デイモン・ヒル  イギリス

  • 氏名 デイモン・グラハム・デベリュー・ヒル
  • 生年月日 1960年9月17日
  • 出身地 イギリス・ロンドン ハムステッド
  • 年齢 53歳340日
  • 関係 お父さん - N.G.ヒル
  • チーム Arrows, Brabham, Jordan, ウィリアムズ
driver portrait
F1キャリア / 戦績
Year Car Race Start Won Pod Class Best Pole Front Best Lap Hat Pts Pos
1992 Brabham 8 2 0 0 2 11 0 0 25 0 0 0 -
1993 Williams 16 16 3 10 12 1 2 12 1 4 0 69 3
1994 Williams 16 16 6 11 13 1 2 7 1 6 1 91 2
1995 Williams 17 17 4 9 10 1 7 12 1 4 2 69 2
1996 Williams 16 16 8 10 12 1 9 16 1 5 2 97 1
1997 Arrows 17 16 0 1 10 2 0 0 3 0 0 7 13
1998 Jordan 16 16 1 1 11 1 0 0 3 0 0 20 6
1999 Jordan 16 16 0 0 7 4 0 0 4 0 0 7 12
Total 122 115 22 42 77 1 20 47 1 19 5 360
グランプリ サーキット 開催日
デビュー戦 スペインGP カタロニア 1992年5月3日 レース結果
ラストレース 日本GP 鈴鹿 1999年10月31日 レース結果
プロフィール

F1を目指す上で"ヒル"の名が役立ったことはあったかもしれないが、デイモン・ヒルがチャンピオンになれたのはその能力があってこそ。父グラハムが最初の戴冠を果たした時より2歳年上でデイモンは王者の仲間入りを果たしており、F1史上において2代による世界選手権制覇を成し遂げているのはヒル親子のみだ。

デイモンは4輪にそれほど興味を持たず、幼少期はむしろバイクを好んでいた。1975年に父を飛行機事故で亡くし、若くして自ら生計を立てていくことを迫られる。当時の仕事の一つはバイク便のドライバーであり、バイクの運転を重ねるうちに21歳という比較的遅いタイミングでレースの世界に飛び込んだ。2輪レースの危険性を快く思わなかった母親の説得により、フランスのウィンフィールド・レーシング・スクールで学ぶことになる。断続的にドライブの機会を得てきたデイモンは1985年にフォーミュラ・フォードで1シーズンを戦えるだけのスポンサーを整え、4輪でのキャリアをスタートさせている。

ヴァン・ディーメンで地味ながらも堅実なスタートを切ったデイモンは6勝を記録。F3でも同様の成長を遂げて懸命な仕事と努力を見せたものの、それほど高く評価されることはなかった。それでもF3000のドライブを約束されるだけの力は示し、未勝利ながらも5回のポールポジション獲得という競争力を発揮している。これがフランク・ウィリアムズの目に止まり、デイモンをレース上の記録を残す前から"タフなやつ"と見たウィリアムズは1991年にテストドライバーとしてデイモンを起用することに決めた。

F1でのチャンスはその翌年、衰退しつつあったブラバムチームを舞台にやってきた。競争力の劣るマシンにもかかわらずデイモンは何とか2回の予選突破に成功。そのひとつにはデイモンが開発を手助けしたウィリアムズが勝利を飾ったイギリスGPも含まれる。優勝マシンのステアリングを握っていたのはナイジェル・マンセルだ。さらなるテスト距離を稼いだデイモンはこの年の終わりにマンセルがインディカーへ転向したのにともなってレースシートを獲得する。

33歳のフル参戦初年度に3勝を記録して将来性を示したデイモンは1994年イモラでのアイルトン・セナの死を受けてリードドライバーとしての役割を担うことに。チャンピオンシップではミハエル・シューマッハに30ポイント以上の遅れをとっていたものの、シューマッハが失格になったイギリスGPで優勝したのに加え、続く2戦でシューマッハが出場停止になったため、日本GPで6位に入ったデイモンはタイトルコンテンダーとして決戦の地アデレードへと向かった。しかし、この年の最終戦は苦いレースとして人々の記憶に残ることになる。シューマッハとヒルの接触によりドライバーズタイトルは1ポイント差で前者に渡ったが、シューマッハには故意にインシデントを起こしたとの批判的な声が上がった。

1995年にはグリッド最速と広く目されるマシンをドライブしながらも4勝にとどまり、シューマッハに次ぐランキング2位に甘んじたデイモンだが、プレッシャーの中で翌シーズンは開幕から5戦で4勝という快進撃を見せる。シーズン中盤に調子を落とし、ルーキーのチームメイトであるジャック・ビルヌーブに迫られてしまったが、締めの一戦となった鈴鹿で余裕の勝利を収め、ついにワールドチャンピオンに輝いた。

しかしながら、不調が原因でウィリアムズの信頼を失ったデイモンにはタイトルを手にする前の段階でチーム離脱が決まっていた。アロウズ移籍後には厳しいシーズンが待ち受け、開幕戦メルボルンではマシントラブルによりレースをスタートできずに終わる。新チームでの初ポイントはイギリスGPまで待たねばならなかった。ハンガリーGPではセカンドギアにスタックするまで悠々とレースをリードし、ファイナルラップで先頭を明け渡しながらも2位フィニッシュを果たしている。

1998年に戦いの拠点をジョーダンへ移したデイモンはチームを入賞常連メンバーに押し上げ、スパでチーム初優勝を1-2フィニッシュで達成した。ドライバーズ選手権6位の結果が翌年への希望のあかりを灯したものの結局は不振に終わり、1999年末をもってデイモンはF1キャリアに終止符を打った。

【長所と短所】

熱心に仕事に打ち込む労働観、威厳、良識がデイモンに当時最高のマシンをもたらすと同時に、彼を素晴らしいチームプレイヤーにしている。しかし、1994年と1995年に連続してデイモンを打ち破ったシューマッハのようなパフォーマンスで自身の長所を常に裏付けることはできなかった。

【キャリア最高の瞬間】

鈴鹿を舞台に行われた1996年最終戦でタイトルをつかみとったこと。このときすでに翌年はウィリアムズのシートを失うことが決まっていた。

【キャリア最低の瞬間】

1994年にイモラでチームメイトのアイルトン・セナを亡くしたこと。

【注目のコメント】

「決して満足などしてはいけない。人間なら必ず何か間違いがある。常に危機感を持ち、手に汗を握って自分自身をプッシュすべきだ。一度勝てばもっと勝ちたくなる。決して終わりはない」

デイモンの妻ジョージーさん、デイモンのウィリアムズ離脱が決まった際に

「多くの人が全身で示すほどの誠実さと尊厳をデイモンはその小指に持っていることを示しました」

【トリビア】

デイモンはデフ・レパードのアルバム『Euphoria(ユーフォリア)』に収められた『Demolition Man(デモリション・マン)』でギターソロを演奏している。

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