現代F1のカレンダーにその名が登場するのは1985年になってからだが、オーストラリアGPの名称自体は1928年から国内ロードレースの名前として使用されている。フィリップ・アイランドで開催された初のレースは改良型オースチン7を操るアーサー・ウェイトが制した。1964年から1969年にかけてはタスマン・シリーズの目玉となり、1957年から1983年までは、オーストラリアン・ドライバーズ選手権の中の1戦だった。F1カレンダー入りした1985年以降、会場となった場所は2カ所。アデレードとメルボルンのアルバート・パークだ。

市街地コースのアデレードはシーズン最終戦の舞台として人気を博し、ツイスティでタイトなサーキットはギアボックスやドライバーにとってチャレンジングで、しばしばモナコと比較された。ここは1986年と1994年、エキサイティングなチャンピオンシップ決戦の舞台となっている。

1986年、タイトル争いはウィリアムズのナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケ、そしてマクラーレンのアラン・プロストによる三つどもえの混戦となっていた。ポールを取ったのはマンセルだったが、スタートに失敗、レース中盤を過ぎ、ピケがトップ、マンセルは2番手を走行し、このままいけばマンセルのタイトルが決定する状況に。しかし、64周目に悲劇が起きる。ストレートでマンセルのタイヤが派手にブロー、プロストが優勝し、2度目のタイトルを獲得した。

1994年はデイモン・ヒルとミハエル・シューマッハの争いだった。序盤リードを奪ったシューマッハが36周目にコースを飛び出してウオールにヒット。コース復帰の際にヒルと接触した動きは非難を浴びた。この時点でシューマッハはリタイアが決定したが、ヒルはレースを続行。しかし、すぐにフロントサスペンションへのダメージが致命的であることが明らかになり、彼もリタイアを強いられる。2人ともノーポイントに終わったことでシューマッハは初のタイトルを手にすることになった。その後、彼は7回のワールドチャンピオンに輝く。

1993年、メルボルンの有名なビジネスマン、ロン・ウォーカーがアルバート・パーク移転に向けて州政府と交渉を開始、その年に移転が決定された。これには"セーブ・アルバート・パーク"というグループが大規模な抗議運動を繰り広げ、公共の公園が年に一度、個人的な遊び場に利用されると猛反対した。

移転の決定でオーストラリアはF1の歴史に1つの記録を残すことになる――2戦連続でF1ラウンドを開催した唯一の国となったのだ。1995年の最終戦、そして1996年開幕戦の2戦を指す。"メルボルン ― これこそレースに最適な地"という標語の下で移転後初のレースが開催され、40万1,000人の観客がこれに応えた。オープニングラップでジョーダンのマーティン・ブランドルが大クラッシュに巻き込まれ、マシンは宙を飛び、真っ二つに分断された。事故の大きさと、再スタートに備え、スペアカーに乗り替えるために走ってピットに戻ったブランドルの勇気は世界中でニュースになった。

他にも注目を集めたレースがある。1998年、レースをリードしていたマクラーレンのデビッド・クルサードが最終ラップでチームメイトのミカ・ハッキネンにポジションを譲ったのだ。2人のドライバーは、決勝で最初に第1コーナーに入った者が勝利の権利を得るという紳士協定を結んでいた。これが後にF1におけるチームオーダー禁止につながる。

2001年は悲劇の年だった。5周目、ラルフ・シューマッハとジャック・ビルヌーブのクラッシュで外れたホイールがマーシャルのグラハム・ベバレッジ氏を直撃し、命を落とす。彼の死を受け、ホイールテザーの装着が義務づけられた。翌年のレースでは、22人のドライバーのうち11人が1周目のアクシデントで姿を消すという波乱の中、母国でデビュー戦を迎えた新人ドライバーのマーク・ウェバーが5位入賞の快挙を成し遂げている。

2006年はコモンウェルス競技大会と重なったために、メルボルンは定位置となっていた開幕戦の座を明け渡したが、2007年には再びカレンダーのトップを奪還。オーストラリアでのレース時間は常に議論の対象とされ、欧州の視聴者が見やすいナイトレースへの移行を主張するバーニー・エクレストンの要求を主催者側は今のところ拒否し続けている。2009年からは現地時間午後5時スタートという妥協案を飲み、これが同地でのイベント継続をつなぎ止めたようだ。