ドライバー

/ ネルソン・ピケ

ネルソン・ピケ  ブラジル

driver portrait
F1キャリア / 戦績
Year Car Race Start Won Pod Class Best Pole Front Best Lap Hat Pts Pos
1978 Ensign, McLaren, Brabham 5 5 0 0 2 9 0 0 14 0 0 0 -
1979 Brabham 15 15 0 0 4 4 0 1 2 1 0 3 16
1980 Brabham 14 14 3 6 10 1 2 3 1 1 1 54 2
1981 Brabham 15 15 3 7 11 1 4 5 1 1 1 50 1
1982 Brabham 15 14 1 2 4 1 1 3 1 2 0 20 11
1983 Brabham 15 15 3 8 11 1 1 4 1 4 0 59 1
1984 Brabham 16 16 2 4 7 1 9 10 1 3 1 29 5
1985 Brabham 16 16 1 2 7 1 1 4 1 0 0 21 8
1986 Williams 16 16 4 10 12 1 2 8 1 7 0 69 3
1987 Williams 16 15 3 11 13 1 4 6 1 4 0 76 1
1988 Team Lotus 16 16 0 3 9 3 0 0 3 0 0 22 6
1989 Team Lotus 16 15 0 0 8 4 0 0 7 0 0 12 8
1990 Benetton 16 16 2 4 13 1 0 0 5 0 0 44 3
1991 Benetton 16 16 1 3 11 1 0 0 4 0 0 26.5 6
Total 207 204 23 60 122 1 24 44 1 23 3 485.5
グランプリ サーキット 開催日
デビュー戦 ドイツGP ホッケンハイム 1978年7月30日 レース結果
ラストレース オーストラリアGP アデレード 1991年11月3日 レース結果
プロフィール

ネルソン・ピケのF1への道は奇妙な始まりだった。才能は明らかだったにもかかわらず、父はピケのカート参戦を許さず、カリフォルニアのテニスアカデミーに送り込む。本来の姓をソウト・マイヨールというピケは、両親から隠れて母の旧姓であるピケを名乗って――さらに、つづりをPiquetからあえてPiketに変えて――レース活動にいそしんだ。1971年と1972年に連続してブラジルのカートチャンピオンに輝き、1976年にはエマーソン・フィッティパルディの助言に従ってフォーミュラ・ヴィーのマシンを購入。1年後に同選手権で優勝している。

F3に参戦すべくヨーロッパへ向かったピケは1年を費やして英語を学び、1978年に英国へ渡りイギリスF3のタイトルを勝ち取った。また、同年にはプライベーターであるエンサインからF1デビューも果たしている。さらに3レースを同じくプライベーターのマクラーレンで過ごした後、1979年はバーニー・エクレストン率いるブラバムと契約。これはニキ・ラウダのナンバー2としての起用と見られたが、4レースしか完走できないながらも、この数はラウダがフィニッシュしたレースの2倍であり、ラウダと対等以上の成果を残した。これを受け、ラウダがこのシーズン末に引退した後はピケがチームリーダーになる。

1980年はいくらかの突破口となったシーズンだった。開幕戦アルゼンチンGPを2位でフィニッシュする好発進を決めたピケはさらに3勝を挙げ、中でも2連勝したオランダGPとイタリアGPを終えた時点ではアラン・ジョーンズに1ポイント差をつけてチャンピオンシップをリードする位置に。ピケがそのときまでにリタイアしたのはわずか2戦であり、完走した10戦ではすべて5位以上に入っていた。しかし、ポールポジションを獲得したカナダGPでエンジントラブルの不運に見舞われ、ライバルのジョーンズが優勝。最終戦ワトキンズ・グレンではピケが再びリタイアを喫し、ランキング2位でシーズンを終えることを強いられた。

ピケが初タイトルを手にしたのは翌年の最終戦。シーズンラストのラスベガス、レース終盤に過酷な暑さからくる疲労に苦しめられながらも5位に入ったピケは、カルロス・ロイテマンを1ポイント上回って戴冠を果たしている。1982年、ブラバムが搭載するBMWのターボエンジンは信頼性に欠け、シーズンを通してピケは苦戦を強いられた。しかし、1年後には見事な巻き返しを果たしてラスト3戦で2勝を記録。締めの一戦である南アフリカGPでは余裕の3位で2度目の戴冠を達成した。

その後、速さのないブラバムで2年間に3勝という結果とどまったピケはウィリアムズへ。新天地では事実上のナンバー1になると目されていた。ピケが新たにコンビを組んだナイジェル・マンセルのペースをあてにすることはなかったものの、5勝を記録したマンセルに対してピケは4勝にとどまり、ウィリアムズがマンセルに対してチームオーダーを発令しなかったことから2人の間に激しいチームメイト対決が生じた。最終戦の時点ではマンセルリードの形で2人にタイトルの可能性が残っていたが、レース中にマンセルのタイヤがバースト。ピケも安全策のためのピットストップを実施し、タイトルはアラン・プロストにさらわれてしまう。

1987年は第2戦の舞台となったイモラのフリー走行で激しいクラッシュを喫し、続くベルギーGPでリタイアと低調な出だしとなる。しかし、そこから3勝と1度の3位を含む9回連続表彰台というめざましい成績を残した。鈴鹿のフリー走行でマンセルが大クラッシュに見舞われた際に、ピケは1戦を残して3回目のタイトルを手中に収めている。翌1988年にこれまでと同じくホンダエンジンを積むロータスへ移った後は今ひとつ振るわず、2年後にはベネトンへと移籍した。これで調子を取り戻したピケはラスト2戦で優勝し、ドライバーズチャンピオンシップの3位に入る。1991年には再び陰りがさして1勝と表彰台2回という成績に加え、終盤戦になってミハエル・シューマッハがチームに加入する動きの中で翌年のシート獲得に失敗したピケは、そのままF1の世界を去った。

【長所と短所】

決して圧倒的な成績を収めたわけではなく、1シーズンに4勝以上を記録したことはない。3度の戴冠を支えたのはピケの一貫性だった。しかしながら、1度ワールドタイトルを手にすると自身を中心にチームが組み立てられるべきと考えるようになり、それこそがウィリアムズでの初年度にタイトルを逃した要因だったと見られている。

【キャリア最高の瞬間】

1987年のドライバーズ選手権でチームメイトにして最大のライバルであるマンセルを打ち破ったこと。マンセルの6勝に対し、ピケはたった3勝で王座をつかみとっている。

【キャリア最低の瞬間】

残り2戦の時点でチャンピオンシップリーダーだったにもかかわらず、2連続リタイアで1980年のタイトルを逃したこと。

【注目のコメント】

「誰とも友達になりたいとは思わない。名声などどうでもいい。ただ勝ちたいだけだ」

ナイジェル・マンセル

「ピケはただの下品な男だ」

【トリビア】

ピケはプレイボーイとして人生を満喫した。プライベートジェットに大金をつぎ込み、モナコのハーバーには常駐のクルーと共にヨットを係留。複数の異なる女性との間に7人の子どもをもうけている。

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