アラン・プロスト  フランス

driver portrait
F1キャリア / 戦績
Year Car Race Start Won Pod Class Best Pole Front Best Lap Hat Pts Pos
1980 McLaren 13 11 0 0 7 5 0 0 7 0 0 5 16
1981 Renault 15 15 3 6 6 1 2 5 1 1 0 43 5
1982 Renault 16 16 2 4 8 1 5 9 1 4 1 34 4
1983 Renault 15 15 4 7 12 1 3 5 1 3 1 57 2
1984 McLaren 16 16 7 9 11 1 3 11 1 3 1 71.5 2
1985 McLaren 16 16 5 11 12 1 2 3 1 5 1 76 1
1986 McLaren 16 16 4 11 13 1 1 3 1 2 1 74 1
1987 McLaren 16 16 3 7 12 1 0 3 2 2 0 46 4
1988 McLaren 16 16 7 14 14 1 2 12 1 7 1 105 2
1989 McLaren 16 16 4 11 13 1 2 11 1 5 0 81 1
1990 Ferrari 16 16 5 9 12 1 0 5 2 2 0 73 2
1991 Ferrari 15 14 0 5 8 2 0 3 2 1 0 34 5
1993 Williams 16 16 7 12 15 1 13 16 1 6 2 99 1
Total 202 199 51 106 143 1 33 86 1 41 8 798.5
グランプリ サーキット 開催日
デビュー戦 アルゼンチンGP ブエノスアイレス 1980年1月13日 レース結果
ラストレース オーストラリアGP アデレード 1993年11月7日 レース結果
プロフィール

アラン・プロストはレーシングドライバーになるよりはるかに容易にプロのサッカー選手になれたかもしれない。しかし、14歳のときに家族で休日を過ごしていた際にカートの感触に取りつかれたプロストは、後に4度のワールドチャンピオンとなる。

19歳になったプロストはレースの世界で本格的なキャリアを積むために学校を去った。外部の資金に恵まれず、エンジンのチューニングやカートの流通で自らのキャリアをサポート。一年後、フランスのシニアカート選手権で優勝し、フォーミュラ・ルノーに参戦する。2度のタイトルを手中にしたプロストはF3へと転身し、フランスとヨーロッパの両選手権を制した。この成果がF1での豊かな選択肢をもたらし、F1で戦う準備が完全に整っていないのにレースするのは間違いだとの理由で1979年にワトキンズ・グレンにてマクラーレンでドライブするチャンスを断って周囲を驚かせつつも、続くシーズンに同チームと契約を結んでいる。

プロストがF1界の話題を呼ぶまで長くはかからなかった。デビューシーズンで4回の入賞を果たした一方、何度もメカニカルトラブルに襲われた。別々のアクシデントで手首の骨折や脳しんとうに見舞われてもいる。これらのマクラーレンの不手際とチームマネジメントに不満を覚えたプロストは契約を打ち切ってルノーへと向かう。

ルノーとのコラボレーションは夢のような組み合わせであり、一年目の母国グランプリで初優勝を果たしたとは言え、フランス車でのタイトル獲得のプレッシャーは大きかった。1983年、ネルソン・ピケに王座を奪われたことでルノーと決裂。プロストは家族をスイスに移住させ、再びマクラーレンと1984年の契約を結んだ。

この移籍は望ましい結果となり、マクラーレン優勢の時代が始まった。プロストは1985年と1986年にドライバーズタイトルを獲得し、1960年のジャック・ブラバム以来の2年連続チャンピオンとなる。続くシーズンにはジャッキー・スチュワートが持っていた勝利数の記録を上回った。1988年の7勝という記録は、通常であればプロストをチャンピオンに導くには十分だったかもしれないが、マクラーレンの力が抜きん出ていたために、その他9レース中8レースで勝利した新チームメイト、アイルトン・セナがこの年の王冠を手中に収める。ここにF1でも最も激しいライバル関係が幕を開けた。

2人はチーム内での力関係をめぐって争い、ファンの人気としては全力を尽くして戦うセナの態度がプロストのコンサバティブなスタイルに勝った。プロストはその綿密に組み立てられたレースへのアプローチを指して"プロフェッサー"との異名をとる。1989年に2人は再びタイトル争いを演じ、プロストは次第にセナのドライビングスタイルとマクラーレンによる2人の扱いを非難し始めた。閉幕まであと1戦というタイミングで開催された鈴鹿での日本GPで緊張はピークに達し、シケインでプロストがチームメイトに接触。セナは立て直してレースを続行したものの、後にシケインのエスケープロードを走行したとして失格に。その結果、プロストが3度目のタイトルを獲得している。

その後すぐにマクラーレンを離れてフェラーリに移籍したプロストは強力なシーズンを過ごす。5勝を挙げて向かった鈴鹿では、1年前と同じ状況が待ち受けていた。タイトル決定の可能性をはらんだ日本GPで、ポールポジションながらも路面が汚れた側からのスタートを切ったセナがターン1で意趣返し。プロストと接触し、今回はセナが王座についた。

1991年のマシンは競争力が不足し、出だしからつまずく。公にチーム批判をしたことからプロストはシーズン末を待たずに解雇された。1992年にはレースに参戦せずにフランスでコメンテーターを務め、1993年にウィリアムズで復帰。この動きは成功につながり、7勝を収めて4度目のチャンピオンに輝いた。続くシーズンで再びセナと組む見通しを嫌ったプロストはこの年を持って引退している。

それでもこのスポーツへの情熱は絶えず、1997年にリジェを買収してチーム名をプロストグランプリに変更。デビューからの5戦で2回の表彰台と2回の入賞で有望なスタートダッシュを見せたが、プロスト自身のドライビングキャリアほどの成功には至らず、2002年のシーズン開始前にチームの挑戦は終わっている。

【長所と短所】

プロストはレース用セットアップのマスターで、その綿密なアプローチは他車のミスを最大に活用することを可能にし、しばしばレース終盤にかけて猛追を見せてきた。一方で議論を呼ぶことも多く、コース上での素晴らしい成果を損なうことも。

【キャリア最高の瞬間】

1985年にマクラーレンで初めてのタイトルを得て、初のフランス人チャンピオンとなったこと。

【キャリア最低の瞬間】

1990年の鈴鹿でアイルトン・セナにコース外に押しやられ、タイトルをセナに奪われたこと。

【注目のコメント】

「彼がしたことは最低だ。彼は価値のない男だ」-1990年、セナとのクラッシュの後に

「私は週末の最初から始めて常に同じやり方で仕事をしている。だから、フリー走行中に分析したすべてのことに基づき、レースの始めには勝てるかどうかが分かるのだ」

【トリビア】

プロストは1984年のチャンピオンシップでチームメイトのニキ・ラウダに0.5ポイント負けている。プロストがリードしている中で激しい雨のために中断されたモナコGPがハーフポイントのレースになったためだ。このレースでは中断の直前にアイルトン・セナがプロストをパスしていたことで議論を呼んだ。しかし、レースが最後まで続いたとして、2位になってもプロストのタイトル獲得には十分だった。

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