ナイジェル・マンセル イギリス
- 氏名 ナイジェル・アーネスト・ジェームズ・マンセル
- 生年月日 1953年8月8日
- 出身地 イギリス アプトン・オン・セバン
- 年齢 66歳123日
- チーム ウィリアムズ, フェラーリ, マクラーレン, ロータス

Year | Car | Race | Start | Won | Pod | Class | Best | Pole | Front | Best | Lap | Hat | Pts | Pos | ||||
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1980 | Team Lotus | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 16 | 0 | 0 | 0 | - | ||||
1981 | Team Lotus | 14 | 13 | 0 | 1 | 5 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 8 | 14 | ||||
1982 | Team Lotus | 13 | 13 | 0 | 1 | 6 | 3 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 7 | 14 | ||||
1983 | Team Lotus | 15 | 15 | 0 | 1 | 8 | 3 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 10 | 13 | ||||
1984 | Team Lotus | 16 | 16 | 0 | 2 | 5 | 3 | 1 | 2 | 1 | 0 | 0 | 13 | 10 | ||||
1985 | Williams | 16 | 15 | 2 | 3 | 10 | 1 | 1 | 5 | 1 | 1 | 0 | 31 | 6 | ||||
1986 | Williams | 16 | 16 | 5 | 9 | 12 | 1 | 2 | 7 | 1 | 4 | 0 | 72 | 2 | ||||
1987 | Williams | 15 | 14 | 6 | 7 | 10 | 1 | 8 | 14 | 1 | 3 | 0 | 61 | 2 | ||||
1988 | Williams | 14 | 14 | 0 | 2 | 2 | 2 | 0 | 2 | 2 | 1 | 0 | 12 | 9 | ||||
1989 | Ferrari | 15 | 15 | 2 | 6 | 6 | 1 | 0 | 0 | 3 | 3 | 0 | 38 | 4 | ||||
1990 | Ferrari | 16 | 16 | 1 | 5 | 9 | 1 | 3 | 3 | 1 | 3 | 0 | 37 | 5 | ||||
1991 | Williams | 16 | 16 | 5 | 9 | 10 | 1 | 2 | 6 | 1 | 6 | 1 | 72 | 2 | ||||
1992 | Williams | 16 | 16 | 9 | 12 | 12 | 1 | 14 | 15 | 1 | 8 | 4 | 108 | 1 | ||||
1994 | Williams | 4 | 4 | 1 | 1 | 2 | 1 | 1 | 2 | 1 | 0 | 0 | 13 | 9 | ||||
1995 | McLaren | 2 | 2 | 0 | 0 | 1 | 10 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 0 | - | ||||
Total | 191 | 187 | 31 | 59 | 98 | 1 | 32 | 56 | 1 | 30 | 5 | 482 |
グランプリ | サーキット | 開催日 | ||
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デビュー戦 | オーストリアGP | シュピールベルク | 1980年8月17日 | レース結果 |
ラストレース | スペインGP | カタロニア | 1995年5月14日 | レース結果 |
ナイジェル・マンセルがワールドチャンピオンになるまでには厳しい道のりを歩まねばならなかったが、比類ないスピードや豪胆さと結びついた彼の決意と成功への意志は、彼を見る者にとって最もエキサイティングなドライバーの一人へと押し上げた。
マンセルのレースへの情熱はエイントリーで行われた1962年イギリスGPでジム・クラークが勝利を収めたのを目撃したことによって火がつき、カートで活躍した後にF1を最終目的地として下位フォーミュラでの戦いを開始した。その過程は、自ら資金調達をし、ドライビングスタイルに起因する数々のアクシデントからのリカバーを強いられるという困難なものだった。フォーミュラ・フォードのテストで喫したクラッシュでは首を骨折。医師は二度とレースに戻れないだろうと話したものの、マンセルは復帰を果たして1977年の英フォーミュラ・フォードのタイトルを獲得している。
シルバーストーンでF3にスポット参戦して4位に入ったマンセルはステップアップする準備が整ったと考え、レース界のはしごを上るための資金を得るべく自宅を売却。しかし、再び激しいクラッシュでせきついを骨折し、ビッグチャンスは水の泡となりかける。ロータスでF1マシンをテストするためマンセルはケガの深刻さを隠さなければならなかったものの、何とかテストドライバーの座を手に入れるだけの力を示し、1980年に初グランプリへこぎつける。オーストラリアでのレースはやはり容易なものではなく、燃料漏れによって背中に1度から2度の火傷を負って激しい痛みに耐えながらドライブしたものの、エンジントラブルでリタイアに終わった。
