースでは優勝したキミ・ライコネン(フェラーリ)からわずか1秒後方の2位でチェッカーを受けたのだ。
衝撃のベルギーGPが明けた翌週、フィジケラはイタリアGP以降の同シーズンをフェラーリドライバーとして過ごすことを発表。負傷したフェリペ・マッサの代役を務めたルカ・バドエルの後任に就く。しかしながら、当時のグリッドで最もドライブが難しいマシンの一つと折り合いをつけることはできず、5レースに参加するもポイントを挙げることはかなわなかった。
落胆のこの結果によってフィジケラのキャリアは頭打ちになり、2010年にはフェラーリのサードドライバーの役割を受け入れる。しかし、ジュール・ビアンキも同じ役職に指名された上、近年のF1では実質上テストドライバーの活躍の場はないため、再びレースに戻ってくるのは難しいだろう。
【長所と短所】
遅いマシンではしばしばパフォーマンスの良さを発揮してきたが、タイトルを制したルノーマシンが与えられていた際にはフェルナンド・アロンソに比べて見劣りしていた。
【キャリア最高の瞬間】
2003年ブラジルGPにて決して速くはないジョーダンマシンで自身初優勝を飾ったこと。この勝利がターニングポイントとなり、フィジケラはザウバーを経てルノーに移籍することになる。
【キャリア最低の瞬間】
さんたんたる結果に終わった地元イタリアGPでのフェラーリドライバーとしてのデビューレース。チームメイトのキミ・ライコネンに引き離されてポイント圏外に終わり、前戦までチームメイトだったフォース・インディアのエイドリアン・スーティルにさえ遅れをとった。
【注目のコメント】
フォース・インディアではペイドライバーなのではないかとの問いに対し
「もし1,000万ドル持っていたら、家にいてテレビでF1を見るだろうね」
フォース・インディアドライバーとしてかつては古巣ジョーダンのファクトリーだった施設に戻って
「同じこの屋根の下に戻るのは3度目だ。僕が壁に向かって話しかければ答えが返ってくるよ」
【トリビア】
2006年から2009年、フィジケラはGP2のコローニを支援し、同チームはフィジケラ・モーター・スポーツと名乗っていた。2010年にフィジケラがF1でのシートを失ったのを機に、チーム名はスクーデリア・コローニに変更されている。
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2013年1月18日 アイスレース後にフィジケラを抱き上げるアロンソ © Ferrari |
2013年1月18日 フェラーリのアイスレースで先頭集団を走るアロンソとフィジケラ © Ferrari |
2011年7月17日 ババリア・モスクワ・シティ・レーシングの記者会見に登場したドライバーたち © Bavaria Moscow City Racing |
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