ロータス時代は比較的成果が乏しく、信頼性に欠けるマシンのせいで59レース中24回しか完走できなかった。チームオーナーであるコリン・チャップマンが1982年に他界すると、マンセルとロータスの関係はぎくしゃくし始める。1984年末、マンセルはアイルトン・セナの加入に押し出される形でチームを後にし、ケケ・ロズベルグのチームメイトとしてウィリアムズへ。ベルギーGPで2位に入り、ブランズハッチで行われたヨーロッパGPでは72戦目にして初勝利を達成する。続く南アフリカGPでも優勝し、翌年以降のシーズンにおける有力候補に成長した。
1986年はまさにタイトルを手中にしかけた。マンセルは5勝を挙げ、アデレードは3人のドライバーによるタイトル決戦の舞台となる。新たなチームメイトのネルソン・ピケやアラン・プロストを相手に、マンセルは3位でレースを終えさえすれば良かった。残り19周でライバル2人に次ぐ位置につけていたマンセルだったが、時速280kmを超えるスピードで走行中にタイヤがバーストしてマシンを停めたために、タイトルはプロストの手に渡った。
翌1987年もコンペティティブなシーズンとなり、残り20周ほどで20秒の差を逆転してピケをパスしたシルバーストーンを含む6勝を記録。しかしながら、最後から2番目のレースだった鈴鹿の予選にて激しいクラッシュによるせき髄振とうに見舞われ、ラスト2戦を欠場したためにライバルのピケに王座をさらわれた。ウィリアムズがジャッドエンジンに移行した次のシーズンは信頼性が不足し、大きな落胆の内に終わる。8戦目にしてようやく完走したマンセルがチェッカーフラッグを見ることができたのは、それ以外に一度だけだった。
1989年のフェラーリ移籍はリスキーだと見る向きが多かった。チームになじむにはマンセルがあまりにイギリス的過ぎると見られていたのだ。しかし、マンセルはすぐにそういった考えを払拭し、デビュー戦のブラジルで勝利を決めてランキング4位でこのシーズンを締めくくる。翌年はチームに新加入したアラン・プロストがナンバー1のステータスを得ており、プロストがマンセルに知らせることなくチームにマシンを交換させたシルバーストーンがマンセルにとっての転換点だった。レース後にマンセルは引退を発表したが、フランク・ウィリアムズが介入してマンセルをウィリアムズに呼び戻し、1991年には5勝を挙げてアイルトン・セナに次ぐ2位となっている。
すべてが一つにまとまったのは次の年のことだった。ウィリアムズが最高のマシンを作り上げ、マンセルはそれにふさわしいパフォーマンスを届ける。開幕から5戦で優勝したマンセルは第11戦にて選手権優勝を決定した。このシーズンにマンセルは16戦中9勝という結果を残し、勝利数でジャッキー・スチュワートをしのいで最も成功したイギリス人ドライバーとなり、予選でも14ポールポジションという圧倒的な力を見せている。
ウィリアムズがプロストを迎え入れた1993年にマンセルはF1を去り、アメリカのCARTシリーズに新天地を見出した。同シリーズで優勝することで元の雇用主に自分の正しさを証明したマンセルだが、良い時期は長く続かず、翌年はマシンのペースが不足。そんな中、セナの死を受けてウィリアムズはデビッド・クルサードとマシンを共有する形でマンセルを再起用した。最終戦アデレードで勝利を飾ったマンセルだったが、チームが1995年の開幕に向けて選択したのはクルサードだった。マンセルはマクラーレンで2レースを戦った後にF1を去っている。
【長所と短所】
決して揺るがない決意、とてつもないメンタルの強さ、そして素晴らしい勇気がマンセルを頂点へと導いた。しかし、それらすべてが彼にとって不利に働く可能性がある。マンセルは事実上のナンバー1ドライバーであなければパフォーマンスを発揮することができず、数多くのレースでクラッシュを喫してきた。
【キャリア最高の瞬間】
1992年にチャンピオンになったこと。このシーズンを支配し、5レースを残してタイトルを決めた。
【キャリア最低の瞬間】
きわめて密接な関係を築いてきたロータスチームオーナーのコリン・チャップマンが1982年に亡くなったこと。マンセルのロータス時代はこれをきっかけに終わりへと向かった。
【注目のコメント】
「私は自分自身を世界でもほんの一握りのトップドライバーの一人だと見なしている。ベストかって? 自分がベストだと言える者などいないと思う。なぜなら、その週ごとに少し調子が良かったり、悪かったりするからだ」
「マシンに乗り込むたび、エンジンをかけるたびに心から楽しんでいる。レースで1ポンド稼げるなら、私はそれでもレーシングドライバーであり続けるだろう。貧しくてもね」
【トリビア】
マンセルはエンツォ・フェラーリが自らチームに招き入れた最後のドライバーであり、この名誉を彼は"僕のキャリアの中でも最高の一つ"と話した。
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2012年5月27日 ![]() バトンとファンの写真を撮るマンセル © Sutton Images |
2012年2月14日 ![]() 大英帝国勲章第3位と共にポーズをとるマンセル © Getty Images |
2011年7月4日 ![]() 新旧ウィリアムズドライバーとフランク・ウィリアムズ卿、ルノーのベルナール・レイ © Sutton Images |
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